1-4
寝室の外からの物音が菟田野との会話が終わるとなお一層その音がよく聞こえてきた。
「ナユタが掃除をしてるんだよ」
と、菟田野が教えてくれた。
「この家に入った瞬間にナユタが警告を出したんだ。多量の有害な埃を察知して居ても立ってもいられなかったそうだよ」
「有害って」
言い方につっこみたくもなったが、思い返してみれば確かにここ数ヶ月は熱心に掃除などしなかった。
「この寝室はもう掃除を終えているよ。君が来たときには居間を掃除中だった。今はどこだろうね。台所とか、トイレとか」
菟田野の言葉が頭の中を通り抜けていく。聞いている途中から嫌な予感が湧いてきて、布団を払いのけて寝室を出た。
「どうしたんだい」
鷹揚な菟田野の問いかけが後から追いついてきた。
大慌てで廊下を走り、角を折れた。バケツとモップを持って扉に手を掛けているナユタが引き違いの二枚扉の前にいた。
「開けるな!」
ナユタはすぐに声に気づいて俺を振り向いた。その隙を突いて脇を滑り抜け、ナユタの前に割り込んで両腕を横に突っ張った。
「開けないと入れません」
ナユタが淡々と言ってきた。
「ここは掃除しなくていい」
「でも、レーダーに反応があります。床にたくさん紙が散らばっていますし、油の痕もあります。床拭きを念入りにしないとシミになりますよ」
「俺は油絵を描いているんだ。ある程度周りが汚れるのは仕方ない。それにな、勝手に掃除されるのは嫌なんだよ」
「でも、ゴミが」
「ゴミじゃ無いものも混ざってる」
熱が入り、言葉尻がつり上がってしまった。
ナユタの顔つきがさっと青くなる。微かに怯えているようだ。大脳皮質の素体だけはあると菟田野が言っていたのを思い出した。どんなに未発達な心を持った生き物でも怯えはするということか。などと学者みたいな分析を頭を振って遠ざけた。
さりとて、こんな子どもを怯えさせるのは憚られる。
俺は横に張った腕の力を緩め、指を髪に絡めて掻いた。
「あ、反応が」
ナユタが言う。何のことかと思ったが、見てみると足下に落ちた髪の毛を指していた。ナユタはその場ですぐに床をモップで拭き、それから俺の頭を見つめてきた。
「髪の毛の手入れが足りていません」
「ちゃんと洗っているよ」
「いいえ、足りてません。不潔です」
「俺は気にしないが」
「匂ってますよ」
「えっ」
髪に絡ませたままだった手を離し、鼻元に寄せて嗅いでみた。匂っているのか、わからない。そうと言われればそんな気もする。
「お風呂場へ行きましょう」
と言って、ナユタが俺の袖を掴んで引っ張ろうとする。
「待った。髪くらい自分で洗うから」
「本当ですか。誓いますか」
「誓うなんて、大袈裟な」
「不潔なことは嫌いなのです。身体に毒ですから」
どうにも断りきれなかった。
お風呂の湯の沸く間に寝室を覗いてみたら、菟田野がいなくなっていた。勝手に入って勝手に出て行ったことになる。呆れることも通り越して、がっくりと肩を落とした。
椅子に座っていると、ナユタがすぐにお茶を運んできた。俺にとっては縁の無い習慣だ。
「そんなに何でもかんでもやらなくていいんだぞ。召使いじゃあるまいし」
「でも、面倒を見るようにと菟田野さんに言われましたので」
「君が、俺の?」
「はい」
「何言ってるんだ、あいつ。それじゃまるで俺に言ったことと真逆じゃないか」
この状況はいったい何なのだろう。召使いとは言わないまでも、小さなお手伝いさんをもらい受けたようなものだ。与えてくれた菟田野自身が何を考えているのかはさっぱりわからない。
「だいたいなんで女の子なんだ」
小さく呟いたのだが、ナユタは聞き取ったらしく、「何か?」とじっと見つめてきた。俺は慌てて首を横に振った。
着替え処まで入ってこようとするナユタを追い払って、風呂場に入った。指摘されたとおり、頭は念入りに洗っておいた。
夏も間近な、温い夜。気の早い蝉の鳴き声がうっすらと聞こえてきていた。
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