3章 そんな夢のない事情はない



      1



 激しく扉が叩かれる音で、私は微睡みから、足を釣って溺れていた時のように引き上げられた。

 部屋は真っ暗。窓もすこしだって明るくない。

 ――深夜?

 いや違う。ここは宇宙ステーション。地球の周りを一定の間隔で周っている施設。私の期待するような朝は来ない。

 じゃあ扉を叩くのは誰?

「加賀谷さん、加賀谷彩佳さん、開けて。起きてるんでしょ?」

 聞き覚えのあるその声に、気に入らないながらも私は安堵してしまった。

 叩き起こされたばかりの重い身体を引きずって、ドアを物々しく開けてやると、茅島ふくみは昨日と変わらない顔つきと、昨日よりも少し動きやすそうな服装で「おはよう」と言いながら、私の部屋へ滑り込んできた。中へ入って、後ろ手で扉の鍵を掛ける手付きも、随分慣れたものだった。

「どうしたんですか……?」

 思いっきり不機嫌な顔を、彼女に見せつけるように、私は尋ねた。

「あれ? まだ寝てた? 凄い寝癖。あと服がぐちゃぐちゃ」

 彼女は勝手に、私の部屋の椅子へ腰掛けた。相手をするのが面倒になって、私はまたベッドに倒れ込んだ。ちらりと時計を見ると朝の九時。何時に眠ったのかは知らないが、明らかに睡眠が足りていない。それなのに、なんでこの女は元気そうなのだろうか。

 眠ろうとしていると、頭に向かって彼女の声が、私を乱すように響いてきた。

「実は、今朝に小ヶ谷さんから連絡があって、これから彼女と会うんだけど、あなたも来てもらえないかしら。私って、小ケ谷さんのこと何も知らないでしょ? 一人で会うのもなんだか気が引けるんだけど。ねえ加賀谷さん、聞いてる?」

「きいてない……」

 無言で彼女は、私の布団を剥いだ。

「酷いですよ……」

「ねえ、起きてって」

 私はしぶしぶ上半身を壁に押し当てながら座った。頭から血液が降りていくような気がした。確かに、さっき彼女に示された通りに、服は皺になっている。よく見れば、あまり清潔ではない。流石に着替えるべきだろうか。

「小ケ谷さんが、どうしたんですか」動く気分にもなれずに、そのままの格好で私は訊く。

「端末を外部バッテリーで充電していたら、連絡があって」

「あれ? 電話ってつながるんですか?」

「何寝ぼけてるのよ。短距離通信だって」

「……ああ、そうですか」

 彼女は足を組んで、端末の画面を私に見せる。昨日より少し短くなったスカートから、少しだけ見える素足が、窓から差し込む地球から反射した光に照らされて、艶かしく見えた。

 確かに、小ケ谷からの通信履歴が存在している。

「彼女、私に会いたいらしわ。どうもなにか考えがあるようだけど、自分たちだけじゃ、どうにもならないんでしょうね。でも私は、彼女のことを信用してるわけじゃないから、一人で会うのが嫌」

「それで、なんで私なんですか」

 もっとこういう厄介事を好む連中がいるだろう。両ちゃんや貞金くんなどは、事件に興味があるのかもしれないが、流石に稚すぎるだろうか。なんなら沼山でも教授でも良い。私でなければ誰でも良い。

「どう見てもあなた、彼女たちの味方じゃないからよ」

「……ゼミ仲間ですよ」

「あなたはそんなこと、微塵も思ってないでしょ」

「…………」

 そんな指摘をされると、何も言えなくなった。

 無碍に断る勇気もない私は、気がつくと彼女の話を承諾していた。

「……囮にだけは使わないで」

「ありがとう」茅島さんは、私の作った壁を解きほぐすように、あまりにもわざとらしい笑顔を、私に向けた。「あなたのことは、私に任せてって、言ったでしょ?」



 茅島さんは、朝ごはん持ってきたわ、と懐から固形の栄養食品の箱を取り出して、私にボールか何かみたいに投げた。昨日の晩御飯に比べれば、あまりにも味気がなかったので、私はまた眠ってしまいたくなった。

 美味しいとも不味いとも言わないで、茅島さんは食べながら話した。食べ慣れている様子だった。

「小ケ谷さんって、どんな人?」

「さあ。よくわかりません。頭は回るみたいですし、友達も多いみたいですけど、性格は悪いです。彼女のことだから、なにか見つけたんじゃないでしょうか」

「彼女って、学校でもあんなに偉そうなの?」

「はい。何も変わらないです」

「はは、想像できるわ」気がつくと、もう彼女は食べ終わっていた。噛んだ形跡を感じられない。「小ケ谷さん、何を見つけたんだと思う? もう一人の患者に関する情報かしら?」

「あれって、本当なんですか? 貞金くんの嘘かと思ってました」

 あまり食べる気分にもなれず、手で弄びながら、私は言う。

「私も彼の嘘っぱちだと思うんだけど、でも都合がいいのよ、こういう状況でそういう存在って。昔の妖怪みたいなものよ。不可解な現象を、とりあえずで納得するための、便利な概念よ」

 食後のひとときを楽しむように、茅島さんは椅子の背に肘を置きながら、私の方を向いた。

「まあ、本当にそんなのが実在したら、それはそれで万事解決、あなたは地球に帰れるんだけど、でも冷静になって。ステーションの広さって、知れたものよ。人一人を完璧に隠匿できる場所があるかしら。手術室のある医療セクションだって、そんな所は思いつかないわ。となると冷蔵室くらいしかないんだけど、あんな所、遺体を隠せても中で生存はできないし」

「帰れるなら犯人なんてどうでも良いですよ……」

「小ケ谷さんはどう考えてると思う? 犯人を探したい? それとも、ここからどんな手を使っても脱出したい?」

「……彼女は」

 とにかく自分の評価を上げることに、身を削るような努力をする人間だった。そのためには目も当てられない汚い手も、平気で行使する。思うに、地球上の全ての課題は彼女のためにあって、それをこなすことで世界を統べる女王にでもなろうとしているみたいな、大きすぎて無謀とも言ってしまいそうな野望を、彼女からは常々感じていた。

「……犯人を捕まえたいんだと思います。それも必ず自分の手で。彼女、そういう人間ですよ。自分が一番偉いと思っていて、他人が自分より評価されるのが許せないんです。多分、茅島さんが犯人を捕まえようとしていることに対して、変な対抗心があるんじゃないですかね」

「あなたイライラしてるわよ。そんなに小ケ谷さんのことが嫌いなの?」

 そう言われて、私は身体を布団で隠した。

「なんか耳で聞いたんですか」

「別に。声色が苛立ってるだけ」

「……そうですよ。大嫌いです、あんなやつ」

 ゼミ合宿と聞いて、頑張ってあんな人間に好かれようとしていた私は、単なる間抜けだった。そのことを思い出して、また死にたくもなった。

「私は好きよ。あなた」

「はあ……?」

 形の良い瞳で、まっすぐに顔を見つめられて、そんなことを口走る茅島。

 目を丸くしていると、けたけたと笑い始めた。

「はは、どう? 面と向かってこう言われてもまだ私のこと嫌い?」

「危ない目に遭わせた癖に何言ってるんだお前、ふざけんなよ」

「ちょっと、怒らないでよ。悪かったって」笑いながらも茅島さんは謝った。「でもね、これだけは言いたかったんだけど、あなたの声って、聞いているとすごく落ち着く」

「気持ち悪いこと言わないでくださいよ」

「いいえ、これは本当。私って耳が良いから、他人の声って基本的に耳障りなんだけど、あなたはだけは違った。あなたは他人と違って、ストレスを感じない。だから本当に、少し気に入ってる。最初はなんか、うじうじしてて、悲劇をかき集めて悦に入ってるみたいな態度が嫌いだったけど、何故かずっと気になってて、見てるうちに、実はそんな人間じゃないのかなって。もっとこう、生きるのに根本的に向いてないみたいな……」

「……怒りますよ」

「嘘ね。好かれて喜んでるでしょ」

「…………」

 私は息をするのをやめた。

 茅島さんは立ち上がって、冷蔵庫から勝手に水を二人分取り出すと、片方を私に突き出した。のどが渇いていたので受け取ったが、そもそもこの水は私の部屋のものだった。

 ごくごくと水を飲む彼女を、珍しげにじっと見つめた。

 身体が機械化されているようには、外見だけではわからなかった。

「あなた、趣味は」

「突然どうしたんですか」

 思い付きのように話題が飛ぶ女だった。

「小ケ谷さんと会う前に、あなたのことを知っておかないと不便だわ」

 自分の情報を言う度に、弱みを握られるような気がしてしょうがなかった。

 私は布団を固く握った。

「趣味は……食べ歩き、です」

「へえ。意外。食にも興味が無いのかと思ってた」

「三大欲求なんで、誰だって興味くらいありますよ。ただ飲食店は、なんていうか、お金さえ払えば私でも他の人と同じサービスが受けられるのが、すごい気持ちいいんです」

「はは、あははは、なによそれ」茅島ふくみはお腹を抱えながら高く笑った。住之江さんと反応がまるで違う。「そんな変な理由で外食が好きな人、いまだかつて聞いたことないわよ」

「良いじゃないですか、何も悪いことしてませんし」

「でもあなた、少し食べ過ぎじゃない?」

 ジロジロと私の身体を見る彼女。

 気にしていることを刺激されて、嫌悪感を覚えた。

「それはあなたが異常なほど細いんですよ」

「ふん、まあ、否定はしないわ」嫌味でもなくそう呟いた彼女。

 改めて観察すると、栄養食品だけで今まで生きてきたというくらいに、身体のすべてが風で飛ばされそうなくらい細かった。私の腕力でも腕くらいなら折れそうなくらい。そして、それに似合わない瞬発力を持っている女だということは、私だって熟知していた。

 質問はそれで終わるのかと思ったが、彼女は予想外の言葉を継いだ。

「じゃあ、異性とお付き合いしたことはある?」

「…………?」

「絶句しないでよ、みんなそういう話するんでしょ、年頃の子って」

「遊びでそういうこと聞かないでください」

「一度やってみたかったのよ。同じ年代の子と雑談。普段そんな機会ないじゃない」

「…………一回だけ付き合ったことは」

「ふぅん。本当ね? それで?」

「いや、別に、なんかバカバカしくなってすぐ別れました」話していて、顔が熱を持っていた。「なんでだろ、お互い興味なくしちゃって。というよりも私自身が、人に思い入れ持つタイプじゃないから、なんか……、ひとりの人間をこうやってずっとキープするっていう行為が、あんまり理解できなくて……もともとそんなに好きってわけでもなかったですし……なんでさほど好きでもない人間に、そんな思い入れを持たないといけないのか、なんて、思ったりして」

「あなたらしいわね」

「そう言う茅島さんはあるんですか?」

「残念ながら、記憶に無いから知らないわ。恋愛自体に全く興味がわかないから、あんまりないのかも知れないわね。雄一郎くんなんて知ってる? 好きな人いるんだって。血気盛んってこのことよね」

 気恥ずかしくなって、私は立ち上がってゴミ箱に空箱を捨てた。

「茅島さん、雑談なんかしてる暇あるんですか?」

「無いわよ」茅島さんは腕を組みながら即答する。「そうだ。最後にもう一つだけ聞かせて」

「くだらないことだったら怒りますよ」

「友人は居たことある?」

 ……。

「はい」

 そう答えると、胸を刺されるような痛みを感じた。

 冷蔵庫の唸りが耳を掠める。

「あなたも、人に心を開くことってあるのね。それは付き合ったことのある人間とは別でしょうね?」

「はい。でも、喧嘩して、それっきりです」

 そう言った私があまりに暗い顔をしたのか、彼女は謝った。

「……それは、聞いて悪かったわ」

 友人でもない女に謝られても何も解決しない。

「いえ、地球に帰ったらちゃんと謝ろうと思ってます」

 嘘。

「…………そう」茅島さんは、言う。「仲直りできると良いわね。手伝いましょうか?」

「乱されそうだから嫌です」

 そんな質問をされたせいで、胸が痛くなってきた。

 変に傷だけを抉られたような気分だった。



      2




「小ケ谷さんたちは倉庫にいるわ。挽地さん、久利さんも一緒。やっぱり仲良いのね、あの人達って」

 挽地と久利は喧嘩した様子なのに、結局一緒にいるのか、と私は思った。まあこんな状況では固まっている方が安全といえば安全だが、それにしても何故倉庫なのだろうか。物は多いが、安全な逃げ場があるわけでもない。

