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 大雑把に言えば、それは鳥の絵だった。

 随分と色遣いの鮮やかな鳥だ。羽根の一枚一枚が異なる色合いを帯びていて、輪郭が奥の空とも同化している。その空もまた虹色に輝いている。全体像を把握するのも一苦労だ。それでも鳥とわかるのは、羽根の形が確認できて、金の嘴らしきものが見えて、そしてそもそものタイトルが『鳥』と名付けられていたからだ。

「素晴らしい絵ですなあ」

 言ったのは俺ではない。俺の隣にいた老人だ。小柄なその老人は室内だというのに中折れ帽を被っている。白髪の生えた顔つきはとても穏やかで、目だけがきらきらと輝いている。絵が好きで、そしてとても暇な、富裕層の一人だろう。

「そう思いませんか」

 老人は穏やかそうな両目を俺に向けて、そう言った。俺は微笑みを返した。見えてなどいないが、ぎこちないと自分でもわかった。

 見知らぬ他人に話しかけるなんてよほど暇な人なのだろう。答えに困っている俺の戸惑いにはまるで気づかず、「お兄さんの髪、長いねえ」などとたわいないことを言ってくる。

「あいにく、絵のことはそこまでわからないので」

「難しいことは考えなくていいのですよ」

 老人はまた目を絵の方に向けた。

「感じたことをそのまま捉えればいいのです。この絵を見て、私は楽しく感じました。だから、この絵はいい絵なのです」

 老人の言葉はもう俺の方へは向いていなかった。有閑老人の独り言だ。俺は微笑んだまま、一歩離れ、二歩離れ、「失礼」と呟いてすたすた歩いた。

 その画廊は画家の知り合いの主催した個展だった。東都の片隅のアートギャラリー。来ている人は主催の関係者か、絵の好きな人か、暇な人。この分類で言えば俺は一番初めのグループにあたる。

 俺は絵を描いて、売って、お金を稼いで生きている。

 五年前、デビューして間もない頃にイベントに出品した作品が讃えられ、その一時期は全国的にも名が知られていた。その成功の余波で未だに仕事が来ることもある。

 しかし、絵が好きかと言われたら、素直には頷けない。

 絵から受ける感銘が、このごろ少なくなっていた。友人の絵にしてもそうだ。鳥の絵だから、様々な色彩を描いているから、空と同化しているから、だからどうしたというのだろう。もちろん何かしら意図があるのだろうとは思う。でもその意図をわざわざ追うだけの意欲がなかった。根本的に絵の内容そのものに興味が湧かなかったのだ。

 先ほどの老人の問いかけに返すならば、俺の受けた感想は「凡庸」の一言だ。せっかく誘ってくれた友人には申し訳ないが、俺はもうこの個展に飽きてしまっていた。

 お金を払って一時間は見て回った。作品の半分は見た。タイトルは半分も思い出せない。

「再入場の予定はありますか」

 ガイドロボットに尋ねられて、今後開催予定の展示のご案内が運ばれてきたが全て無視をした。「主催とは会えますか」と訊いてみたら、耳障りなブザー音とともに、ガイドロボットの胸元のパネルに大きく×マークが浮かんだ。

「申し訳ありません。主催はただ今応接中です」

 機械音声を遮って、個展の奥から「やあ、あなたが」という声が聞こえてきた。覗いてみたら、道の先に主催が入り口に背を向けて立っていて、先ほど俺と会話した老人となにやら楽しげに話していた。

「お呼び出ししましょうか」

「いいよ」

 短く答えて外に出た。六月の夕方の陽射しが暖かく降り注いでくる。このままどこかへ歩きたくなった。もう振り返りたいとも思わなくなっていた。


 ここ椿姫市は歴史のある都だ。

 かつては南に広がる湾口を求めて幾人もの旅人が集まる港町だった。他地域との船の行き来が外国との輸出入に代わり、物欲の赴くままに集まってきた往来の人たちが定住して数百年栄え続き、この国でも有数の都市となった。十七年前の大戦争の被害も逃れ、高いオフィスビルや商業施設が隆々と聳え合っている。

 よりよい生活を望む。人の欲望が発展を生む。技術者から出発して大会社の社長にまで上り詰めた俺の父親、咲良寅彦も、人々の欲望を掬い取って巨額の富を物にした。今は亡きあの男の功績により、街のいたるところでロボットが景気よく稼働し働いている。

「俺の立身は、大衆が求めたものをたくさん与えてあげたからだ。竜水、お前も将来は人の役に立つ仕事を果たせ」

 寅彦がいつも繰り返していた言葉を不意に思い出し、苦い唾が込み上げてきた。

「俺は俺ひとりの人生を大切にしたい」

 怒鳴りつけたその言葉が、寅彦と交わした最後の言葉となった。良い返事など受けもせず、結局和解することもなく、寅彦は墓の下で静かに永遠に眠っている。


 歩道橋を登り、欄干に手を載せ空を仰いだ。飛行船が空を飛んでいる。埋め込み型の電光掲示板には天気予報が描かれていた。明日の気温は22度。晴れマーク。洗濯日和。雨の心配はありません。

