2章 悟りみたいな歌



      1



 視界が落ちた。

 眼球がついている意味がなくなった。

 何?

 悲鳴が聞こえる。バタバタとした足音が聞こえる。逃げているみたいだった。

 何から?

 それは当然――

「殺してやる! 全員殺してやる!」

 叫び声が聞こえて、私の方へ向かってきた。

 下向、

 狂ってしまった彼。

 椅子にじっと固まっていた私は、急いで身体を起こした。このままでは、関係のない私まで殺される。彼が狙っているのは、患者だけのはずだった。私を狙う道理なんて、天地がひっくり返っても存在しない。

 なのに声は、私を目指して立ち止まらなかった。椅子から立ち上がる時に、音を立ててしまったから。

 あいつは、茅島ふくみは何処へ行った。

 狙うならあいつで良い。私は関係ない。死にたくない。

 椅子から立ち上がったは良いが、走ろうとして、近くにあった別の椅子に引っかかって、派手に転んでしまった。

 顎を打つ。足がすくんでいた。心の虚弱を映し出しているみたいだった。

 身体が痛む。

 だけど殺される時はもっと……

 必死で、腕力を使って逃げようとしたが、自分が酷く重い。

 気がつくと人の気配が近くに。

 間髪入れずに腕を掴まれる。

 身体を持ち上げられると、暗闇でもわかるくらいに、下向の顔が近くにあった。

「お前も……俺を殺そうっていうのか……?」

 声が出せなかった。彼を人間だと思うことすら難しかった。

 顔を殴られて、頭が揺れた。地面にまた叩きつけられる。私の体温を奪っていくように冷たい。

 なんでこんなに痛いのか、意味がわからなかった。手を包丁で切ったときのほうがずっとマシだった。骨を折ったことはないが、それでも殴られるよりマシだと思った。

 死にたくないということしか、考える気にならない。

 助けて……

 どうせ殺すなら、いっそ簡単に殺して欲しい。一番嫌なのは首を絞められること。息ができないまま苦しんで死ぬなんて、考えただけでも嫌だ。続いて撲殺、痛みは一番だろう。気絶できれば一瞬かもしれない。次は刺殺。包丁は怖い。

 大きな物音がして、下向が呻く。

 彼の身体は闇の奥へ倒れ込んだ。殺される準備をしていたので拍子抜けだった。首に手がかかっていないか、触って確かめたが健康だった。

 呼吸をする。

 一体……

 唖然としていると、また腕を掴まれ、グイと私を引っ張っていった。

「立ちなさい! 走って!」

 茅島ふくみ――!

 なんで、彼女の声が……

 私は腕を引かれるまま、とにかく走ることだけを考えた。何処へ行くのかは、全て彼女に任せた。

 叫び声が聞こえる。

 下向。

 離れていく。

 助かった……

 私、助かったんだ……

 手近な部屋に転がり込んで、茅島ふくみが鍵をかけた瞬間に、私は床に突っ伏して、安心感から子供みたいに泣いた。



 休む間もなかった。

 程なくして外から、ドアを殴る音が聞こえてくる。

 軋んでいく。

 撓んでいく。

 死が迫っているぞと身体に教え込まれているみたいに。

「畜生……あの野郎……」

 壁に腰掛けて座っていた私の隣に腰を下ろして、茅島ふくみがそう呟いた。

「このままじゃ、まずいわね」

「エレベーターは……?」

「停電しても、予備電源があるから動いてるんだけど、でも残念ながら、こっちはエレベーターの反対側。あっちに下向を行かせると、みんなが危ないからね。で、ここは娯楽室。ボードゲームとか色々あって、暇だったら遊んであげたいんだけど、まあそんなことは今関係ないわ」