「小ケ谷さんには、あなたを起こす前に『十時に向かう』ってメッセージ送ってあるわ。そろそろ行きましょう」

「あ、待って下さい、着替えと、化粧したいんですけど……」

「もう、そんなの適当で良いじゃない。外にいるわよ」

 彼女は扉の方へ向かった。

 そのあたりに散乱していた着替えを集めて、着ていた物と交換する。色は寝る時まで着ていたものと、あまり変わらない。ゆったりとしていて、丈に余裕のあるスカート。走って逃げるようなことになったら、少々危険かもしれなかったが、ジーンズの類は持って来ていなかった。

 手早く着替えて、ライフラインが止まっているので、洗顔さえ出来なかったが化粧を整えて、昨日脱ぎ捨てた上着を羽織り、髪を梳かす。新しい衣類もあまり綺麗なものでもない。持っている服の絶対数が少ないのだろう。

 端末を指にはめて、出口に向かうと、茅島さんが扉に張り付いていた。外で待っていると言ったのに、何をやっているのかわからなかった。

「なにし――」

 しっ、と彼女が指を顔の前に立てた。そして、手招きをする。

 硬い床を、慎重に忍び足で歩みながら近づくと、彼女は耳元で囁く。

「下向がいる」

 そう告げられて、言葉を失った。

 当然死んでは居ないのだろうが、平然と歩き回っている事実を改めて見せられると、不安が募ってくる。

 覗いて、とドアスコープを指差す彼女。

 この部屋の向かいは廊下と十号室。誰も使っていなかったと思うが、そこを執拗に蹴っている人影が、廊下からの薄明かりで微かに見えた。

 下向。

 見間違いではない。彼は十号室を、無理やり開けようとしていた。

 手には何か、光を反射するほど磨き上げられたものを持っている。

「あいつのあれ、ナイフよ」

 彼女がまた耳元で言う。

「何してるんでしょうか……」

「私に殴られて、ちょっとはまともになったかと思ったけど、私の高望みみたいね。殴り足りないのかしら」

「ど、どうしましょう……」

「いい? 音は立てないで」

「どうするんですか……?」

「あいつが十号室に夢中になってる間に、こっそり抜け出して逃げましょう。ここにいても、時間の問題でしょ。できる?」

 首を振った。

「じゃあ死ぬ?」

 首を振った。

「抜け出したら、左に伸びてる廊下に向かうわ」

「はい……」

「じゃあ、靴を脱いで」

 黙って、言われたとおりにすると、私の心の準備を尋ねることもなく、茅島さんがゆっくりと眼の前のドアを引き、細い身体を隙間から通した。私もそれに続いた。

 下向の立てる音がより一層に身近に感じられたが、私は一歩を踏み出した。靴を脱いでいるので足音は鳴らなかった。当たり前の話だったが、私は地面に触れるまで、信じられなかった。

 もう一歩。暗闇。下向の姿は見えない。だけど音が響く。距離は五メートルくらい。気づかれる様子もない。

 ゴツンゴツンと、彼はドアをこじ開けようとする。

 その音が止まないように祈った。この暗闇は、私達の身を隠す傘だった。

 しかし、音に集中していて、今まで手をついていた壁を、私は見失ってしまった。

 自分が何処にいるのかわからなくなった。

 一歩を躊躇する。

 足先の冷たい感覚しかわからなくなった。

 まるで虚空に投げ出された気分になった。

 どうしよう……

 心臓が激しく動き始める。汗が滴る。

 立ち止まっていると、急に手を取られる。

 驚きで声を上げようとしたが、その掴み方から、それが茅島さんだとわかった。始めから手を繋いでくれればいいのに、と私は心の中で悪態をついた。

 そうして多大な時間をかけながら、私たちは進んだ。

 倉庫へたどり着く頃には、身体が疲れ果ててしまった。



      3



 茅島さんが小ヶ谷響子にメッセージを送り、彼女たちがいるという倉庫の扉が開くのを、立ったままじっと待った。

 恐る恐る開かれた隙間から、挽地ユノが神妙な面持ちをした顔を見せる。生きていたらしい。私を見るなり少し嫌そうな様子だったが、茅島さんが来た喜びで、同時に嬉しそうにも見えた。

「茅島さん、待ってましたよ」

「ええ、待たせたわ」

 中へ通されると、図書室へ向かう時に見た通り、雑多な、使うのか使わないのかわからないような物が目につく。山になったガラクタ、ダンボール、それに紛れて日用品や誰のものかわからない鞄、人一人は入れそうなほどの医療用らしいカプセルなどが、ほとんど捨てられていると言っても良いような状態で、安置されていた。

 複数打ち捨てられていたダンボールの上に、件の小ケ谷響子が座っていた。腕と足を組み、まるで大国の女王だった。私達よりも頭の位置が上方にあったことが、彼女らしさを際立たせていた。側にはまとわりつくように、久利もいた。

 小ヶ谷響子は私を認めると、開口一番に「あら? 加賀谷さん? 一体なんの用なんですか?」と言った。茅島に連れてこられただけで、お前に用なんかない、と抗いたくなったが、口をつぐんで無視した。

 茅島ふくみが立ったまま、くつろぎもせずに、小ヶ谷響子を見つめて口を開く。

「『何の用?』ってのはこっちの台詞よ。小ケ谷さん、なにか事件に関係するような面白いものでも見つけたの?」

「流石ですね。そうなんですよ、茅島、ふくみさん」小ヶ谷響子はダンボールから降りて、茅島ふくみに向き合った。「それで私達、あなたにお願いしたいことがあるんですけど」

 茅島さんよりも小ケ谷響子の方が身長は高く、高圧的な雰囲気をまとっている。私は彼女にこうして見つめられることが、胸の奥が重たくなるみたいで大嫌いだった。

 それでも茅島ふくみは、それにも動じず、直立していた。

「高いわよ。払える?」

「ええ、幾らでも」冗談を真に受けたのか、笑いもせずに小ヶ谷は返事をした。「お金なんて、今何の価値もないでしょ」

「ふん。良いわよ別にお金なんか。で、何して欲しいわけ?」

「ボディガードよ」

 普段生活をしていて、聞くことがないような単語だった。

 当然のように、茅島さんは首を傾げる。

「何言ってんの。私がそんな屈強そうに見えるわけ?」

「茅島ふくみさん、あなた、もう一人の患者のことはご存知?」

 普段であればそんな噂の類を軽蔑している小ヶ谷響子の口から、その話が出てくることは意外だった。

「……誰から聞いたの?」

「貞金くんが話しているのを聞きまして」

「でも単なる噂でしょ。話だけが独り歩きして、実際見たことがある人っていうのは、何処にもいないものよ」

「ええ、そうですね」小ヶ谷響子は素直に頷いた。「だから私達で確かめるんですよ」

 彼女の魂胆が、少しわかってきた。

 小ケ谷は続ける。

「そういう患者が実際に居たとなれば、当然カルテなりの記録が存在します。仮に公的なものは抹消されていたとしても、ここで生活していたという事実は変わらない。痕跡のようなものを見つけられれば、糸口になります。私はそれを見つけたいの。ですが、それにはあの下向が邪魔。さっきも食料を取りに冷蔵室へ向かったんですけど、危うく見つかりそうになりました。なんとか逃げ切ったんですけど、そこで思ったんです。私達では、この暗闇を自由には歩けない。そこで、あなたが必要なんですよ。あなたのことは貞金くんから聞きました。耳を使って、この闇を物ともしないそうですね。本当に素晴らしい能力です」

「光栄ね」茅島さんは無表情で言った。「それで、私にボディガードをしろと?」

「ええ、その通りです。まあボディガードというのは適切ではないですね。協力関係、でどうでしょう。私もこの惨劇を早く終わらせたいので、なるべく優秀な方に、ね」

「単に私の耳を使って便利なセンサー代わりにしたいだけじゃないの?」

「どう取るかはあなた次第よ。あなただって、人員が欲しいんじゃない? 私達なら院長を殺す動機もありませんし、それなりに信頼できるかと思うんですが。得た情報は、全てあなたにお話しますよ。探したい物があれば探しますし、して欲しいことがあれば、なるべく協力しましょう。あなたに出来ないことでも、私なら出来ることが多数あるはずです。どうですか? 協力、しませんか?」

 茅島さんは腕を組んで考え始めたが、しばらくすると小ヶ谷に「ちょっと待って」と声を掛けて、何故か私の方へ近寄ってきた。

「なんです、相談ですか?」小ヶ谷が尋ねた。

「ええ、ちょっと、加賀谷さんと」

「……そんな人と何の相談ができるんですか?」

「教えてあげないわ」

 向き直って、茅島さんは私の耳元で囁いた。

「彼女、自分のことしか考えてない。なにが協力関係よ」

「どうしてわかるんですか?」

「予め考えた文章をそのまま読んだみたいな、演技掛かった口調だわ。本心じゃない。私のことなんて全然認めてないわよ、あいつ」

「まあ、そうでしょうね……。それで、どうするんですか? 断りますか」

「確かに彼女は自分のことしか考えてない。私や周りの友人達なんかも、捨て駒程度にしか思ってないのかもしれない」茅島ふくみはちらりと小ケ谷の方を見た。「でも私だって頭数が欲しいと言えば欲しいし、これから彼女が何をしようとしてるのかも気になる。私に対抗心を燃やしてるようだけど、私は事件を解決できれば、名誉なんてどうでも良い。解決できそうになったら、彼女に適当に犯人を挙げさせて、適当に褒めちぎれば、彼女は満足するでしょう」

「じゃあ、受けるんですか」

 なんだか、嫌な気持ちだった。

「受けるわ。やだ?」

「……別に良いですよ」

 嘘をついた。

 茅島ふくみは小ヶ谷の眼の前に戻って「わかったわ、協力する」と伝えた。それを聞いた小ヶ谷は、見たこともないような笑顔を見せた。あんなに嬉しそうな小ヶ谷の顔は久しぶりだった。同じ講義を受けている優秀な生徒を、ひたすら貶し続けて単位を落とさせた時以来に見たことがなかった。

「それで、何か手がかりはあるんでしょ」

「アテはあるわ」小ヶ谷響子は後ろのエレベーターを指差した。これは……

「図書室?」

「ええ。ここには昔の患者の記録が納められている。昨日覗いた時に把握しました」

「でも図書室だったら、私の助けなんていらないんじゃない? エレベーターで上がってすぐでしょ」

「茅島さんは図書室に詳しいようですし、あそこはもし襲われた時に逃げ場がないんですよ。あなたには逃げ場を作って貰いたいんですよ。私たちにはそれも難しいので。このあと医療セクションも調べたいですし、リスクはなるべく背負いたくないんで」

「……酷い労働条件ね」

「あなたなら造作もないとお見受けしているんですけど」小ヶ谷は微笑んだ。そして、蝿でも見つけたように私を見た。「それで、あの人は着いてくるんですか」

 そんな扱いは、慣れていることだった。

 慣れていると言っても、こんなことなら来るんじゃなかった、と本気でそう後悔した。

「当然でしょ。地球に帰るまで、そうね、私の相棒役をやってもらうから」

 突然に、予想もしなかったことを、茅島ふくみは白々しくも口にした。

 相棒……

 なんだそれ。

 その仰々しい響きに、私は恥ずかしくなって地面に埋もれたくなった。誰か私を殴り殺して欲しい。

「ははは、相棒ですって。良かったわね、加賀谷さん、相棒ですってよ」

 彼女は、私に対する鬱憤をすべてぶつけるように笑った。

 茅島ふくみはそれを見て、不機嫌な顔をした。

 胃が縮まる感触があった。



      4



 図書室へ降り立つと、懐かしい紙の匂いが鼻腔に触れた。

 部屋は非常灯のみが灯されており、目の前の本棚にも、そのままぶつかるのではないかというくらいには、例によって視界が効かない。

 昨日来た時は、いや程に明るかったことを、もはや郷愁さえ感じるように思い出す。

 そして初めて茅島ふくみと会った時のことも。

 最悪だったこの女との出会いから、比べて少しくらいはマシになったのかもしれなかったが、それでもこの女のことを、私は未だに好きになれなかった。表面上は普通に接しているが、まだあのことを根に持っている。

