2)永倉新八


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 永倉新八は松前藩江戸定府取次役・長倉勘次の次男として、同藩上屋敷にて生まれる。

 弘化三年(1846年)、岡田利章の神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門。十八歳で本目録。


 同年脱藩し、永倉姓を称して江戸本所亀沢町の道場で剣を学ぶ。その後剣術修行の旅を経て、近藤勇の道場・天然理心流「試衛館」の食客となる。



 近藤らと共に浪士組に参加。新撰組結成後は二番隊組長や撃剣師範を務めるなど中枢を成した。


 池田屋事件では、近藤や沖田総司らと共に池田屋に突入。

 沖田が倒れ、藤堂平助が負傷して離脱、永倉自身も左手親指に深い傷を負った中、防具がボロボロになり刀が折れるまで戦った。



 事件後新撰組への幕府からの扱いが変わった事により局長の近藤の振る舞いが我が儘になった事を遺憾とした永倉は、原田らを連れて脱退覚悟で近藤の非行五ヶ条を会津藩主松平容保へ訴え出るなど、近藤や土方との路線対立を見せる。


 慶応四年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでは、決死隊を募って刀一つで突撃する豪胆さを知らしめた。

 江戸に退却後、新撰組改め甲陽鎮撫隊として新政府軍と甲州勝沼にて戦うが敗れ、江戸へ戻ったタイミングで近藤らと袂を分かつ。


 その後、靖兵隊を結成し北関東にて抗戦するが米沢藩滞留中に会津藩の降伏を知って江戸へ帰還し、その後松前藩士として帰参が認められる。

 明治四年(1871年)、藩医杉村介庵の婿養子として北海道松前町に渡る。


 後に義衛と改名し刑務所の剣術師範を務め看守に剣術を指導したり剣術道場を開くなど、得意の剣術を存分に発揮して晩年を過ごした。

 東北帝国大学(現・北海道大学)の剣道部を指導した事もある。



 大正四年(1915年)、虫歯を原因とする骨膜炎、敗血症を発症し、小樽にて死去。



 人物像としては、新撰組の中でも屈指の剣腕を誇り「一に永倉、二に沖田、三に斎藤の順」と記録に残っている。


 我武者羅な性格だったので、「我武者羅」と「新八」を合わせ「がむしん」と呼ばれていた。


 芹沢鴨と同じ神道無念流の為、芹沢とも親しかったという。


 鳥羽伏見の戦い以後大坂、江戸等では土方が不在時には隊長代務をこなす等、土方からの信頼は厚かった。(この時近藤は負傷しており、土方が実質的に隊長であった。)


 非行五ヶ条を訴え出た時の永倉らの主張は、近藤勇を局長と認めるが家臣ではなく同志だとする主張が込められていた。

 真っ直ぐで嘘のつけない、そんな性格だった事が伺える。


 明治二十七年(1894年)の日清戦争開戦時、55歳の永倉は抜刀隊に志願したものの、「お気持ちだけ」と断られる。これに対し「元新撰組の手を借りたとあっては、面目丸つぶれというわけかい」と笑ったという。


 晩年は映画を好み、孫を連れてよく映画館に通ったという。「近藤、土方は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたお陰でこのような文明の不思議を見る事ができた」と語ったという。


 ある時映画館の出口でヤクザにからまれたが、鋭い眼力と一喝で退散させた。(手拭いで戦った、杖を持って追い払った、という説もある。)



 数少ない新撰組の生き残りとして新撰組の顕彰に努め、東京都北区滝野川に近藤、土方の墓(寿徳寺境外墓地)を建立している。


 そして新撰組の活躍を綴った『新撰組顛末期』を記し、後世に残した。


 これによって、「新撰組は悪の人斬り集団、悪の使者」というそれまでの固定観念が崩れ、新撰組再評価の契機となった。



 私がこうやって新撰組を知れたのは永倉新八のお陰であると言っても過言ではないのである。



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