 ずっとドアが殴られている。

 乱される。

「殺す気よ、あれは。本気で。あなた、怪我はない?」

「……殴られて、なんか全身痛いですけど、血とか出てるのかな……」

「……そう。見えないの?」

「当たり前じゃないですか。夜目とかそんな問題じゃないですよ」私は疲れと一緒に息を吐き出した。「茅島さんは、見えるんですか? 夜目効くんです?」

「もちろん見えないけど、私には耳がある。こうやって足音を鳴らせば、周囲の環境は靴音の反射音で把握できる。反響定位っていうんだけど」

「……蝙蝠みたいですね」

 皮肉を言ったが、彼女は「そうそう、そんなものよ」と笑うだけだった。

 ドアが更に大きな音を立てる。なんだろう。机か何かで痛めつけられているのだろうか。彼女と身を寄せ合って、屠殺されるのを待っているみたいな気持ちになってきた。

 ダメだ、ここにいちゃ。もののあと数分で殺されてしまう。

 私が立ち上がろうとすると、腕を掴まれて静止させられた。

「ちょっと、何処に行くの?」

「だって、ここにいたって……」

「それはわかるけど、娯楽室の先は袋小路よ。小さな簡易的な物置しか無い」茅島さんは、私を諭すように囁いた。「ここから逃げ出したいなら、下向をどうにかする他ないわ」

「そんなのどうするんですか……」

「そうね……ちょっと頼まれてくれない?」

 何かを思いついて、軽やかに立ち上がった茅島ふくみ。新しい遊びを思いついたような雰囲気しか感じ取れなかったが、その態度すら今は腹が立ってきた。

 不意に掌に、なにか硬いものを握らされた。

 ゴツゴツしてて、握りやすくて、適度に重い。

 これは……

「……拳銃……?」

「そうよ。ここに隠してあるのを思い出したの。ゲームに熱中しすぎて、秩序を失った人に使う用にね」

 私に人を撃てというのか……?

「拳銃なんて、私使ったこと……」

「大丈夫。麻酔銃よ。実弾の銃より軽いし、身体の何処かに当たれば、しばらくすれば効果があるわ。あなたみたいな昼行灯でも安心」

「でも、こんな暗闇でどうやって狙えば……」

「端末のライトを使って。撃つ時だけでいい。彼の瞳孔は最大まで開いてるから、上手く行けば目くらましにもなるし」

「でも茅島さん、私こんな……無理です……茅島さんが撃って下さいよ。暗闇なら茅島さんのほうが……」

「その場合、誰がエレベーターを呼び出すの? いいこと? あなたが彼を無力化して、私はエレベーターを呼び出しに行く。撃ったら叫んでくれたら、助けに行く。エレベーターは一階にあったとしても、およそ十秒程度で到着するから、そのまま逃げて、乗り込んで、終わり。下向も、しばらく薬で無効化できる。こんなに完璧な作戦はないわよ」

「完璧……ですか?」

「ほかと比べれば」

 じゃあ、頑張って、と不意に肩を叩かれると同時に、茅島さんの気配が目の前から消えた。

「ちょっと、茅島さん、待って……!」

「静かに、姿勢を低くして。あいつが来たら構わず数発。頼んだわ」

 ついに破られるドア。

 何かが、ひっくり返されるような音。

 まるで獣のような足踏み。

 消えてしまった茅島。

 明確な殺意を、暗闇から感じる。

 私は息を止めた。震えは止まらなかった。骨の軋みすら、闇に散布しているような気分になった。

 狙えったって、どうすれば……

 子供用のエアガンだって触ったことすら無い。

 下向らしき人影が、何かを踏んづけている足音が聞こえる。なんだろう。小さなプラスチックの玩具だろうか。それも無数に。茅島さんが撒いたのだろうかもしれない。音が、段々私の方に近づいていた。

 彼女の真似事ながら、これで位置関係を把握するしかなかった。

 こんな音の情報だけで、なんで鮮やかに周りを見渡せるのだろうか。蝙蝠女の真似事はやはり不可能だった。

 パキっと聞こえる音。

 近い。距離にして、私が寝転がって三人分くらいか。つまり数メートル。いや正確ではない。正面から、やや右奥の方から響いてきた。

 音がしないように息を吐いて、音がしないように息を吸った。苦しくなってきた。空気が不味い。吐きそうだ。

 無責任に心臓が、私を身体の内側から殴って、急かしている。

 そうだ、武器を確認しよう。麻酔銃は知識で知っていたよりもずっと軽く、人を沈黙させるほどの厳かさは存在しない。スナック感覚で引き金を引く人の気持ちが、今となってはわからなくはなかった。