 これは私の問題だろうか。

 それとも茅島ふくみの傲慢さは、一般に非難されるものなのだろうか。

「さあ茅島ふくみさん。探しましょう。えっと、資料等が保管されている棚は、何処ですか?」

 小ヶ谷響子は恐れもせずに、暗闇の方へ足を踏み入れる。

「カルテだっけ。確か、事務の方だったと思うけど……」

「では案内して下さい。友里絵さん、お願い」

 言われると、久利が元気に返事をしながら、端末で光をかざした。茅島ふくみにとっては全く必要ないものだったが、私は少し目がしぼんだ。

 ぼうっとした光で浮かび上がってくる図書室は、形容し難い程に不気味だった。紙の本というのも、まるで呪術が信じられていたような時代性を感じて落ち着かない。ここが急に、科学の及ばない世界になってしまった錯覚に囚われた。

 エレベーターのすぐ脇に、事務スペースがあったことは、茅島さんの案内で解した。事務机が二つほどと、奥に棚が二つほど。備え付けてはあるがほとんど使われていないようで、机すらにすらうっすらと埃が積もっていた。そういえば、図書係はこの茅島ふくみだったと聞いたような気がした。

「私もそんな書類、わざわざ触ったことが無いから、よくわからないけど」彼女は机の引き出しを開けながら言った。「そういう記録っていうのは、大体ナキさんが管理してるの。カルテもどこかにあると思うけど」

「それはわかってます。さっきも言いましたが、先日ここを覗いた時に、見えたんですよ。診療記録があるって」

「それじゃあ手分けして探しましょう」

 小ケ谷は机の周り、久利と挽地は奥の棚。私と茅島さんはその隣の棚を命じられた。

 棚は雑多に紙束が納められていた。何故今時紙なのかわからなかったが、セキュリティの問題といえば難得できなくもなかった。院長もそういうアナログ趣味なところがあるとは聞いた。

「あんなの何処にあったっけ……」茅島さんがボヤいた。「全然覚えてない」

「本当にあるんですか」

 眼の前には、主に薬に関係する書籍が、とりあえず置いただけみたいに乱雑に押し込められている。所々違うものが入っているが、どう見ても整頓されていない。

「あるにはあるはずよ。小ケ谷さんの望む事柄が書かれているかは知らないけど」嫌味のように彼女は呟く。「まあ、私も入院する際に手続きが必要だったから、カルテにせよ何にせよ、記録は当然あるわよ」

「診療記録って、なにが載ってるんですか?」

「さあ。カルテだったら、名前、年齢、病状、どんな治療方法、術後の経過、多分そんなもんじゃない。カルテ以外だと、入退院の記録、退院後何をしているか、ぐらいは施設も把握してるでしょうね」

 ここを出て、無事に地球で働いている人達も、何人かいる。

 彼女もいずれここを出て行くのか。いや究極の静寂がどうと言っている間はその気すらない筈だ。彼女が地球で真っ当に暮らしている様子を全く想像できなくて、私は一人で笑ってしまいそうになった。

「ねえ、茅島さん」

 近くの棚を探していた挽地が、声を掛けてきた。関係ない私が驚いた。

「なに? あった?」

「いや、こっちは全部見たんだけど、ないみたい。全部医学書とか、新品のファイルとか、あとパンフレットとか、あと、なんだこれ、えっと、何も書かれてない外泊届とか……とにかくいろんなものが雑に詰め込んであるだけだ」

「そう。こっちもそんな感じね。もっと整理しておくべきだったかな……。じゃあ、ここにはないのかな……」

「ユノ、ちゃんと探した?」久利が挽地に話しかけていた。

「うん、擦り切れるぐらい入念に」

 久利は喧嘩をしたと言うのに、随分と早い修復力だった。私も彼女らを見習いたくもなった。

 人当たりの良い挽地はともかく、泣いて謝っても許してくれなさそうな小ケ谷にも、このような人を許す一面があるのか、私にはわからなかった。

「ねえ。あなた達ってずっと仲良いの?」突然に茅島ふくみが、彼女たちにそんなことを尋ねた。「大学から?」

「そうだよ。大学からの仲だ」挽地が答える。中性的な声色が、聞いていると少しだけ心地よかった。友人が多いのにも納得だった。音色として心地良いだけで、人間としてはあんまり好きじゃない。「ごく単純に言えば、私が響子のことをひと目で気に入ってさ。友里絵も同じだよね」

「ええ」久利が頷く。こっちは挽地とは正反対で、人に媚びたような話し方だった。どちらかと言えば久利のほうが嫌いだったが、そんなこと今はどうでもいい。「ユノも私も、響子さんに興味があって。一緒に話しかけに行ったっけ」

「そうそう。私らは入学当初から仲良かったんだけど、響子にふたりとも興味あった時は笑ったっけ。でもあの容姿、あの能力、そしてあの性格、誰だって彼女の存在感が気にはなるんじゃない」

「へえ、そうなの?」茅島さんは私の方を向いて尋ねた。私は首を振った。

「は、あんたには理解できないわよ。人との関わりを絶ったあなたにだけは」久利が私を追い詰めた。「あなたくらいのもんよ、一年の時にあった響子さんの自己紹介の時に眠りこけていたの」

「小ケ谷さんってそんなに賢いの?」意図的にか知らないが、茅島ふくみが話題をそらした。

「ええそりゃもう当然ですよ。茅島さんなんてね、彼女に比べたら耳が良いだけの凡人ですよ、凡人」

 棚に凭れながら話す久利の声色に熱がこもってきた。いつもそう。彼女は小ケ谷響子のことになると冷静さを失う。そのブレーキをかけるのが挽地の役目なのだとしたら、集団としてはよく機能していると思った。

「わかったわよ、あんたたちのボスは凄いわ」

「嘘くさいな、ほんとに思ってるんですか?」

「友里絵、油売ってないで早く探すぞ。あと探していないのは、あっちの方かな」

 業を煮やしたらしい挽地が、彼女に声をかける。

「挽地さんは盲信していないんですね、彼女のこと」

「まあ、私は、うん、盲信かどうかはわからないけど、彼女とは良いライバルだと思ってるし……」挽地ユノは頭を掻いた。「彼女の成長材料になれるように私なりに頑張ってるんだけど、でも私じゃ不足だよ。そこで彼女が見つけたのが君だよ」

「私?」

 迷惑そうに茅島さんが呟いた。

「だってこんな優れた機能を持ってる人、地球にはそうそういないからさ。彼女にとって新しいライバル、自分を成長させるための、超えるべきか倒すべきか、そんな相手だよ。私はお役御免ってこと」

 挽地ユノが、そう言い終わると、悲しそうな顔をした。思い出した。私が彼女に親近感を覚えていた部分はそこだった。あの小ケ谷に盲信や嫌悪でもなく、純粋にライバルとして接する人間は、たぶん学内で、いや彼女と巡り合う人間の中でも挽地くらいのものだろう。その部分を意識してしまい、挽地のことを、私は正直な所、好きでもないが嫌いにもなれない。

 挽地がもう少し張り合っていれば、小ヶ谷は今よりも健全になれたのかもしれない。

「迷惑ね、私は彼女に興味ないのに、標的にされて付け狙われるなんて」

「興味ないってあんたね……」久利が気に入らないのか口を挟む。「響子さんが人に興味を持つなんて、そうそうないわよ、少しは光栄に思ったら?」

「別に、光栄には思ってるわよ」

 その後、棚を全てひっくり返す勢いだったが、結局診療記録は見つからなかった。棚は勿論、その当たりのダンボールや、関係のない本棚まで調べたが、徒労だった。後探していない所は、小ヶ谷響子が陣取っている事務机が並んでいる辺りだけだろろう。

 そして肩を落とす私に、茅島ふくみが言う。

「ねえ」

「なんです」

「あの二人ってさ、結局のところ歪んでるわね」

「どうして?」

「久利さんは自分の劣等感を、小ケ谷さんへの盲信に変えて誤魔化してる。挽地さんは彼女と表面上仲良くしようとしながら、裏では叩き潰そうとしている。当たってる?」

 ……。

「よくおわかりで」



 診療記録、カルテは何処を探してもない。

 ここにないとすれば、医療セクションに持ち出されているのか、それとも破棄されたか、いずれかなのかもしれないわね、と茅島さんは告げる。医療セクションを探してから結論を下しても、遅くはないのかもしれないが。

 一人で未だ机を掘り返していた小ヶ谷響子にそう伝えると、彼女も「なるほど、そうですか」と頷くだけだった。

 そんな彼女の手を見ると、何か紙を一枚持っていた。比較的大きめの厚紙だった。あまり日常生活で、頻繁に見かけるものでもない。

「そうそう、茅島さん、これを見て下さい。事務机の中から見つけたんですけど」彼女は手に持っているそれを机に置いて、広げて指した。「なんだかわかりますか」

 近寄って、腕を組みながら紙を覗き込む茅島さん。

「絵、ね」

 私も首を伸ばして見ると、確かにカラフルな色使いの、変わった絵だった。キュビズムか何かだろうか。私は芸術には疎かったので、全く良さがわからなかった。

「小さいこどもが描いた絵ね。形が不安定」

 と茅島さんが指摘すると、なるほど、確かに幼い子どもが描くような絵のように見えてきた。

「私もそう思います。何か気づきませんか?」

「何かって……」

 茅島ふくみはしばらく絵を黙って睨んでいた。

 人間が数人描かれているだけの、至って飾り気のないものだった。描かれた服装から察するに、ここの職員たちだろうか。病衣を着ている人物たちも、手前に描かれている。患者だろう。そしてどちらでもない、一見すると派手な格好の人物が中央。幼い少女。この娘が描いたものだろうか。

「これは……私かしら」指で確認しながら茅島さんは呟く。「ふうん、こんな風に見られてるなんてね。こんなに髪長くないわよ。しかし病衣って、私には似合わないからあんまり着たくないのよね……検査の時には着なきゃいけないんだけど……」

「茅島さん、そういうことを訊いてるんじゃありません。いいですか、これはあなた、そしてこれは背格好から貞金くん、隣は両さん」小ケ谷響子が、どこか自慢げに指し示していく。「こっちは職員、髪型から岩脇さん、住ノ江さん、そして院長。下向さんと、饒平名さんは見つからない。間違いないですか」

「だと思うけど。きっと中央の娘が描いたのね。年齢的にも、こういう絵しか描けない年頃だと想う。院長の知り合いかな、来客としてたまに知らない出入りしていたこともあったわ」

「それでは、これは誰ですか」

 小ヶ谷の言う人物、病衣を着て、貞金くんの横にいる。背は高い。男性だろうか。患者であることに間違いないが、当然のことながら、誰なのかはわからなかった。

「…………誰だろ。全然覚えがない」

「この人が、もうひとりの患者であるという可能性はありませんか?」

 場が少し緊張する。

 茅島ふくみは、冷静に頭を使ってから、彼女に言う。

「無くはないけど、もう退院しているって考えたほうが妥当よ」

「実は退院しておらず、それは病院側が流したストーリーで、彼は退院と偽って何処かでずっと監禁されていた、という可能性は?」

「現実味がない。否定も肯定もできないわ」

「……そうですか。しかし残念ですね。あなたが覚えていれば、彼が何者かハッキリしたっていうのに」

「お力になれないですみませんね」嫌味を吐く茅島さん。「でも、なんでこの人のこと、全然覚えてないんだろう。私も描かれているから、少なくとも顔は合わせてるはずよね」

「存在を隠されているが故に、あまり交流を持たなかったのでは」

「来客がある時だけ隠してる患者をおおっぴらに出すのもちぐはぐよ。第一そんな患者がいたら印象に残ってるわよ。この男性患者は、ひょっとすると描いた娘の創作じゃないかしら? 女の子の服装も、来客とは言えちょっと派手すぎるし、彼女の理想が反映されてるんじゃないかしら。例えば、この男性は彼女の父で、地球の病院に入っているから病衣を着ているイメージが強いけど、彼女は父親のことが好きで、一緒にここに来たかったから描き加えた、なんてね」

