3)斎藤一


―――


 明石藩足軽、山口祐助の次男として生まれる。

 1862年誤って人を殺害し、京都に逃れた。


 1863年、壬生浪士組の隊士募集に応じ、京都で入隊。

 試衛館には江戸にいた頃何度か足を運んだ事があって近藤らとは同士であった。


 その後新撰組幹部の選出にあたり、斎藤は二十歳にして副長助勤に抜擢された。

 一般的に幹部の中で一番若いのは沖田総司であるイメージだが、実は最年少は斎藤一である。


 後に組織再編成の際には三番隊組長となり、更に撃剣師範等も務めた。



 慶応三年三月、伊東甲子太郎いとうかしたろうが御陵衛士を結成して新撰組を離脱する際に行動を共にしたが、後に新撰組に復帰した。


 これは様々な説があるが、一番有力なのは新撰組からのスパイとして潜入していたとする説だ。


 この時にもたらされた情報によって起きたのが伊東甲子太郎が暗殺された油小路事件だとされる。

 斎藤がスパイであったと裏付けるのが、事件の直後には新撰組に復帰しているという事実である。


 慶応四年一月に鳥羽伏見の戦い、三月に甲州勝沼の戦いと転戦。いずれも最前線で戦った。

 新撰組が散り散りになった後は土方部隊と一旦別れ、隊士たちの一部を率いて会津へ向かった。


 そして会津藩の指揮下に入り、白川口の戦い、母成峠の戦いにも参加した。

 しかし敗戦により撤退。土方と合流したのはこの撤退の最中、猪苗代での事だった。


 その後土方らは庄内に向かい、旧幕臣の部隊は仙台に転戦したが、斎藤は会津に残留して会津藩士と共に新政府軍への抵抗を続けた。


 会津藩が降伏した後も斎藤は戦い続け、松平容保が派遣した使者の説得を受け入れてやっと新政府軍に投降した。


 降伏後は捕虜となった会津藩士と共に始めは旧会津藩領の塩川、のち越後高田で謹慎生活を送った。



 剣の流派は一刀流とも無外流とも伝えられているが、確実な事は不明である。

 特技の「左片手一本突き」から左利きだったという説もあるが、これも定かではない。


 沖田総司や永倉新八と並んで、新撰組最強の剣士の一人といわれている。

 永倉は弟子に「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と語ったという。


「斎藤一」という名は、京都に移ってから新撰組全盛期にかけてのものである。

 上述した通り斎藤は江戸で人を殺害しており、京都へ逃亡する際に山口一から斎藤一と名を変えた。


 その後何度か名前を変えて最終的に藤田五郎と改名し、警察官となる。西南戦争には警察官として出動し、活躍した。


 明治二十四年(1891年)警視庁を退職し、その後は東京高等師範学校等に警備員として勤務した。


 大正四年(1915年)、胃潰瘍のため死去。床の間に座ったまま往生を遂げたと伝えられる。




 謎が多く、人物像がわかるようなものが少ない。無口で仲間とわいわい騒ぐようなタイプではなかったと思われる。

 そういう所が近藤や土方に見込まれ、スパイや裏家業を任せられたのではと私は思っている。



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