 また音が近づく。私の身体一人と半分。

 切り札を握りしめる。

 自信は発生しない。

 イメージ。端末にはライトを照らす機能がある。目の前に投影される画面からではなく、指輪の形をした本体に搭載された電灯から、直接照射される機能であることは、去年冷蔵庫の隙間に入った鉛筆を取る時に知った。

 コマンドはディスプレイ起動ボタンを三回。

 行ける……

 行けると自分に嘘をついた。

 嘘だとすぐに見抜くのも自分だった。

 音。ほぼ正面。

 反芻。ライトを照らして、身体に数発、逃げる、叫んで茅島ふくみを呼ぶ、彼女と一緒にエレベーターに乗って逃げる。ライトを照らして……

 やらなきゃ……

 やらなくちゃ……

 死にたくない。

 たったそれだけが、私の原動力。

 決意も不十分に、

 私は足に力を込めて、

 身を起こす。

 完全にイメージした通りの動き。

 ライトを向けて、彼に照射した。

 一瞬、私まで目がくらんだ。

「うわ……!」

 下向が仰け反る。

 浮かび上がる人間。

 さっきまで普通に過ごしていた人間。

 そうだ、もはやまともな人間じゃない。

 ためらわず、すかさず、銃を構えた。

 当たれば身体のどこでも良い。

 とにかく構えて、引き金を引く。

 軽い音を立てたが、手応えがない。

 ――

 そして私は絶望する。

 渡された拳銃は、どこからどう見ても、

 作り物の玩具。

 は。

 あの、

 あの女――

 私を、騙したのか…………

 そうしていると、下向に組み伏せられた。

 首に、不躾にも手をかけられて、こぼした飲み物を拭った雑巾でも絞るみたいに、絞め上げられた。

 舌を出して私は喘いだ。

 足を振り上げたけれど、空を掠めるだけ。

 苦しい……死………………

 そんなことは、次第にどうでも良くなった。

 許せない、あの女、茅島ふくみ……

 私を騙して、自分だけさっさと逃げやがった。

 絶対に許さない……

 殺してやる……

 殺される……

 一番されたくなかった方法で、殺されている。

 抵抗も虚しい。

 どうでもいい。

 苦しい。

 どうでもいい。

 早く死にたい。

 死んだあとはあの女を恨み続けたい。

 なるべくあの女がつらい目に遭うように祈り続けたい

 神様、あの女を殺してください

 嫌……もう嫌……

 何もわからなくなってきた

 できることなら、ここから助けて欲しい

 本当は死にたくなんて無いのになんで死ななくちゃいけないのだろう……

 嫌、

「ありがとう加賀谷さん、良い囮だったわ」

 ――

 頭上で派手に音がする。

 下向が私から手を話した。

 空気がなだれ込む。

 涎を垂らしながら、私は咳き込んだ。

「さっきの仕返しよ。くたばれ」

 そして私はまた、連れて行かれる。

 私を騙したはずの、茅島ふくみに。

 エレベーターに連れ込まれると、女はボタンを押してドアを閉めた。

 中は、非常用の明かりが灯っている。

 私は座り込んだ。息をした。息をしながら涙を流した。

「ごめんなさい、悪かったわ」

 悪びれる様子もなくそう言う女を、無視した。

「あいつの隙を作るとなると、こうするしか……」

「ふざけんなよ! そんなの一人でやれよ! お前、今私がどんな目に遭ったのか知ってるのか! 殺されかけたんだぞ! 玩具の銃なんか渡しやがって、お前なんのつもりなんだよ…………!」

 ……。

「……ごめんなさい」

「私を巻き込む必要あったのか!? 私が死んでたらどうすんだ! なんであんなやつ殴る必要があったんだよさっさと逃げればよかっただろうが! 馬鹿かお前は! 地獄に落ちろクソ女!」