「まあ、そうですね。この絵、全体的に見れば、個々の何らかの特徴を際立たせようとしているので、この男性にも明確にモデルがいるんだと思います。……まあ、この件は後でゆっくり考えましょう」小ヶ谷は気持ちを切り替えるかのように、久利と挽地を呼び寄せた。「医療セクションへ行きましょう。記録や名簿さえ見つかれば、全部解決することじゃありませんか」

 そう言って、さっさと立ち去ろうとする時に、小ヶ谷が突然に「茅島さん、そう言えばこんなものも見つけたんですが、なにか心当たりは」と紙切れを茅島さんに見せた。

 妙なくらいに高額が記載されている伝票。

 茅島さんは受け取った後、しばらく顔をしかめていた。

『A ー ¥×××000000』

 なかなかお目にかかれない程の大金だった。

「なにかしら、これ」

「請求書ですね。ステーションの売上ね」小ヶ谷は自分の分析を、説明する。「それだけのお金が入ってきたってことですか。宛先は書いてませんが、治療費でしょうか」

「こんなの見たら、自分の耳を大事にしたくなるわね」彼女は耳を押さえる。

「あははは、そうですね。手術費ってやっぱりかかるものね。私の知り合いも、身体を機械化しましたが、それだけで多大な借金をね」

「それは……あまり聞きたくない話ね……」



      5



 医療セクションは、一階に戻り、私達の客間がある棟を経た、もう一本の廊下の先にある。未だ近づいたことはなかったので、どういう場所なのかは、なんとなくの推測でしかわからない。その名前の通り、医療施設の中枢として手術室がある可能性が濃厚だった。

 医療セクションへ通じるその廊下。超音波銃を奥へ向かって射出していた茅島ふくみが、安全を確認してから言った。

「下向はいないわ。何処行ったのかしら、あいつ」

「一階には今他に誰がいるんですか?」小ケ谷が無茶なことを尋ねた。「茅島さんの能力ならわかるでしょ?」

「あのね、さすがの私でも、遮蔽物があるとそこまではわからないわ」茅島ふくみは銃をしまって、小ヶ谷に囁く。「今朝くらいに、一人客室でじっとしてるのは確認したんだけど」

「沼山だわ」今まで鳴りを潜めていた久利友里絵が、急に声を弾ませた。「あいつ、自分の部屋に戻るって真っ先に言っていたし。こんな時に自分だけ隠れて、ほんと」

「沼山さんって、どんな人?」

 茅島さんが私を見て尋ねた。

「……そうですね、女好き、ですかね」

「もっと他に形容はないの」

「じゃあ、鬱陶しい」

「嫌いってことは伝わってくるわ」

 靴を脱いで、ライトを照らしながら慎重に廊下を進んだ。いくら茅島の耳と言えども、全てに於いて信用できるものではない、と言い出したのは久利だったか。確かに警戒するに越したことはなかったので、私はそれに同意した。

 廊下の真ん中で、こうやってゆっくりと歩みを稼いでいくことにも慣れていた時に、久利が不意にこんなことを言い始めた。

「そうだ響子さん。男の人呼んだほうが安心じゃないですか」

 突然何を言い出すんだこいつ、という顔で、真っ先に彼女を睨んだのは、挽地ユノだった。

「……そんな必要ある?」挽地が漏らす。「沼山なんて、役に立つかわかんないよ。こんな時に逃げ隠れするような人間なんて、いないほうがマシだよ」

「でも、男の人がいたほうが、何かと都合がいいじゃないの。あの人、女好きだけど、その分きっと守ってくれるって」

「もう友里絵、そういうのが余計なんだって。勝手に正義に目覚められて、勝手に危ない目に遭われても、困るのは私達だよ。いたずらに人数を増やすのも感心しないな。ねえ、響子はどう思う? 沼山なんて、必要ないよね?」

 話を振られた小ケ谷響子は、そのまま考え込んだ。彼女が、こんなどうでもいいことに悩むなんて、私は少し珍しいものを見た気持ちになった。

 しばらく口を閉ざしていた小ケ谷が、挽地に提案する。

「そうね、ユノさんには悪いけど、沼山くんを呼びましょう。犯人を実際に捕まえる時に、私達だけでは力不足かもしれないと、思っていたところよ」

「……響子がそう言うなら、私は従うよ」

 挽地がそう頷くと、一同は廊下を引き返した。歩みが重い。足を持ち上げる筋肉に、鉛でも括り付けられているようだった。私としては、彼にはできれば関わりたくなかったので、これは最悪と言っても良いくらいの結果だった。

 客室、六号室に、手書きの不安定な字でその名前が書いてあった。『沼山イツヲ』。彼のフルネームを久しぶりに見たような気がする。どちらかと言えば忘れてしまいたかった。

 不躾にノックをしたのは挽地ユノ。

「おーい、沼山、いる? 挽地と小ケ谷とそれから大勢だけど」

 返事がなかった。

「中で動きがない」茅島さんが、怪しげに扉に耳を当てながら、呟いた。「聞いてないみたい」

「本当にいるの?」

「それは間違いないわよ」

 それでも諦めないで、挽地ユノは執拗にノックを続けた。

 小ヶ谷響子はその様子を、黙って見ている。

「沼山、起きてる? いるんでしょ?」

「私達、沼山が心配で見に来たの、お願い開けて」それに久利も加わった。

 しかし、これだけ騒がしくなったというのに、全く返事がない。

 それはまるで、

 死

 んでいるかのように。

「あいつ……わざと無視してんじゃないだろうな……」

「……待って。これはおかしいわ。無理矢理開けましょう」小ヶ谷響子が、明瞭にそう指示する。「返事ができないのかも知れない。もし襲われたりしてたら、大変よ」

「襲われるって…………誰に?」

「バカ言わないで、そんなの、言うまでもないわ」

 中で、あの時見たような、無残な死体が転がっているとしたら……

 任せてと言いながら、小ヶ谷響子が鍵の辺りを、顔を近づけて、ライトを照らしながら弄くり始めた。自分の決めたことであれば、何事も行動の速い女だった。

 だけど一体何を……

「茅島さん、キーピックの経験は?」

 小ヶ谷に尋ねられると、茅島ふくみが心外そうに首を振った。

「私を何だと思ってるのよ。ないわ」

「私は得意ですよ」

 カチッ、と小気味の良い音が、廊下の果てまで響いていった。

「え、響子、開いたの?」挽地が驚く。

「当然」

 何処でそんな技術を覚えたのか、彼女のことだからきっと、誰かへの対抗意識なのだろうが、私はますます彼女に対して不気味さを覚えた。被害妄想かも知れないが、私の知らない間に、私物を見られるという可能性が、降って湧いて消えなくなった。そんなのは茅島ふくみに体中の音を聞かれることと同じぐらいに嫌だった。

「あんた何者よ……」呆れ顔で茅島さんが呟いた。

「こんなアナログの鍵なんて、今時ちょっと習えばすぐよ。幸い道具はいつも持ち歩いていますからね。では入りましょうか」

 ドアを、挽地がゆっくりと開いた。わざとやっているのかと思うくらい、重苦しかった。

 中は私の部屋と同じ作り。当然だ。見渡す限りでは彼の姿はない。

「沼山ー」

 再三の呼びかけにも、彼は返事を返さなかった。

 本当にこの部屋にいるのか。

 何処に身を隠しているのか。

 何も信じられない。

「入るよ、いないの?」

 奥へ入っていく挽地。暗闇の方へ吸い込まれていく背中を、私は入り口で見守った。

「いるわよ」

 そう茅島ふくみが呟いたと同時に、

 挽地ユノの声が、耳を裂くほどの叫び声が、響いた。

「ちょ、ちょっと、沼山!」

 私は驚いて、冷たくて硬い廊下に転んでしまった。

 そんな私のことなんて見向きもせずに、茅島さんは中へ飛び込んだ。私も慌てて身体を起こして、痛がりながら彼女を追いかけた。

 ベッドの縁、そんな人間が寝るような場所じゃないところで、

 件の、沼山イツヲが倒れていた。

 挽地が揺り起こしている。

「沼山! 大丈夫!?」

「待って、揺らさないで!」

 と茅島ふくみが一喝すると、挽地は固まった。

「頭を打っているかもしれないわ」小ヶ谷が沼山を覗き込んだ。「ユノさん、彼、息はしてる?」

「……してるみたい」

 死んだようにしか見えない彼の顔を、私は直視できなかった。彼自身の悪い寝相ではなく、どう考えても、誰かの作為で、彼は床に倒れていた。

「ねえ、怪我はない?」久利が尋ねた。怖いのか壁際でじっとしていた。

「血は出てないみたいだけど……」

 挽地ユノが沼山の顔を叩いた。人を頑丈なサンドバッグだと思っているのかもしれないくらいの勢いだった。

 そんな痛めつけに反応して、気を失っていたはずの彼は、目を覚ます。

 しかしその様子は、明らかに健常ではなかった。

「な………………? ん…………?」

「沼山?」

 返事はなかった。

 明らかに目の焦点が合っていない。何も考えていないです、と主張しているようだった。

「響子、どうしよう、おかしいよ、沼山!」

「落ち着いて、ユノさん。目をこじ開けて、光を当ててみて」

 挽地が言うとおりにすると、沼山は顔を背けた。瞳孔が狭まったのかはしらないが、少なくとも目は機能しているみたいだった。

「沼山くん」小ヶ谷響子が首を伸ばして彼を覗き込む。「わかりますか? 私達のこと」

 しばらく怯えた表情を見せていた彼が、ようやく口を開いたのは、呼びかけてから数秒後のことだった。

「鍵…………鍵を………………」

「鍵?」

「かけなきゃ…………」

「加賀谷さん!」

 一番ドアの近くにいただろう私に、小ヶ谷は命令した。断る理由もなかったし、ずっと私は恐怖で身体が震えていた。私はおとなしく鍵をかけに行って、すぐに戻った。

「沼山くん、鍵は掛けたわ。安心しなさい」

「鍵………………かけなきゃ……」

「だから、掛けましたよ」

「待って小ケ谷さん」腕組みをして黙りこくっていた茅島ふくみが、口を開いた。「教えて下さい、なんで鍵をかけないといけないの、沼山さん」

「だって…………鍵をかけなくちゃ……」

「その理由は?」

「鍵をかけなくちゃいけないから…………」

 言っていることが禅問答のようだった。

 歯ぎしりをしながらも人当たりの良い口調で、茅島ふくみはまた繰り返した。

「なにがあったの?」

「…………鍵をかけないと……」

「掛けたわ。なにがあったのか教えて」

「………………知らない…………わからない……知らない……」

「沼山、ねえ、どういうことよ?」挽地が無理矢理割り込んだ。「あんた、何も覚えてないの?」

「しらない…………」

 それから沼山は、壊れた人形のように、同じ言葉を繰り返すだけだった。「鍵をかけなきゃいけない」「知らない」「覚えてない」。自分自身すらも、失ってしまったように。

「か、茅島さん、これは……」いたたまれなくなって、私は彼女に話しかけた。

「…………わからない」深刻そうに息を吐きながら、茅島さんは沼山を見たまま、そう呟いた。「沼山さんが、誰かに何かをされたってことだけは確か」

「何かって……」

「例えば、強い薬を打たれた、なんかが妥当な線よ。襲われてそんなものを打たれて、意識が朦朧としながら、やっとの思いで自室に戻って鍵をかけて、そのまま気を失った。考えられそうなことよ」

「そんな薬なんてあるんですか?」

「思い出しなさい。ここは医療機関よ」

 彼女と話している間に、小ヶ谷響子の姿が無かった。挽地と久利はずっと沼山を見守っていた。トイレにでも行ったのだろうかと考えたが、ベッドの下から小ケ谷響子本人が這い出てきた。人の部屋で何をやっているのだろうか。理解が追いつかない。

 小ヶ谷響子はカバンを持っていた。空いている。推測だが沼山のものだろう。

「茅島さん。鞄を見つけたんですけど、中身が散らかっていました。全てベッドの下にぶちまけられていますよ」

「あなたって、いつも変なものに目を向けるのね」

「ええ、よく言われます」どうでも良さそうに笑顔を向ける小ケ谷。「今茅島さんが言った通り、沼山くんが何処かで襲われてこの部屋戻ってきたとすると、部屋が荒らされているのは、おかしいとは思いませんかね」

