6)藤堂平助


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 藤堂平助は新撰組八番隊組長、のち御陵衛士(高台寺党)。


 永倉新八の手記や他の文献によれば、伊勢津藩主の落胤らくいんとも、伊勢久居藩家老藤堂八座の子との説もある。

 通称の「平助」は、藤堂家功臣の名乗りを嗣いだものとも伝えられ、藤堂の愛刀「上総介兼重」が藤堂家お抱え刀工の作であったという事を考えると、伊勢津藩主の落胤の可能性は低くないとも考えられる。(「上総介兼重」は一介の浪人が持てるような安価な刀ではない為。)



 北辰一刀流開祖・千葉周作の道場玄武館の門弟で、一説によると伊東甲子太郎の伊東道場の寄り弟子でもあったという。(ここで伊東と顔見知りになったとされる。)


 近藤の道場試衛館にも出入りがあり、浪士組募集に際しては一緒に行動して上洛した。


 池田屋事件では最初に斬り込んだ四人の内の一人で、奮戦の結果刀はボロボロになり、額を斬りつけられ負傷している。


 元治元年(1864年)、新撰組は江戸にて大規模な隊士募集を行ったが、藤堂はこれに先立って志願者を募る為江戸に下っている。その時伊東甲子太郎を勧誘したとみられる。


 慶応三年(1867年)三月、伊東と共に御陵衛士(高台寺党)を結成すべく新撰組を離脱。同年十一月、油小路で新撰組に討たれる。

 検死結果によると額から鼻にかけての傷は約21㎝、深さ6㎝に達してほぼ即死であったとされ、残りの同志を呼び出す為、遺体は二日程の間野晒しにされたという。


 永倉新八の(新撰組顛末記)によれば、彼が油小路に向かう前に近藤の口から「藤堂だけは生かしておきたいものだな」と聞き、藤堂が逃げられるように道を開けたが、事情を知らぬ他の隊士に斬られた。


 子母澤寛の『新撰組始末記』によると、藤堂は永倉の真意は汲み取ったものの、魁先生と呼ばれたプライドと同志を見捨てられないという気持ちで新撰組に立ち向かって、斬られたとある。



 性格については、江戸っ子で有意の人材であり、学問においても武術においても秀でていた、といった記録が残っている。


 沖田総司、永倉新八、斎藤一と共に近藤四天王とも称される。


 戦闘の際には常に先陣を切った事から、魁先生という異名をとった。


 試衛館時代から近藤に品行の事でいつも注意されていたらしく、近藤は段々品行の悪い藤堂を阻害していったとされている記述もある。




 創作作品(特にアニメ等)では、いつも明るくて仲間とわいわい騒ぐのが好きなタイプで、斎藤とは真逆のタイプだという位置づけ。


 新撰組を離脱したのも明確な意志があって伊東についていったというよりは、「自分は一体何がしたいんだろう、何をするべきなんだろう」という若さ故の悩みがそうさせたのではないのか、と思われるし悩んだ末の行動、ともとれる。


 なので最期にどういう気持ちで新撰組に斬られていったのか、そこは想像する事しか出来ないが複雑な気持ちになってしまう。



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