5)伊東甲子太郎
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常陸志筑藩士(郷目付)、鈴木専右衛門忠明の長男として生まれる。
忠明の借財が原因で家名断絶となり、一家は領外へ追放される。
伊東は水戸へ流れ、そこで神道無念流剣術と水戸学を学んで勤皇思想に傾倒する。
後に深川佐賀市の北辰一刀流剣術伊東道場に入門するが、道場主の伊東精一に力量を認められて婿養子となり、伊東大蔵と称した。
元治元年(1864年)十月、同門の藤堂平助の仲介で新撰組に加盟。翌月には他の同志たちと上洛した。
この時の年号(甲子)に因んで伊東甲子太郎と称する。
参謀兼文学師範に任じられる。容姿端麗で巧みな弁舌から、人望は厚かったと伝わる。しかし伊東と新撰組は攘夷という点では結ばれていたが、新撰組は左幕派で、伊東は勤皇(倒幕)を説こうとする方針だった為、密かに矛盾が生じていた。
慶応三年(1867年)、薩摩藩の動向探索と御陵警備任務の拝命の名目に新撰組を離脱し、同志らと共に御陵衛士(高台寺党)を結成する。
慶応三年十一月、近藤は妾宅にて伊東を歓待して酔わせ、帰途にあった油小路の本光寺門前にて暗殺させた。
これを油小路事件という。
伊東の遺体は路上に放置され、御陵衛士を誘い出す手段として使われた。
収容に来た御陵衛士は待ち伏せていた新撰組と戦闘になり、藤堂らが戦死している。
慶応三年に四通の建白書を朝廷に提出している。
大政奉還の行われた直後の三通目の建白書では、公家中心の新政府を作り、一和同心をスローガンに広く天下から人材を求め、畿内五ヶ国を新政府の直角領とする国民皆兵等を提唱している。
更に「大開国、大強国」を唱え、積極的開国による富国強兵策に近い考え方を示している。
また、暗殺時の懐には五通目の草稿があり、この案で近藤を説得しようとしていたといわれている。
この内容は徳川家をも政権に参加させるという、坂本龍馬に近い穏健な思想で、公家をトップにする事、畿内五ヶ国を直轄領にする事等は非常にユニークな意見である、と評されている。
また、伊東が薩摩と通じていたという説は誤りであるという意見もあり、その理由として伊東と薩摩が連絡を取った証拠が皆無に等しい事、建白書の内容が薩摩の武力倒幕派と全く違う意見である事、が挙げられるという。
一方新撰組に関していえば、伊東の加盟を近藤は歓迎したが土方は策士だと疑い警戒したと伝わる。
創作作品においては新撰組から見て悪いイメージが定着していて、作者も「秘密主義、裏で良からぬ事を考えている、策士、裏切り者」等といった印象を抱いていたが、実際は「学識が高く腕も立ち、人望も厚く思想が高い」という人物評だったようだ。
これを機に伊東甲子太郎という人物に対して、認識を改める必要がありそうだ。
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