「そうなるわね。でも逆に、部屋で襲われたなら、鍵なんて掛けないわ。すると、どうして部屋が荒らされているのかしら」

「鞄に目的があった、というのはどうですか」

「鞄ねえ……なにか無くなってる物はある?」

「特に思い当たりません。私も把握しているわけではないので」

 茅島ふくみはまた腕を組んでじっとしている。段々、これが彼女の基本的な姿勢というか、生来の癖なのだろうということがわかってきた。心理学的に言えば「人を恐れている」らしいことは黙っておいた。

「…………まあ、とにかく」ゆっくりと口を開きながら茅島さんは、まっすぐに、小ヶ谷を見つめた。「教授に連絡してもらえる? 出なかったら、住之江さんでもいい」

 小ヶ谷響子が言われたとおりに、端末から電話を起動する。続けて、教授に短距離通信を掛けるが、反応がなかった。

「……出ませんね」呼び出しを切って、彼女は挽地らに話しかけた。「ねえ、教授って何処に行ったんですか? 私、それどころではなくて、聞いていなかったわ」

「さあ。教えてくれませんでした」そう答えたのは久利だった。「沼山と同じくらい駆け足で逃げていきましたし……」

 小ヶ谷は今度、住ノ江さんに連絡を入れた。彼女には、すぐに滞りなく連絡が通じた。沼山くんが襲われた、という要件のみを伝えると「わかりました。まっすぐそちらに向かいます」と言って通信を切った。迅速だ。惚れ惚れした。

「すぐに来てくれるわ」

「そう。ありがとう」茅島ふくみが礼を述べた。

 しばらくすると、ノックもほどほどに、住ノ江さんが入ってくる。鍵は小ケ谷が開けておいた。思ったよりもずっと早い。

 昨日ぶりに、その顔を見る。眺めるまでもなく、疲れているようだった。無理もない。二人の患者を見守っているのは彼女だけだ。他のスタッフは、何をしているのだろうか。

 沼山の容態を説明すると「わかりました」とだけ呟いて、どこかに通信を飛ばし始めた。饒平名さんか岩脇さんのどちらかだろうか。彼女に話しかける暇すら無かった。

 とりあえずだが、これで沼山のことは安心して良いだろう。私は少し、関係もないくせに、肩の荷が下りたような気持ちになった。

 茅島ふくみを見ると、もうそんなことはどうでもいいという風に、また思案に耽っていた。

「ねえ、加賀谷さん」

 じっと顔を見ていたら声を掛けられたので、私は驚いて、返事に詰まってしまった。

「な、なんですか」

「もう一人の患者がいるとして、どんな機能が備わってると思う?」

「機能? いえ、そんなの……わかりませんよ」

「沼山くんの様子がこうなのは、どうしてだと思う?」

「薬でも打たれたとか、茅島さん言ってましたけど」

「ええ。で、誰がやったと思う?」

「……もう一人の患者、ですか」

「そこまではわからない。でも殺さなかったのも、何か考えがある。下向なら絶対殺しているはずだから、彼ではないことは歴然よ」

「まあ、そうですね……」

 確かに下向なら問答無用だった。首を絞められた私が証明しても良い。沼山をこんな状態にしたのにも関わらず、なおかつ殺さなかったことを考えると、下向とも、院長を殺した犯人とも違うのだろうか、という考えが私の中で渦巻いていった。

 そうなると、もうひとりの患者か?

 私たちを痛めつけることだけが目的、という設定があるその患者なら、沼山をこのようにするだろうか。部屋を荒らした意味は全くわからないが、単なる嫌がらせというのなら、意味は通じなくもない。

 でもそれじゃあ沼山はそんな得体の知れない存在を部屋に招いたのか……?

 駄目だ、答えが出ない。私は探偵でもない、頭が良いわけでもない、やる気があるわけでもない。躍起になっている茅島ふくみでもよくわからないような事件が、私に理解できるはずもない。

 後ろから、場にそぐわないほど尊大な響きで、小ヶ谷響子から声を掛けられた。

「茅島さん。聞いてくれますか? 私、考えがあるのですが」

「名案なんでしょうね」

「ええ、当然です」自分のことを由緒ある王族の人間である、と信じて疑わないような鼻につく微笑みで、彼女は返した。「予定通り、医療セクションに行きましょう。疑惑はますます深まったわ。もうひとりの患者の存在の成否、私達が今最も究明すべきはこれ以外にないでしょ」

 沼山がこんな目に遭ったというのに、この女は心臓が鉄ででもできているのだろうか。正気じゃない。

「悪いけど、やっぱり危険よ」茅島ふくみは目だけで彼女を見た。睨んでいる。「院長ならともかく、絶対に無関係と言える沼山くんを襲うような、頭のイカれた人間が確実にいるのよ。何処か一箇所に集まってじっとしているのが、一番安全よ。好奇心で変に刺激するべきじゃないわ。私だって、こんな奴相手に、あなた達を守れるかどうかわからないもの」

「ひょっとして、怖いんですか?」

「面倒なのよ、あなたたちのお守りが」

 あとは私だけでやる、そう言いたげな顔をしていた。

 小ヶ谷はそれでも食い下がる。

「何を言ってるんですか。どうせこのままじっとしていても死ぬんですから、行動を起こすほうが真っ当かと。危険でも全員で協力して事件を解決するよりも、人数を絞ってしまい、その結果、解決を逃してしまう、あなたがそんな人間だとは、私も思いたくないんですけど……」

 嫌味そのものをぶつけられたような、小ヶ谷響子のそんな簡単な言葉に、明らかに茅島ふくみが揺らいだ。

 地球にいた頃から、小ヶ谷響子は他人の対抗心を煽ることに長けていた。

「…………しょうが無いわね」舌打ちをしながら、彼女は吐き捨てた。

「茅島さん……」どうしても行きたくなかった私が、目で訴えかけた。

「私だって、こんなバカげた事件、早く終わらせたいもの。その過程で危険は承知よ。安全策なんて、生ぬるいこと言ってられないものね。行くわよ、小ケ谷さん」

「ええ、茅島さん」

「…………」

 私も頭を打って、何か譫言を発したくなった。



      6




 冷たいかもしれないが、私達は専門家ではない。沼山のことは住ノ江さんに任せて、私たちは五人で、医療セクションへ向かった。

 大所帯で行くものでもない、と茅島ふくみが言ったが、小ケ谷響子が行くなら私も行くと言って下がらなかった人間が二人ほどいた。彼女らの自己なんてそんなものだった。小ヶ谷響子を基準に形成されているし、彼女から離れれば、自分の中の芯を失ったように不安になる。彼女らはその程度の人間。私は、自分のほうが優れているわけでもないのに、傲慢にもより彼女らへの軽蔑を深めた。

 そんなことよりも、何か少し、茅島ふくみに焦りを感じる。今まで、新たな被害者が出る前に、事件を畳んでしまおうと思って行動していたからだろう。こんなにも早く次の被害者が出るなんて、私も思わなかった。

 茅島ふくみの表情が違うだけで、空気がひりついていく。

 医療セクションは、見たところ厳粛な、無骨で鼻の奥に嫌悪感を覚えるような場所ではあったが、地球の病院そのもののような外観をしていた。自動で開くはずのガラス扉が、今では単なる装飾にもなっていなかった。

 そのガラスの引き戸を開く。重さはさほど感じない。もちろん鍵は掛かっていない。中の空気と交わると、胃が洗浄されそうな臭いが鼻をついた。消毒液。私はそう結論づけた。

 中をライトで照らす小ケ谷響子。いつの間にか、先頭を任されている。

「受付、ですね。待合室ですか」

「ええ。地球の病院と変わらないらしいわ」茅島さんが超音波銃を取り回しながら、平たく説明する。「院長が、地球でやっていた病院と、設備を同じにしたかったって聞いたことある」

「茅島さん、地球の病院はご存知?」

「いえ、知識だけよ」

 綺麗に消毒されているであろうカウンター、ずらりと並んだ椅子、知育玩具まで置いてある。確かに再現度で言えば高かったが、宇宙ステーション故に、そう頻繁に患者が来るようなところではなく、満足感を得るために形式上存在しているが、システム的な意味合いはまったくない設えだと思われた。

 奥にまた戸がある。診察室。そう読み取れたし、見ないでもわかった。病院なんてそういう構造だ。

「なんか……怖いですね、響子さん」久利が場違いなことを呟いた。「何か、出そうっていうか」

「あら友里絵さん、あなた、まだ幽霊の存在を信じてるの?」

「いえ、別にそうじゃないですけど、生理的に嫌な場所って、ありませんか? 私はこういう朽ちた民間施設を暗闇で眺めることがすごい嫌なんですけど」

「私がいる場所に限って、そういう気持ち悪い場所なわけないじゃない。怖いなら私から離れないで」

「……はい、そうします」

 それだけでふふっと笑顔になる久利友里絵を見て、私は彼女を診察室に押し込めたくなった。

 その狭くて机とベッドが一つあるだけの、何の変哲もない診察室の中を五人で探したが、めぼしいカルテの一つもなく、レントゲン写真や脳の断面図、何かの周知ポスターが数枚貼ってあるだけだった。なにもないならまだしも、最近使われたような形跡すら希薄だった。

「茅島さん、ここって、元々脳神経外科が専門なんでしたっけ」小ヶ谷響子が、ポスターを眺めながら、予め勉強してきたようなことを尋ねた。

「ええ、確かそうみたい。地球にあった頃から結構大きな病院だったらしいんだけど、まあ何を思ったか、いつ頃かそのノウハウを流用して、脳分野に通じる機械化技術に着手したの。リスクが大きすぎるとも言われた脳の部分的な機械化さえ、高い成功率で造作もなくやってのける、なんて真偽さえわからないような話まであったわ。お陰で今や、個人資産で宇宙ステーション持ちってとんでもない話よね」

「最近でも、宇宙で営む施設はそう多くないと聞きますね。なんでも維持費が大変だとか、知り合いが言っていましたが」

「でしょうね。ここだって、月二回ほどメンテナンスと補給に業者が入るんだから、下手したらそれだけで下手な売上なら飛ぶんじゃないかしら」

「その業者って、いつ来るんですか」私は身を乗り出して尋ねた。

「えっと、この間来たから……二週間ぐらい先かしら」

 助けが来るかもしれないと期待したが、また私の希望は塵みたいに打ち砕かれた。

 診察室には何もないとわかったので、私たちはさらに奥を調べ始める。こうして歩いてみると、病院というのも、案外狭いものだ。果てしなく広くて、なにか隠し事を常にしているような恐ろしい印象があったけれど、いざ調べればそう大したこともないのだろう。

 短い廊下の奥に、エレベーターともう一つなんでもないような扉がある。

「薬品管理室、だって」身を乗り出した挽地が読む。「鍵は……開いてるよ。調べる?」

「当然よ」

 小ヶ谷がそう自信を備えて答えると、さっさと一人で中へ滑り込んだ。こういう時の度胸は人一倍だった。

 茅島ふくみの後ろに隠れながら、私も薬品管理室に足を踏み入れる。さっきから感じていた、なんらかの薬の匂いが、吐きそうなくらいに強くなった。ここから漏れていたのだろうか。劇薬が溢れていたら大変だったが、そんなこと自体が今更どうでも良かった。

 広めの部屋、ライトを向けると天井も高い。真正面に棚がずらりと、側面を向けて固定されたように並んでいる。その数は七つほど。一見すると現代的な図書館みたいな印象だったが、その一つ一つに薬品が内包されている瓶や錠剤、果ては包帯のようなものまで静かに置かれている。雑多と言えば雑多だった。

「カルテ、ここにあるんですかね……」私は茅島ふくみの耳元に尋ねる。

「さあ。わからない。必要に応じて持ってくることはあると思うけど」

 先に入っていった小ケ谷は、一番奥の方にいるらしい。人の数倍不躾なライトが光っている。挽地と久利も別行動だった。「こっちにはないですよー」と久利の間の抜けた声が聞こえた。

 こんな所に、患者の記録なんて本当にあるのだろうか。私は今になって、そのことを疑い始めた。あったとしても、現在おおっぴらに入院しているとされる茅島さん、貞金くん、両ちゃんぐらいのものだと思うが、小ヶ谷はなにを以ってカルテがある、と思い込んでいるのか、本人に聞いてみたくなって来たが口を利きたくもない。