 胸ポケットを探り、タバコケースを見つけた。何も残っていない。金はいくらかあるが、使ってしまうのももったいなく思い、結局何もしないまま欄干を離れ、歩道橋を降りた。自動車がたくさん走っている。どれもこれも自動制御車だ。渋滞はどこにもない。すぐ近くにある警察署が入り口前に掲げた事故件数のディスプレイには堂々と0が示されている。

 平和な一日が今日も過ぎていくのだろう。戦災を免れたこの街には、復興などという煩わしい課題はどこにも残されていやしない。

 十七年前、世界中を巻き込んで行われた大規模な戦争が終わりを迎えた。俺が生まれたちょうどその年が開戦日であり、世界で初めてロボット兵器が実戦投入された戦いでもあった。戦後当初は忌避されていた軍事技術の数々も時代の流れとともに民間の企業にまで浸透し、拡散された。寅彦の成功はその潮流を巧く読み取ったが故だ。椿姫市には、精度の良い人工知能を積んだロボットが街のあちこちに広まり、事故の類いは未然に防がれ、事件の類いは即座に解決されるようになった。

 椿姫市は大きく発展した。その一方で、二〇歳で一念発起して画家を目指し、寅彦と喧嘩して家出してからの俺の九年間は下り坂をひたすら転がり落ちていくような毎日だった。


「俺にしかできない表現があるんだ」

「お前さん、そればっかりだな」

 カウンターの向こう側で板前が言い、やかましい声で笑った。何笑っているんだと言い返す力も湧かなかった。

 夕暮れ過ぎて夜が来て、行きつけの寿司バーに入って小一時間。俺はずっと日本酒ばかり飲んでいた。

「そればっかり言って、何か悪いんですかあ」

 酔っていた。紛れもない事実だ。日本酒の冷たさが喉に沁みる感触に打ち震え、お猪口に伸びる手が止まらなくなっていた。

「悪かねえけどよ。口ばっかり達者でも仕方ないだろう。十年くらい前はそこそこ名前も売れたけど」

「七年前だ」

「はいはい。それにしてもだよ、近頃碌に絵を描いてないって話しじゃないか。生きていけるのかいそれで」

 顔なじみの板前は眉を八の字にして尋ねてくる。行きつけになって幾星霜。俺の画家としての隆盛も知り尽くしている。絵のことはからきしわかっていないド素人だが、そのために却って気楽に接していられる相手だった。

「大丈夫ですよ。金なら、会社を継いだ姉貴が毎月口座に振り込んでくれっから」

「お前さん・・・・・・」

 板前が唖然としているのを尻目に、俺はまた一杯日本酒を煽った。

 板前が顔を顰めているのはよく見えている。世間一般に言えば俺は寄生虫も同然なのだろう。心苦しくないわけではない。でも、考えすぎたらもっと辛い。だから考えずに酒を呑み続けた。

 夜は更け、客の出入りも激しくなった。

 先刻板前に話したとおり、俺の銀行口座には実業家である姉から毎月お金が振り込まれる。絵を描いて生きる分には申し分ない額だが、遊興するには寂しいほどの額。酒を飲むのに使える額は限られている。追加の注文は憚られ、お猪口に注いだ一杯を大事に少しずつ吸っていった。

 いつしか板前がちらちらと視線を飛ばしてくるようになった。目が合うと、顎で周りを差しもする。こうして意見を伝え合うのも仲良くなった証拠だ。俺は満面の笑みを湛えて返事の代わりとした。

「何笑ってるんだよ、金がないならそろそろ帰りな」

 苛立ちを露わにした板前の腕が俺の襟を掴んで放った。踏ん張ることもできず、尻餅をついた。店内がにわかに沸き立った。頭の中に血が上ったが、それよりもまず目が潤んで仕方なく、金を置いて頭を下げて急ぎ足で店を出た。笑い声はまだじっとりと耳に響いていた。


 宵の空に星が煌めいている空の下。まだ少し肌寒かったが、酔いの回った俺の身体は火照っていた。ささくれだった心も喧噪を離れて快楽に紛れ、自然とスキップを刻みたくなる。というよりもむしろ止まると吐き気が威勢良く上ってくるのだ。誰が見ているかもわからない世の中だ。店で食べた物を道端に吐いていたなんて話をあの板前に聞かれたらいよいよ出禁になるかもしれない。人間関係など煩わしくて仕方がないが、自分からむざむざと破壊するのは忍びない。だからつまりはそういうわけで俺は必死に跳ね続けた。

 幾筋かの道を通り過ぎ、高い塀の建ち並ぶ高級住宅街を抜けた。喧噪を離れて静かになってゆく道の先、しなびた神社の鎮守の森に埋もれるように俺の借家がある。俺の姉からの借り物で、一人で生きていけるようになるまでは使っていていいと言われていた。

 一人で暗い道を歩いている間、邪魔するものも何もない。昔のことが止めどなく思い起こされた。

 七年前、終戦十周年の式典がこの国の東の都で開かれた。平和なメッセージとして絵画の出展が求められた。趣旨と作品とを照らし合わせる審査はあったが、そのほかは何を描いても自由。採用可能な作品数も千点を超えていた。一介の画家が名前を売るには良い機会だった。