 沈黙。

「……本当に、ごめんなさい。私も彼に腹が立ってて」

「もう…………嫌……帰りたいよ…………帰りたい……やだよ………………」

「……私が責任を持って帰す」

 返事をするのも苦痛。

「あなたのことは、私が助けるから……」

 銀河系で一番嫌いな女に、そんなことを言われたって、黙れとしか言いようがなかった。



      2



 二階で、エレベーターは止まった。

 何も考えずに、エレベーターから降りて、そのまま座り込んだ。立っている気力がなかった。外は一見真っ暗だったが、奥に伸びる廊下には、非常灯がかすかに灯っていて、薄赤くて気味の悪い色だった。

「加賀谷さん、エレベーターの近くは危険よ。行きましょう」

「…………ここで何する気だよ」

「院長の遺体を、ちゃんと調べるわ」

「なんだそれ、探偵ごっこかよ」

「犯人を探したほうが、事態の収束は早いわよ」

「私を巻き込むな。犯人なんて、もうどうでも良いよ……」

「じゃあ、そこを動かないで」

 冷蔵室へ向かう茅島。

 それでも取り残されることが怖くなって、私は急いで彼女を追いかけた。

「ちょっと、置いていくことないじゃん」

「あなたって、案外わかりやすいのね」

「……どういう意味よ」

「別に」

 無言になって、二人で廊下を進む。彼女のほうが五歩先を行き、私はその後を、渋々着いて行ったし、そうするしか無かった。背中から殴り殺したかったが、手頃な凶器もなかった。

 冷蔵室は、一層不気味に感じた。

 まるで魔界への入り口だった。そんなものを見た覚えはないけど、素直にそう感じた。

「えっと、そこで待ってて良いわ。入り口の所」彼女は指す。「もし下向がやってきたら、急いでこっちに逃げてきて」

「ちょっと、そんな、嫌だよ……」

「じゃあ、どうする?」

「……中で待つ」

 少し中に入って、隅の物陰に腰掛けた。茅島ふくみは、そそくさと奥の方へ向かった。院長の遺体を調べることしか、頭にないみたいだった。

 悪趣味な女。

 自分がそういう、死体を物色することに喜びを感じるタイプの人間でないことに、生まれて初めて感謝した。彼女との相違点が、今では宝物のように愛おしくなった。

 じっとボックスの注意書きを何も考えずに読んでいると、中から茅島ふくみが声を掛けてくる。

「ねえ。メモ、取ってくれる?」

「はあ?」

「今端末のバッテリーがないのよ。あなたは?」

「ありますけど」

「じゃあレコーダー回してて」

 言われたとおりに端末を起動して、レコーダーを開く。全く使ったことがなかったので、探すのに数分かかった。

 それを茅島ふくみに伝えると、彼女は頷いて喋り始めた。

「えーっと、まず、死因は刃物による刺殺。刃物は何処にもない。傷口はそんなに広くないけど、心臓に達してると推測される。出血量も多い。身体がほとんど凍ってるから、死亡時刻はわからない。殺されたのはどこかしら。そっちに血痕が落ちていることから、ここではないようだけど。冷蔵室に運んだとしたら、死亡時刻を悟らせないためか。まあそんなところね」

「レコーダーに録る必要あります?」

「忘れないようによ。あと、ちょっとやってみたかった」

 私は録音を切ろうかと思った。

 しばらく、とりとめもないことを喋ったあと彼女は、私に向かって面倒事を提案した。

「ねえ、加賀谷さん。そこの血痕、調べてくれない? あなたが見つけたやつ」

「なんで私が……」

「お願いよ。私、あんまり目は良くなくて」

「嫌だよ……」

 口ではそう言ったが、渋々私はパフォーマンスとして、床の血痕を屈んで調べた。数滴零れたのだろうか。やはりネズミにしては広範囲、ちょっと怪我をしたにしては、やや深刻に見える。