 扉脇の机を探し始めた茅島ふくみを他所に、私は棚を探すでもなく単にじっと見ながら、早く帰りたいな、と内心口にした。目の前には包帯、塗り薬、軟膏、その他いろいろ。外傷に関するものが、使いやすいように押し込められているようだった。ケガをすることがあれば、ここから拝借するのがもっとも適切だろう。

「ねえ茅島さん、あの表のエレベーターって、何処に通じてるんですか」暇だったので迷惑になるかもしれないと思ったが私は尋ねた。

「あれはえっと……手術室だったかな」振り向きもせずに、紙切れを一枚一枚調べながら、茅島ふくみが答えた。「扉、大きかったでしょ。ベッドごと搬入できるの」

 確かに、図書館や談話室に通じるエレベーターと比べて、倍くらいの幅があった。それを見てもたくさん人が乗れそうだ、としか感じなかった幼稚な自分もいた。

「やっぱり手術室で、機械化を?」

「この病院で他に何をすると?」

「いえ、思いつかないです」私は言いながら、茅島ふくみの機械化された耳を見た。見た目では、何処も変わらなかった。「茅島さんもここで手術を受けたんですか」

「ええ、そう。でも、請求書なんて初めて見た。あんな値段するなんて、未だに信じられないわ……ちゃんと働いて返せるかしら」

「両親は、いないんですか?」

「知らない。っていうか覚えてない。素性もわからないし、両親を名乗る人もいない。少なくとも、病院から知らされてない。私が自分について知ってるのは名前だけだったし、でもそれも本名なのかすらわからない。もしかしたら、私という人間は、書類上地球じゃもう死んでるのかもしれない、なんて思ったこともある。それでもステーションは、身よりもない私の身体を治してくれたんだし、手術代くらい返したい程度には感謝してるわ。だけど、ここで出来る仕事って、やっぱりナキさんみたいに、患者の身の回りの世話やるしか無いのかしらね。彼女には悪いけど、なんか、いまいち興味出ないな……」

 一人でずっと話していたところで急に、彼女は私に向き直る。

 真剣な表面を見せて、ふざけたような声色を出す。

「ねえ、すでに死んでいる人間と話す気分はどう?」

「生きてるじゃないですか、茅島さんは」

「私が死んじゃったとして、私のことを知っている人が誰もいない世の中で、あなたは私のこと、ずっと覚えててくれる?」

「急にどうしたんですか。忘れませんよ、あなたみたいな変な人」

「はは、それもそうよね」

 そこまで言って、彼女は息を止めた。

 本当に死んでしまったのかと思って、私が声をかけようとすると、

 彼女は私に近づいて、私の口を手で塞いでから、口を開く。

 ――誰か来る。

 そう耳元で囁かれた直後に、すぐ近くにあるドアが閉まる音。

 そして鍵。

 茅島ふくみは、私を床に伏せさせると、棚に身を隠しながら、閉まったドアの方向へ声を掛けた。

「誰?」

 返事がない。

 足音。近づいてくる。

 棚の影。人影。茅島ふくみはライトを向ける。

 次の瞬間、

 棚から腕だけが伸び、向こうからライトを照射される。

「うわ……!」

 目にまともに光を受けたらしい茅島さんが、身体を縮めて怯んだ。こちらのライトが消える。

 走る音。

 茅島ふくみは、手探りで私の服を掴んで突き飛ばした。

 転がる私。

「隠れて!」

「茅島さん! どうしたんですか!」

 遠くから聞こえる小ヶ谷響子の声、

 そして、物が炸裂する。

「こいつ、武器を持ってる!」

 茅島ふくみがそう叫ぶと、間髪入れずに鈍い音がした。

 縺れるような姦しい音が止む。

 まさか……

「茅島さん!」近くなった小ヶ谷響子の声が叫ぶ。

 茅島さんの返事はなかった。その代わり、小ケ谷の方へ向かうけたたましい足音が聞こえる。

 違うこれは、茅島さんじゃない……!

 私は咄嗟に、棚の影まで身体を引きずって隠れた。

 足を折りたたんで、見つからないように身体を丸くした。

 何も見えない、何も聞きたくない。

 何処かでライトが点いたり消えたり、物が壊れる音がしたり、

「あなた、誰!」

 小ヶ谷響子の声が、威勢よく響いてくる。

 私は首だけを物陰から伸ばし、前線に目を向けた。何よりも茅島さんのことが心配だった。

 一瞬ライトで照らされた、謎の人物の姿が見える。何かを羽織っているし、何かを被っている。その装いから、自分の正体を絶対に知られたくないことだけはわかった。その目論見は成功だった。

 そして手には棒状のもの……

 明確に殺意。

 そして背格好から言えば、下向ではない。

 じゃあ誰……?

「くそ……!」

「響子! 危ないよ!」挽地の声。

 完全にライトを消して、小ヶ谷響子が退散した。危険である、と判断したのだろう。

 一気に静かになった。

 嘘みたいに自分の鼓動が耳障りだった。

 怖い。

 逃げなきゃ……

 茅島さんは何処……?

 そんなことを私が考えていると、

 人影が側に

「静かに」

 聞き覚え。

「茅島さん……」

「しくじった」

 私の隣に身を潜める彼女。

 吐息さえ、肌に降り注ぐような距離だった。

「頭を一発殴られて、気を失ってた」

「大丈夫ですか?」

「こりゃ、結構血が出てるかな……」茅島さんの姿は、勿論見えなかった。「なんか意識がちょっとぼんやりしてる。脳震盪かしら……」

「あの人、犯人ですか?」

「当たり前よ」

 そんなことは訊くまでもなかった。少なくとも院長を殺した人間とは同一だった。

「姿、見た?」

「顔まで何か着込んでて、正体までは……あ、手にはなにか棒みたいな物を……」

「なるほどね」頷いて彼女が歯ぎしりをした。「あいつ、殺すつもりよ、私達を」

「そんな……」

「それか、沼山みたいに薬漬けにする、とかね」

 ここままでは危ない。犯人は何処だ……。

 周りの音に集中した。しかし犯人が何処にいるかわからない。

 茅島ふくみの耳と超音波銃でもない限り、私ごときでは犯人の位置もわからない。

 彼女の言葉を思い出す。あなた達のお守りが面倒。その真意を、足をひっぱる側になって、初めて理解した。

「生憎だけど、さっき殴られたときに、超音波銃を落としたわ」さらりと重要なことを報告する彼女。「こっちからは靴音でも鳴らさない限り、私の耳を持ってしても、犯人の位置はわからない。でもだからといって靴音を鳴らせば、犯人にこっちの場所まで気取られる。なるほど、面白いわね」

「……面白くないですよ」

「ふん。暗闇ではどっちが有利か、教えてあげる必要があるみたいね」

 すると、何かを手に持っていた茅島さんが、それをあらぬ方向へ投げた。

 ぱりん、と取り返しの付かないような音がした。

「茅……!」

「しっ」

 さっきみたいに口を押さえつけられた。

 薬瓶が割れたであろう音に反応して、慌ただしく誰かが動き回る。

 それを見逃すような茅島ふくみではなかった。

「この足音は小ケ谷響子、割れた地点に向かってる。久利は動いてない。反響から言うと部屋の隅で丸くなってる。挽地はわからない。物陰に隠れてるのかしら。そして……」

 茅島ふくみの声が詰まった。

「あいつ、犯人……入り口の前から動いてない」

「どういうことですか?」

「待ち伏せてるのよ。私達の誰かがドアまでのこのこやって来るのを」

「……不意は打てないんですか」

「駄目よ。あいつは私達のことが見えてるわ」

 言っている意味がわからなかった。

 機械化された能力で、暗闇で目が効く機能でも備わっているのだろうか。

「暗視ゴーグル使ってた。見えなかった?」

「多分見てもわからないです」

 暗視ゴーグル、僅かな光を増幅させて、暗闇でも視認を可能にする特殊な携行品だが、なぜそんなものがこの単なる医療ステーションにあるのかはわからなかった。

「あんなものまで用意するなんて、何考えてるのよ」茅島さんは、そう呆れたように呟いた。「あいつはきっと、私が出て来るのを待ってる。暗闇では私の機能が一番厄介だってことは誰だって知ってるわ。そして、私が出ていった瞬間に、隙のある久利か挽地か、もしくはあなたを殺しに行くつもりよ。取ってもいない人質を取った気でいるんだわ、あいつ」

「それじゃあ、何も出来ないじゃないですか」

「ええ……」茅島さんは悔しそうに舌を鳴らす。「そんなことはわかってる。だけど、私がみんなを助けないといけないのも、十分理解してるわよ」

 隣で物音がした。

 咄嗟に身体を丸くしたが、杞憂だった。

「茅島さん、無事ですか」

 そう遠くない距離から、小ヶ谷響子の囁き声がした。

「無事だと良かったんだけど」茅島さんは声のする方へ向き直った。「あなたは?」

「ええ。腕を殴られたこと以外は無事ですね」

 茅島ふくみは簡潔に、彼女に説明した。

 すると、彼女は喜んだような声色で言う。

「ふふ、なんだ。犯人がわざわざやって来たって言うなら、こんな千載一遇のチャンス、滅多にないわね」

「バカじゃないのあんた」茅島さんが即答する。「なにがチャンスよ。大ピンチっていうのよこういう状況は」

「あら茅島さん、ピンチはチャンス、という言葉が何百年も残っていることは、存じていますか?」

「舐めないでよ、それくらい知ってるわ」

「加賀谷さん」急に名前を呼ばれて、私はどきりとした。「見てなさい。私と茅島さん、どっちが優れているか、今にわからせてあげる。あなたの心の拠り所が、茅島さんから私へと移り変わるの。茅島さんに向けていた憧れを、私に還元するのよ」

「ちょっとあんた……!」

 茅島さんの静止も聞かずに、小ケ谷の気配が消えた。

「バカよあいつ、ほんとにバカだわ……」茅島さんも急いで立ち上がった。

 私はそれを、服を掴んで引っ張って、止めた。

「ねえ、私は、どうしたら……」

「…………」茅島ふくみは悩んでから答えた。「とりあえず、一人は危険だから、久利さんと合流して。ここから突き当たったところに、じっと隠れてる。固まってじっとしてて。暗視ゴーグルと言えど、物陰に隠れてたらすぐには見つからないわ。ただしライトは厳禁。自分の居場所を知らせているようなものよ。まあ目眩ましにはなるけど、期待しないで」

 それだけを言い残して、指先に感じていた茅島ふくみも煙のように消えた。

 急に心細くなった。

 とにかく、言われたとおりに久利と合流するほうが、どう考えても安全。一人では無残に殺されるかもしれないが、いくら仲が悪いとは言え、二人でいれば死ぬ確率は半分になる。最悪久利を囮にして逃げればいい。人恋しかった私は、その案を飲んだ。

 伏せながら、地面を這って行った。

 指先に、割れた瓶が刺さって痛かった。死ぬことに比べれば、幾分かマシだった。

 何かが投げられて、壁や床にぶつかる。そして走り回る靴。

 何をして……

 小ヶ谷が、犯人に対して牽制を仕掛けているのかもしれない。彼女はどうやっても犯人を捕まえることしか頭にない。それも茅島ふくみよりも確実に、茅島ふくみよりも早く。

 突き当りの壁に手が触れた。この辺りか。私は少し聞こえる程度に声を出す。

「久利さん」

 意外な程近くから返事が聞こえた。

「か、加賀谷さん?」

 私はその方向に身体を潜り込ませた。丁度、久利の真正面に来たようだった。

「ねえ、一体何が起こってるの? 響子さんは?」

「わかりません……犯人を捕まえようとしてるみたいですけど」

「犯人を? すごいわ!」久利が周りも気にせずに声を上げた。「さすが響子さんね。いいじゃない。ぜひ協力しましょう。これで私達も、無事に地球に帰れるってもんでしょ」

「そんな、駄目ですよ」私は一回り以上声が小さくなった。「危ないですから、私達はじっとしておいたほうが良いと……」

「響子さんがそう言ったの?」

「いえ、茅島さんが」

「は」吐き捨てるように言う彼女。「嫌だわ。彼女、優秀な響子さんを恐れているのよ。事件を解決して、それを全部自分の手柄にしたいんだけど、そのためには響子さんが邪魔なんだわ。いいですか、加賀谷さん、あなたね、洗脳されてるわ。マインドコントロールよ、知ってる? 茅島ふくみのことを、疑うことさえできなくなっているの」

