2 近藤勇の最期
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鳥羽伏見の戦いで敗れた新撰組は江戸に戻る。
その後幕府の命を受け、大久保剛と改名した近藤は、甲陽鎮撫隊として隊を再編し甲府へ出陣したが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走した。
その際、意見の対立から永倉新八・原田左之助らが離別する。
その後、大久保大和と再度名を改めた。
慶応四年四月、下総国流山に陣を移すが新政府軍に包囲され、越谷の新政府軍本営に出頭する。
しかし近藤勇だと悟られてしまい、その為総督府まで連行される。
近藤は大久保の名を貫き通したが元隊士だった加納鷲雄に看破され、捕縛された。
そして四月二十五日、板橋刑場で斬首された。享年35歳。
首は板橋と大坂の千日前、京都の三条河原でさらし首にされた。その後、首の行方は不明である。
近藤の遺体は東本願寺法主が受け取り埋葬したとされるが、一説に同志により奪還され、愛知県岡崎市の法蔵寺に葬られたともいわれ、同寺に首塚がある。
またJR板橋駅前にも永倉が建立した墓所がある。
福島県の天寧寺には土方が遺体の一部を葬ったとされる墓があり、山形県米沢市の高国寺にも首を埋葬したとされる墓がある。
人物像としては、おおらかで器が広く、正に人の前に立って引っ張っていく才能があったといわれている。
口に拳骨をそのまま入れるという特技を持っており、加藤清正や大石内蔵助に憧れていた。
近藤が江戸に開いていた道場「
百姓の家に生まれて剣術の腕を見込まれて道場を継ぎ、最後には200名以上の大所帯の局長にまでなった近藤勇。
その半生はどれほど劇的であっただろう。新撰組としての活動は壬生浪士組時代も含めて五年。
その時間は一瞬だったのか、もどかしい程長く感じたのか。
そして今の世の中は果たして、近藤にとって理想とするものになったのか。
『誠』の一文字の元、自分の正義を掲げて戦い続けた近藤勇という一人の人間に是非聞いてみたいと思う。
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