 俺は式典の一年前に商業画家としてデビューはしていた。工業系の大会社の家督を継がずに絵描きになった俺は奇異の目で見られた。必ずしも良い視線ばかりではなかったが、注目を浴びたという意味では好都合だった。周りの連中に見せつけるように、俺は自分の心の中に溢れているありったけの色彩を油絵の具に込め、キャンバスにねじこんだ。

 式典で描いたのは森の絵だ。山ほどの木々を並べ立てて染め上げ整え削り取って、とにかくキャンバスをどぎつく埋め立てた。並んでいた絵の中で一番濃く染まっていた。それが良かったらしく、今時珍しい実直さだと評判になり、式典の後に功労者として讃えられた。

 それが俺の人生で一番輝いていた瞬間だった。

 式典以来、俺は何も褒賞をもらっていない。たった一度の成功以降は、何を描いても、あの式典の絵よりも良くないというレッテルを貼られてしまった。自分の首を自分で締めるとはまさしくこういう事態を言うのだろう。俺は次第に絵が描けなくなった。何を描きたいのかも、何を求められているのかもわからなくなった。俺の中で折り合いがつかなかった。筆を握って油絵の具を溶いても、キャンバスに塗りつけているうちに失敗だと感じて破り捨てるようになった。

 空の星が回っている。ものすごく早く、小さく回り、時に二重になった。自分の視界が回転していた。吐き気をおぼえ、帰り道を急ごうと足を踏み出したが、力が入らなかった。先へいこうとするとどうしても身体がふらついた。

 相当な酔いが頭を苛んでいた。一度気づいてしまったら、頭痛は止まなかった。歩く度に釘に刺されているようだ。立ち止まって、電柱に寄り添い呼吸を整えた。家に帰るまでは堪えたかった。このまま道端で吐けば、ただでさえ浅い近所付き合いが険悪に染まりやがて失われてしまうかもしれない。

 不安にさいなまれながら、ようやく借家が見えてきた。途端に俺は駆けだして、玄関の戸を開き、そのまま倒れた。

 頭の痛みが限界に達していた。もう一歩も動けない。起き上がるのも億劫だ。

 このまま眠ってしまおうか。

 そう思ってさえいたときに、家の奥から物音がするのを聞いた。

 この家に誰かいる。

 そういえば、玄関の扉が開いていた。出かけるとき、鍵は閉まっていたはずだ。俺以外でこの家の鍵を持っているのは、姉くらいのはずだが、事前の連絡は何もない。

 考えようとすると頭がずきずきと痛んだ。

 気味の悪さを感じつつも、身体が動かないのでしかたなくじっと寝そべっていた。

 物音は、足音らしかった。

 すすっと床を擦る程度に誰かが小走りに歩いている。板張りの床のきしむ音とともに、その人はだんだん近づいてきた。

 その人の足が見えた。床にうつぶせに倒れている俺の頭のすぐ脇にまでやって来た。淡い水色の可愛らしい靴下を吐いた小さい足。姉、かと思ったが、違うみたいだ。第一、姉ならまず先に話しかけてくるだろう。不思議に思っているうちに、俺の腕が握られた。信じられないくらい冷たい指だった。

「脈拍が基準値より大幅に高いです」

 澄んだ声だ。綺麗というよりも、整っている。それでいて幼さがわずかに残っていた。まだあどけない子ども、それもとても落ち着いた子どもの声だ。

 問い詰めようと思い口を開いたが、その隙をついて胃の中身が躍動した。俺は言葉を切って荒く息を吐いた。そこへ手が伸びてきた。綺麗な白い掌が俺の口の前で僅かに開かれた。

「アルコール濃度が異常値です。拡張された脳内の血管が神経を圧迫しています。頭痛が起きていると推測されます」

 病院の簡素な診察ガイドのような言い方に憤慨しているうちに、俺の身体の下に手が回された。身体が回されたお陰で相手の顔が見えた。見たことのない少女だ。目の覚めるような銀色の髪を持ち、耳には細長い台形のカバーがついている。

「降ろせ」

 ようやく声になったのだが、少女は返事もしなかった。当然降ろす気配もなく、それどころか俺の身体は易々と持ち上げられてしまった。

「うひゃあ」

 我ながら情けない声が出た。それくらい心底驚いていた。小さな子どもに抱き上げられる経験など滅多にない。吐き気や頭痛も忘れ、驚きに震えていた。

「危険な状態です」

 少女が冷たく言い放ち、俺の腕を持つ手に力が籠められた。

 ちくりと痛みが走った。注射をされたようだ。そう思っているうちに、視界がぼやけていった。

「鎮静剤です。ご安心を」

 とてもじゃないが安心はできなかった。それなのに身体は言うことを聞かず、どんどん意識が沈んでいった。

 眠気が完全に意識を飲み込む直前に、どこか遠くから、拍手の音が聞こえてきた。

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