 そっくりそのまま返してやりたくなった。

 私は隅で膝を抱えて、久利のことを無視した。なんだってこんなやつと一緒に隠れてないといけないのだろう。茅島ふくみに、後で文句を言ってやろうと心に誓った。

 また予想だにしない方向から、声がする。

「友里絵、いるの?」

 心臓に悪い。首を回すと、挽地らしき人影がぼんやり見えた。側に隠れていたらしい。予期せず揃ってしまった。

「あらユノ。何処に逃げたのかと思っちゃった。響子さんはあんなに勇敢なのにね」

 嫌味を言う彼女を無視する挽地。

「加賀谷さん、今どんな状況? 一体何が起きてるの?」

 問われて、私はたどたどしく説明する。襲ってきた人物は犯人で、棒状のものを持っており、茅島ふくみがそれで殴られ、その犯人を今、小ヶ谷響子と茅島さんが捕まえようとしているが、個人的な判断ではどう考えても無謀である、と。

 意外にも、挽地は普通の人がするような反応をした。

「響子、トチ狂ったのか……?」訝しんで呟く彼女。「いつもの冷静な彼女じゃない。何を焦ってるんだ……?」

「ユノ、何言ってるのよ」久利が口を出す。「優秀な響子さんのことよ。こんなチャンスが二度と無いことを悟っているんだわ。これを逃せば、私達の命が危ないってことをね」

「そうは言っても、暗闇の中なんて圧倒的不利だよ。犯人は暗視ゴーグルを付けているんだろう? 少なくとも暗闇で追い詰められることを恐れて、茅島さんに協力を頼んだんだから、茅島さんの言う通り、彼女の指示に従って逃げるのが賢いと思うけど」

「あんな自己中心的な女に協力しろですって?」はは、と久利はバカにしたように、挽地を笑う。「あなた、響子さんに協力するつもりないの? 響子さんが茅島ふくみに負けてもいいっていうの? あなたも、なんのために響子さんに親しくして貰ってるのよ。こういう時に協力するのが、友人ってもんなんじゃないの?」

 沈黙。

「私は遠慮するよ」

 間があって、俯いていた挽地から、決定的な言葉が告げられた。

「どうせ彼女には、犯人を捕まえられない。あの茅島さんだって殴られて手こずってるって言うのに、響子になにが出来るんだよ。茅島さんより響子のほうが優秀だなんて、今この状況下では絶対にない。彼女の暴走はむしろ止めてやるべきでしょ。茅島さんの言うとおり、わざわざ危険を犯すほうがおかしい。響子は今、冷静じゃない。狂ってる」

「何?」久利が舌打ちをした。「あんた、響子さんの友人じゃないの? 友人ヅラして、響子さんの友達っていう立ち位置で、ぬくぬくと暖を取っていただけの、ウジみたいな寄生虫ってこと?」

「ちょっと、落ち着けよ……」

「落ち着けませんよ! 響子さんは私達のために頑張ってるのに! あなたなんなのその態度は! ふざけてるの!」

 危険なほどの大声だった。

 私は胃が痛くなった。

 仲間割れしてる場合じゃないのに……

「友里絵、現状見て言えよ」さすがの挽地の声色も荒くなった。「響子はすごいってことは認めてやるよ。私だってそう思うよ。だけど、その彼女が今おかしいって言ってるんだよ。賢くない。自滅でも望んでいるのかよ。それにさ、あんただって、最近おかしいよ。全部響子の言いなりになって、それじゃ奴隷と変わんないじゃん。単に響子に憧れていたあんたはどこ行ったんだよ。今の友里絵って、誤魔化しだよ。響子に憔悴することで全部誤魔化してる。何も自分で考えなくていいからそりゃ楽だよね。でもそれって、あんた友達である必要あるのかよ。そんなの誰でも良いじゃん。あんたさ、響子と一緒にいる意味ないよ。彼女を甘やかして、無条件に肯定して、気持ちよくしてあげてるだけじゃん。そんなのさ、ただ響子を駄目にしてるだけだってわからないの。だから私は、響子が友里絵が仲良くしてるの、反対だったんだよ。彼女はもっと上に行く人間なのに、あんたなんかに無意味に持て囃されたら、才能が潰えるんだよ。わかってんの? 彼女にとって、あんたは毒なんだよ」

 ……。

「私、知ってるんだから」

 久利が、急に話題を変えるように、ボソリと呟く。

「あんたが響子さんを蹴落とそうって思ってるの、ずっと知ってるんだから。聞いたことあるんだから、あんたの友達に、響子さんのことどう思ってるか漏らしたの、私知ってるんだから。真っ先に響子さんにそれを伝えたんだけど、それでも響子さんの態度は変わらなかったし、なんなら前より親しげにあなたに接するようになって、ああ、なんて心の広い人なんだって、私思ったんだから……!」

「友里絵!」

「人の好意を踏みにじるなんて、あんた最低だよ!」

 駆けていく久利。

 その背中は、私達には最初から見えなかった。

 止めるという選択肢も、私と挽地、両方に浮かばなかった。

 決裂、亀裂、崩壊。そんな言葉が虚空に浮かぶ。

 気まずい。

 音を立ててはいけないという状況と、挽地ユノのことで、嫌というほどストレスが貯まった。

 なんで敵前で喧嘩なんかしてるんだこいつら。

 私は、まるで自分のことのように恥ずかしくなった。夕食の時にもこいつらは喧嘩していたし、そういう変えようのない性分なのか。恥じて欲しい。消えて欲しい。私に関わらないで欲しい。

 吐きそうなほど追い詰められて、恐る恐る私は声をかける。

「挽地さん……」

「……ライバル心だよ、単なる」訊いてもいないことが、勝手に彼女の口から流れ出てくる。話しかけられるのを待っていたのかもしれない。「心配してるのは……本当なんだ……だけど、友里絵が言っていたのも事実だよ。私はいつか、彼女を追い抜こうとしていた。そのつもりでずっと接していた。彼女を追い抜くことが、私の唯一の目標だったのかもしれない。だから友里絵が、彼女を摩耗させてるようなところを見ると、腹が立つんだ。私の憧れを、夢を、目標を、汚されてるみたいで……」

「友達、なんですよね」

「そう言ったでしょ。だけど私は響子に対抗心がある。それだけだよ」あくまで彼女は小声だった。「大学に入学した時、彼女に衝撃を受けてさ。それまで自分はなんでも出来ると思っていたけど、案外そうでもないんだって気付いた。だから悔しかったんだよ。あんなわけわからない女に、自分の価値が揺るがされるのが。だから隣りにいて寝首をかいてやろうと隙を伺ってた。友人というポジションなら、そう彼女と能力を比べられることもないし、丁度良かったんだよ。まあ、向上心のない君に、そんなことを言ってもわからないと思うが」

 余計なことを話した、という風に彼女はため息を吐いた。

 私は言い知れない親近感を彼女に抱いた。

 無駄話は終わりだ、という風に彼女は私に問いかけた。

「それで、君はこれからどうする。私はどうもしない。隙を見てドアまで行って、さっさと逃げるのが吉だと思うよ。響子が犯人を引きつけておいてくれれば、脱出も容易だとは思わない? そうだ、君と私で逃げよう。君だって、茅島ふくみのことなんか嫌いだろう。顔に出ている。彼女の言いなりになって、ずっと振り回されるなんて、そんなの悲しいとは思わないか。どう、手を組まない?」

「私は……」

 ――あなたのことは、私に任せて。

「茅島さんが心配です」はっきりとそう伝えた。「彼女を放ってはいけません。それに私は非力なので、ここでじっとしている方が、彼女の迷惑にならないと思いますし……」

「は、ははは」挽地は笑った。「君は私に似ているね」

 小ヶ谷響子のことを好ましく思っていないという点では同意だった。

「私だって、こんなに響子のことが嫌いなのに、友人として、ここを逃げるつもりなんて微塵も無いんだ。悲しいね。でもそう生きるって自分で決めたし、実際そう生きてきたんだから、身体が、もうそういう風にしか動かないんだよ。悲しいね……ほんとうに悲しい……」

 それだけ言うと、挽地ユノは黙った。水に浸した飴のように、闇に溶けてしまったようだった。

 取り残されたような感覚になった。

 何故か涙が出そうだった。

 彼女の言う悲しさを理解する気にはなれなかったが、そう呟いた彼女の声が、ずっと呪いのように、耳から離れなかった。

 過去の自分の行いに縛られる、現在の自分。そういう構図を、私は直視したくなかった。

 自分と決別できる機会があれば、私はとうに手を切っていた。そう、茅島ふくみのように記憶を失い、その後は彼女のように多少傲慢に生きられれば……

 再び、物が壊れる音が私の耳に届く。忘れかけていたが、まだ続いている。

 いよいよ牽制という程度ではないくらい、騒がしくなっている。

「小ケ谷さん!」茅島ふくみの声だった。入り口の方から聞こえる。「鍵は開けたわ! 逃げましょう!」

「バカ言わないで! 早く鍵をかけなさいよ!」あの小ヶ谷響子が、信じられないくらい激昂していた。「逃げ道を作ってどうするのよ、あなたおかしいんじゃないの!」

「あんたよりはマシよ! じゃあ一人で捕まえなさいよ!」

「言われなくてもそのつもりよ! あなたこそ私の邪魔しないでさっさと逃げたら!」

 ――不意に、大きな靴音。

 こっちに近づいてくる。

 聞き覚えがない。

 誰だ。

 予想、

 それは、

「加賀谷さん! そっちに行った! 逃げて!」

 そう叫ぶ茅島ふくみの声に、私は驚く。

 そっちに行った? 何が? 具体的な主語がなければ、よく理解できない。

 足。

 犯人――

 私は咄嗟にライトを点けた。

 向けた方向に、

 気味の悪い人影が

「バカ! ライトなんか点けるな!」

 挽地ユノが私の腕を引っ張る。

 直後に彼女が呻く。

「ううあ!」

 鈍い音がした。肉をハンマーで叩くような、事実その通りの音だった。

 殴られた挽地は、私を掴んだまま倒れ込んだ。

 そのまま私もつられて伏した。顎を打って頭が揺れた。

 挽地は、動かなくなった。

 急いで後ろを振り返ると、暗闇にぼうっと何かが立っている。

 殺される。

 明確な殺意は、錯覚ではないだろう。

 まっすぐに私を狙って、ゆっくりと、棒切れを振り上げていた。

 なんで私を狙うのか、理解できなかった。

 私なんて、生きていてもいなくても、利も損もないじゃないか。

 しかし思い至る。

 私のことを、ずっと気にかけている人物がいることを……

 ゆっくり振り上げられた凶器の意図。

 彼女たちの隙をついたという意図。

 こいつはおそらく、茅島ふくみが私を助けに来るのを待っている。現れた所を、とどめを刺そうと企んでいる。

 脅威となる聴力を持つ茅島ふくみさえ排除してしまえば、後は単なる残作業。

 突如餌にされた気分が、悔しかった。

 私は這って逃げた。

 逃げて意味があるのか知らなかったが、とにかく進んだ。

 虐めるように、背中を殴られた。

 鈍痛で咳き込んだ。

 身体を反射的に犯人の方に向けて、腕で構えた。これ以上殴られたくなかった。

 ライトを照らして抵抗した。

 よく姿が見えて、余計に怖かった。

 血が付着した棒きれが、高く掲げられていた。

 やめてよ……

 私が何したっていうの……

 鋭く凶器を振り降ろされ、

 ――茅島さん!

