人物紹介

1)沖田総司


―――


 沖田総司は江戸の白河藩屋敷で生まれる。

 父の勝次郎は四歳の時に死去し、母とも死別したとされる。


 九歳頃天然理心流の道場、つまり試衛館に入門、近藤周助の内弟子となる。

 歳は若いが、近藤勇と土方歳三の同門にあたる。


 剣法は天才的で若いながら塾頭を勤めていた。

 しかし無類の天才剣士であったと同時に、教え方はかなり荒っぽいものであったらしい。



 文久三年(1863年)の浪士組募集に参加して上洛、分裂後は近藤らに従い残留して後の新撰組に名を連ねる。


 沖田が人を斬った事を表す初めての記録は文久三年三月二十四日の夜。

 浪士組の一番組に在籍していた殿内義雄だった。


 元治元年(1864年)六月五日の池田屋事件で倒幕派数人を切り伏せ活躍したものの、直後に肺結核により喀血して倒れるとされていたが、その後の新撰組史において依然として活躍している事から、この日に肺結核が発症したとは考えにくいとも言われている。



 慶応元年(1865年)二月、総長の山南敬助が脱走した事件では、追っ手として差し向けられ近江草津で捕らえる。

 山南は沖田の介錯で切腹した。



 第一線で活躍する事がなくなるのは慶応三年(1867年)以降で、鳥羽伏見の戦いには参加できず、大坂に護送される。(最近では鳥羽伏見の戦いに向かう間に負傷し、大坂に護送される船中において肺結核を発症したとする説が有力である。)


 鳥羽伏見の敗戦後、隊士と共に江戸へ戻り、甲陽鎮撫隊に参加するも中途での離脱を余儀なくされる。


 以後は幕臣の松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われたとされ、慶応四年(1868年)に死去。


 近藤勇斬首から二ヶ月後、勇の死も知らずに亡くなった。


 最後まで自分から意見したりはせず、ただ近藤や土方に従い、短い一生を終えた。




 凄腕の一番隊組長としての顔とは裏腹に、当の本人はいつも冗談を言っては笑っていた陽気な人物であったようだ。


 屯所界隈の子どもたちともよく遊んであげていたようで、子ども好きだったのではと伺える。


 それに加え、新撰組に表立って敵対した者以外には人当たりのいい好人物であったという事だ。


 しかし一度剣を持ったら180度人が変わり、沖田に稽古された事のある者は「荒っぽくてすぐ怒る」と近藤より恐れられていた。


 他に「刀で斬るな!体で斬れ!」と教えていた等の言い伝えもあり、その他の記録等を見ても巷に広がる優しく大人しいといったイメージとは随分異なる。


 二面性があったりだとか、新撰組の為なら手段を選ばなかったりだとか、そういう部分があったのではないかと思われる。



 沖田総司といえば創作作品において必ずといっていいほど池田屋での戦闘中に激しく喀血し、倒れ込む。


 しかし現在は上述の通り、研究者の間ではこの説はあまり取られていない。


 事後の長州残党狩りにも参加しているし、翌月の禁門の変にも出動していた記録があり、喀血するほど労咳が進行していたら無理を強いて出動させるとは思えないのがその理由である、という事だ。




 しかし、自分の命を削ってでも戦いたい。新撰組を守りたい。という一心で病気をギリギリまで我慢していたのではないか、と私はそう思ってしまう。



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