4)山南敬助


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 山南敬助さんなんけいすけ―(やまなみけいすけという説あり。)は、新撰組総長。仙台藩出身。

 文武両道の人で特に学識があり、温厚な人柄であったという。「サンナンさん」と呼ばれ親しまれていた。


 近藤勇の道場試衛館に他流試合を挑み、相対した近藤に敗れる。この時近藤の腕、人柄に感服し近藤を慕うようになる。以後、試衛館の門人同様に行動を共にする。


 文久三年二月、浪士組に近藤らと参加、上洛し壬生浪士組の一員となる。


 その後近藤派と芹沢派になった壬生浪士組において、土方と共に副長に就任する。


 新撰組になってからは総長に就任し、局長近藤、副長土方の間に位置する立場となった。


 元治元年(1864年)、伊東甲子太郎らが入隊。伊東は山南と同門の北辰一刀流で、熱烈な尊王攘夷論者であった。学識も高かった故に山南よりも上位の参謀職に付き、格別の待遇を受ける。伊東の入隊により、山南は幹部としての立場を失っていく。


 元治二年(1865年)二月、山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残し、新撰組を脱走。

 新撰組の隊規では脱走は死罪である。近藤と土方は沖田を追っ手として差し向け、山南を近江国大津で捕捉。屯所に連れ戻した。


 脱走原因は諸説ある。山南を追い詰めたのは屯所移転問題だったとされる説。

 壬生の屯所から西本願寺に移るというもので、隊士が増え手狭になったというのは名目で実際は長州藩毛利家と関係が親密な寺である西本願寺を手込めにするという計画が持ち上がった。それに強く反対したものの相手にされなかった事に怒りを覚えて、新撰組との決別を決意させたといわれている。


 それとは別に、当初の目的とは違う道に進んでいる新撰組に対する不満もあったのではないかという説もある。

 それは厳し過ぎるルールを定めて守れなかったら即切腹、脱走した者も必ず探し当てて切腹、または斬殺後見せしめにするという粛清が日常的に起こっていた事実。


 更に京都守護を掲げながらも実際やってる事は志士たちの弾圧、という現実に疑問を感じて、元々勤皇の志を持っていた山南は脱走を試みた、という説だ。


 私的に言うと、このどちらも可能性があると睨んでいる。


 元治二年二月二十三日、切腹死。介錯は山南の希望により、弟のように可愛がっていた沖田総司。


 この時ばかりは鬼の副長で有名な土方でさえも涙を流したといわれている。



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