第四章 幕末の戦いと新撰組崩壊
1 幕末においての新撰組の変遷
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芹沢らを粛清した後の新撰組は近藤派が実権を握り、勇が一人局長の座に就いた。
八月十八日の政変や池田屋事件、禁門の変等の功績を讃えられて朝廷、幕府、会津藩から感謝状と200両余りの恩賞を受けた新撰組は、第二次の隊士募集を行った。
近藤に先駆けて江戸に行った藤堂平助は同門の伊東甲子太郎を勧誘、入隊させる。
伊東の加盟は近藤が熱望したものだといわれている。
この少し前、近藤の傲慢な態度を遺憾とした永倉・原田らが会津藩主松平容保公に非行五ヶ条を提出している。
これは「局長近藤勇は池田屋事件等で活躍した事で幕府からの扱いが格段に上がった事をきっかけに、態度が大きく傲慢になってしまった。同志の自分たちをまるで家臣のように扱う。」といった趣旨のものであり、近藤を貶めるというよりは以前の姿に戻って欲しいという一心での行動だったと思われる。
近藤は局長ではあるが元々江戸の一道場の道場主であって、永倉らは剣術の流派は違えど同志であった。
同じ立場の人から偉そうにされたら不満も溜まるだろうと、作者は思ってしまう。
元治二年二月二十三日、総長山南敬助切腹。
脱走の後、追っ手として差し向けられた沖田総司によって連れ戻され、沖田の介錯で果てた。
生きたまま連れ戻したのは見逃す為だったのかも知れない。
だが、永倉や伊東から再度の脱走を薦められても覚悟を翻す事なく切腹した。
試衛館以来の同志の死は近藤にとっても心苦しいものであっただろう。
慶応元年(1865年)九月、将軍・徳川家茂は京都御所へ参内して長州再征の勅許を得た。
再征勅許の獲得により幕府は長州訊問使なる者を派遣することを決定し、長州側との会見場所は安芸国広島県となった。
近藤はこれを受け、訊問使への同行を願い出て許可された為、武田観柳斎、伊東甲子太郎ら隊士8名とともに広島へ向かった。
しかし幾度の交渉にも関わらず拒否され続け、結局何の成果もなしに京に戻る事となった。
慶応二年六月、第二次幕長戦争が勃発するが、七月に将軍家茂が急死したため、急遽長州征伐が停止される。
同年九月、伊東甲子太郎らが近藤と時局を論じた。
伊東が勤王を説き孝明天皇の衛士になることを主張したのに対し、近藤はあくまで幕府への忠誠を語った為、議論は平行線となった。この一件から近藤は伊東らの分離を警戒したという。
そして慶応三年、伊東甲子太郎、藤堂平助、斎藤一ら十三人が御陵衛士を結成して離隊。(斎藤は後に復帰)
その数ヵ月後には幕臣に取り立てられた。任務として要人警護も加わった。
近藤は旗本の身分となる。これにより近藤は各要人との交渉を行ったり演説を行った。
同年十月、薩摩藩、長州藩に対して討幕の密勅が下ると、将軍徳川慶喜は大政奉還を行いこれを回避する。近藤はこの事を批判したという。
そして慶応三年十一月、近藤は伊東を酔わせ、帰り際に大石鍬次郎らに暗殺させた。(油小路事件)
その後他の御陵衛士たちを誘い出して夜襲し、藤堂らを殺害した。
同年十二月、近藤は伏見街道で何者かに銃で撃たれて負傷する。御陵衛士の残党の報復だと思われる。
その為、鳥羽伏見の戦いでは隊を率いる事が出来ずに大坂城で療養している。(病気が進行していた沖田も同行したという。)
慶応四年一月三日、旧幕府軍と新政府軍の間で鳥羽・伏見の戦いが発生する。
新撰組は近藤の代わりに土方が隊の指揮をとって、伏見奉行所で戦った。
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