 もう生き延びれるのなら、彼女を売るつもりで、願った。

 そして、

 私と犯人の間に、

 割って入った人物が……

「小ケ谷……さん……?!」

 私は咄嗟に叫ぶ。

 私を庇った人物は茅島ふくみではなく、

 大嫌いな小ケ谷響子。

 彼女は殴られる寸前に、

 私に対して、

 勝ち誇ったような顔を見せた。

 まるで、茅島ふくみの先を越したことを、誇るみたいな……。

 投げ捨てられるように床に倒れ込む彼女。

 私は後ずさりもできなくなった。

 犯人が、その手を小ケ谷響子に伸ばした。

 頭をつかむ。

 小ケ谷響子から悲鳴が。

「小ケ谷さん!!」

 視界の隅から、まるでロケットのような弾速で、茅島ふくみが飛び込んできた。

 犯人に膝を折りたたんでぶつける。

 受けた方はよろめいて、棚に直撃する。

 物がぶちまけられる。

 着地に失敗して、茅島さんも転がる。

 そこに犯人は、ふらふらと棒切れを振り下ろした。

 腕で防ぐ茅島ふくみ。

 鈍、

 打ちどころが悪かったのか、悶えた。

 追い打ちをかけて始末するものと思っていたが、

 犯人はそのまま、過ぎ去った嵐のように、逃げ出した。

「ま、待……!」

 茅島ふくみの声は、最早私にも聞こえづらかった。

 ……助かった。

 静寂が戻る。

 だけど、私は素直に喜べなかった。

 私のせいで余計な怪我人が増えた。

 そんな事実、生きていく上では耐えきれなかった。



      7



 茅島ふくみの頭に包帯を巻いている時に、私より強い人間が、私なんかに怪我の手当をされている状況に、言い知れぬ興奮を覚えたのは、死にかけたせいで頭がバカになっているからだろうか。

 彼女は黙って、私に身体を任せていた。

 さらさらとした細長い髪が、指に絡まって、邪魔だった。揺れるたび仄かに香る彼女の匂いが気に入らなかった。引きちぎって、芳香剤にでもすればよかった。

 潰されたみたいな傷口からの出血は思ったよりも酷かったが、頭というのは比較的出血量が多くなる部分だと聞いたことがないわけではなかった。あとで住ノ江さんに診てもらうとして、応急処置としてはこの程度で問題はないだろう。

「ちょっと、痛い」

「あ、ごめんなさい」

 訴える彼女に私は謝った。少し強く巻きすぎたみたいだった。手元に心もとない灯りしか無いのだから、そう上手くいくものでもなかった。

 巻き終わると、不満なのかに彼女は包帯を触った。見たところ痛みもなく、意識もはっきりしている。重症ではない。不格好に額に巻き付けられた包帯が、彼女の美しい顔面に陰りを作っていて少し面白かった。

「あなたは、怪我ない?」

「手を切ったくらいで、軽傷です」

「あなたって、結構頑丈よね」

 この程度あなたに比べれば全然平気です、と言いたくなった。

 そして、それ以上に……

「小ケ谷さん、大丈夫かな」

 茅島ふくみは、呟く。

「……本当に、小ケ谷さん、記憶を?」

「だって、見たらわかるじゃない、あんなの。そうとしか考えられない」


 襲われた小ヶ谷響子は、私達よりも重症だった。

 彼女の異変に気づいたのはついさっき。茅島ふくみが彼女を助け起こしたときだった。

『…………小ケ谷さん?』

 小ヶ谷響子の意識がはっきりしていなかった。

『小ケ谷さん、しっかり』

『……………………何?』

『私の事、わかる?』

『…………………………………………なにそれ?』


 それは、沼山イツヲと同じような症状だった。何も見ていないような瞳と、釈然としない受け答え。抜け落ちた自我、そう呼ぶのが、私としてはもっとも腑に落ちた。彼女らは、本当に自分をなくしてしまったようで、この世をさまよい続ける亡者みたいだった。

 彼女の異変が明確になってから、率先して看病に勤しんでいるのが久利、そして挽地は、立っているだけで何もしなかった。何もできなかったのか。久利の手慣れた包帯の巻き方を、見るともなしに眺めていた。

 決定的な断絶。

 もともと仲がよく見せられただけでも、奇跡みたいな三人。それは二人が小ケ谷響子へ思うところがあったから成立していたのであって、彼女が重篤な今、この二人を繋ぎ止める接点なんて、三次元空間の何処にも存在しなかった。

 ぐったりと、宙を見つめているだけの小ヶ谷を見ながら、深刻そうに茅島さんが呟いた。

「なにがあったと思う、あれ」

 考えてみても、答えは一つしか無かった。

「沼山くんと同じように、犯人の……」

「そうね」

 茅島ふくみはいつものように腕を組んで、歯ぎしりをする。雑に巻き終えた包帯すら、髪留めのように機能していた。

「沼山くんと、小ヶ谷響子…………ふたりとも、記憶を失っている」

「頭を強く打ったから、ですか?」

「沼山くんにそんな外傷はなかった。だけど二人の症状は共通してる。沼山くんの時に懸念された、薬を投与されたという可能性も、小ケ谷さんの状況を見れば、あまりにも効きが早すぎることもわかる。頭を掴まれてから数秒。そんな即効性の薬物、普通に考えて存在しないわ。つまり……」

 じっと私を見る彼女。

「犯人は機械化された際に搭載された特殊機能を以て、彼女たちの記憶を消した」

「特殊機能って……茅島さんの耳みたいな?」

「ええ。つまり犯人は、患者よ。ここで身体を機械化した人」

 初めて具体的な犯人像を示されて、私は身震いしてしまった。

 もうひとりの患者……やはり本当にいるのだろうか……

「記憶を消すのか、改竄も出来るのか、それは定かではないけど、もしかしたら、さっきの犯人だって、私達の集団幻覚という説も覆せないわ。私たちは全員犯人に記憶をいじられてて、ああいう変質者に襲われたっていう嘘の記憶が植え付けられているだけなのかも。私たちは犯人を、まだ認知すらしていないことも、否定できないわよ」

「バカ言わないでくださいよ……」

 デタラメすぎる。そのような滅茶苦茶な機能に、どうやって対抗すれば良いの。そんなことを言い始めたら、院長が殺されたのだって妄想だし、私達がここにいることだって妄想にすぎない。目の前の茅島ふくみだって、実在しないのかもしれない。すべての記憶が偽りなら、私は地球で何処かに監禁されて、こういう体験を擬似的にさせられているのかもしれない。

 気が狂いそう。

 考えれば考えるほど、愚かになっていく気がした。

「そんな人間に勝てるわけないじゃないですか……」

 嘆いて、宇宙に、放り出された気持ちになった。事実、宇宙に放り出されていた。

 それでも茅島さんは、いつもと同じように口を開いた。

「犯人が幻覚だろうが妄想だろうが、私達を弄んでいることは確かよ。ここまでされて、私は許しておけないわ」指先の骨をぱきりと鳴らした。「せめて殴り返さないと気がすまない」

「……茅島さんらしいですね」

 心底そう感じた。

「失礼ね、そんな横暴な人間じゃないわよ」言いながら軽く微笑む彼女。「でも、そう考えると私の記憶喪失だって、犯人が原因かもしれないじゃない。なおさらほっとけないわよ」

「そういえば、そうですね」

「今まで、私の記憶喪失に人為的な原因があるなんて、考えたこともなかった。どっかで頭を打ったか、精神的に辛い目に遭ったか、あるいは両方か、なんて思ってたんだけど」

「じゃあ犯人を捕まえれば、茅島さんも記憶を……?」

「戻るかもしれないけど、残念ながら、それには興味が無いわ」茅島ふくみは首を振った。「ここでの暮らしが気に入っていたって言ったでしょ。余計な情報で変に自分を思い出して、じゃあ帰るべき場所がわかったからって、地球に帰りたくないの。そりゃ原因は突き止めたいけど、失った記憶の内容まではどうでもいい。私は今の私でいたいの」

 そう言う彼女の顔を見ながら、この女の最も魅力的な部分に、私は触れたような気がした。

 こんなことを言えるような人間に、ずっと私は憧れていたのかもしれない。過去のことから綺麗に縁を切れる人間。何もかも自分とは性質が異なる人間。自分にないものに魅力を感じることは、正常な反応だとは思う。

 茅島ふくみへの憧れ、という文章を冷静に思い返して、首を振ってかき消した。妄言もいいところだった。だけど、それを否定する気分にもなれない自分に気づいた。

 私は、確かに彼女に憧れているのか。認めたくない事実だった。

 さてと、と立ち上がる茅島さんが、ふらふらとよろめいた。

 私は肩を支えに駆け寄った。

 触れてみると、彼女の身体が、やっぱり白木のようにか細く見えた。

「ありがとう」

「……栄養取ってます?」

「栄養だけは足りてるはずだけど」

「栄養食品でしょ。駄目ですよそれだけじゃ」

「でも。あれが一番効率いいもの。機能を使うにはエネルギーがいるから」

「そうなんですか……」

 足を引きずりながら、地面を寝床の代わりにしているようにしか見えない小ケ谷響子の様子を伺った。

 何処を見ているのかわからない目、意味のあるようなことを呟かない口、単なる魂の入れ物と化した身体……

 側にいる久利に目をやると、首を振った。彼女に訊くまでもなく、明らかと言っていほど重症だった。

「駄目です……響子さん……」

「意識はある?」

「はい。でも反応がなくて……」

 茅島ふくみは、小ヶ谷響子を見下ろしながら、さっきの考えを口にした。冷たく死を告げる死神みたいだった。

「小ケ谷さんは、犯人の特殊機能に因って、記憶をいじられている。根本的な自我さえ忘れてしまってるような状態よ。単純な記憶喪失より酷いわ」

「そんな……それじゃあ響子さん、もう戻らないんですか……?」

 訴えるような目で、茅島ふくみを見る久利。

「それはわからない。でもそんな機能がある犯人なら、逆に失った必要な記憶を植え付けることで、治せる可能性もあるんじゃないかしら……」

 急に場違いなほど楽しそうな笑い声が響いた。

 暗闇の隅で立っていた挽地ユノだった。なにがそんなに可笑しいのか、十秒ほど声を上げていたあと、まだ堪えきれずに、口を抑えながら言った。

「あは、あははは、あの小ヶ谷響子が、このザマか! ははは!」

「なにが可笑しいのよ!」怒りながら久利が立ち上がった「こんな時にまで、あんたって最低だわほんと!」

「だって友里絵、考えてもみてよ、あの私達たちが憧れた小ヶ谷響子がよ? わけのわからない人間の手で、こんな酷い目に遭ってしかも重症なんて、意味分かんないよね」

「意味分かんないのはあんたよ!」

 久利が挽地に掴みかかる。

「ちょっとあんた達止めなさいって」

 茅島ふくみが止めたが、二人の耳は機能していない。

「もういい、黙らないと殺すわ、あんた……響子さんの頑張りを、ゴミ箱に捨てるみたいに言いやがって……!」

「は、なにが頑張りだよ。偽善さ。響子は元々自分のことしか考えてない。犯人を捕まえるのは、自分の評価を上げるため。加賀谷さんを助けたのも、茅島さんより自分のほうが優れているという所を見せたかっただけだよ。そんな人間が、自分の承認欲求のためにこんな酷い目に遭うって、こんな面白いことはないよ! あははははははははは」

「黙れ! 黙りなさい!」

 久利が挽地を壁に押さえつける。

 しかし、力の差があった。

 挽地は久利を、腕一本で突き飛ばした。

「うわ、」

 一つの棚にぶつかる。

 次の瞬間――

「危ない!」茅島さんが叫んだ。

「え……?」

 棚が傾く。

 中身をぶちまけて、軽くなっていたのか。

 その先には、地面に添えられている、小ヶ谷響子――

「響子さん!」

 挽地はその間、呆然としていた。

 棚は、小ヶ谷響子を押しつぶすようにして、地面に重なった。

 悲鳴すら聞こえてこなかった。

 なにか失敗したかのような、大きな音が鳴った。

 小ケ谷は挟まれて……

「ユノ……! あんた……!」

「違うよ、私、そんなつもりで……!」

 下がる挽地。

 そんな奴は放っておいて、小ヶ谷響子の元に駆け寄る私達。

 彼女は悶えていた。

 息はあるようだったが、これでは……

「急いでこの棚を持ち上げて!」

「は、はい……!」

 茅島ふくみの声で、私と久利は小ヶ谷響子の上に乗っている物体に、力を込めた。

「私のせいじゃない! 響子の自業自得だよ!」挽地。「日頃の行いが悪いんだろ! 私をこんなにも惨めな気持ちにさせて――」

 いなくなる茅島さん。

 瞬間、茅島ふくみが、彼女を思い切り蹴って、口を封じていた。挽地が腹を抑えて尻餅をついた。

「黙れそんなこと今どうだって良いわ! 手伝いなさいよ!」

 そう叫んだ茅島ふくみ。

 しかし、挽地ユノの姿は、私達が渇望していた出入り口の方に消えていった。

 跡形もなかった。

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