 専門家じゃないんだから、わかるわけないじゃない。

 指で触っても、ああ固まってるな、くらいの当たり前のことしか感じない。

 どうでもいいよこんなの、と私は悪態を心の中でつく。血痕の集まりに目を凝らす。ライトを照らす。すると、入り口にほど近い床に、新しい痕が認められた。ずっと薄くなっていて、見えづらかった。

 擦れているように、血痕は死体の方へ伸びていた。

「ねえ、茅島さん、これって……」

 声をかけると、想像よりも速い歩みで、茅島ふくみが飛んできた。

「何?」

「ほら、これ、見てくださいよ」私は指した。「血痕が、死体の方向に伸びています」

 鼠みたいに床に顔を近づけて、初めて彼女は頷いた。

「……へえ、本当ね。じゃあ何処か別の場所で殺して、死体を引き摺ってきたってことかしら。同じ階だし院長の部屋かしら。あなた、さっきの血痕もそうだけど、こんなのよく見つけられるわね。ちょっと感心した」

「別に耳だけで生きてないんで……」

「あなたのその目ざとい所、誇ってもいいわよ」

「褒めてるんですか、それ」

「ええ。あなたに頼んで良かった」

 茅島ふくみは笑いながら死体の方へ帰ったが、しばらくした後すぐに、またこちらへ戻ってきた。もうなにも調べるようなところは、彼女の頭では思いつかないらしい。

「おそらく犯人は、院長の部屋で彼を殺し、凶器は刺さってたのか、抜いたのかは定かじゃないけど、引き摺って来た。部屋からここまでは、そう離れていないから、時間もかからない。そしてその過程で、血が気づかない程度に、数滴滴った」私の隣で長話を垂れる彼女。「冷蔵室の奥、冷凍倉庫かな。そんなところなんて、鍵でもかけとけば滅多に人も来ないし、あとでゆっくり処理しても良い。ねえ、加賀谷さん。誰が院長を殺したと思う?」

「下向」

 即答すると、彼女は不満そうに眉をひそめた。

「彼、あんなどうしようもない人間だけど、犯人を恐れていた。呼吸を聞けばわかる。人殺しではないんじゃないかしら」

「そんなの知りませんよ。私を殺そうとしたんだから、私が彼を犯人だと思うのって普通でしょ」

「他の可能性を考えてよ」

「じゃあ……シャトルに無断で乗り込んでいた、私達が全く知らない人」

「そんな人、目の前にいただけで、院長なら助けを呼ぶわよ」

「茅島さんは、犯人は顔見知りだって言うんですか?」

「顔見知りっていうか、今このステーションの中にいる誰か。部屋で刺されたのなら、院長はそいつをわざわざ部屋の中にまで招き入れたわけだから、知人も職員も、あなた達客人も含まれる」

 そんな可能性、考えたくもない。

 今まで顔を突き合わせてきた人が、頭のいかれた殺人者だなんて、悪い冗談にもほどがあった。人を殺した後に、下手をすると私達に混じって食事を取っていた、ということもあり得る。理解出来ない感性だった。

「加賀谷さん。じゃあ犯人は何故、院長を殺したと思う?」

「……わかりませんよ。私、院長に会ったこともないし。下向とか職員の人なら、なんか恨みとかあったんじゃないですか……」

「まあそうね。あなたたちお客さんは、教授を除いて、動機の線では薄いと思う。一応念のために、ナキさんに連絡入れてみましょうか」

「あの人はそんな人じゃないと思うんですけど……」

「なに? 偉く気に入ってるのね。無理も無いわ、良い人だもんね」茅島は自分の端末を立ち上げる。バッテリーがないと言ったくせに。「私はあんまり好きじゃないけど」

「なんでそんなこと言うんですか」むっとして私は楯突いた。

「お節介がちょっと、私には嫌なだけ。別に、本当に悪い人じゃないわよ」

 茅島ふくみが、冷蔵室は電波が悪いと言うので、廊下に出た。周囲には細心の注意を払ったが、下向はいない。

 体温が戻っていく。ちょっと休みましょう、と彼女が言う。従って、廊下に座って俯いた。

 住ノ江さんのことを、さっきから考えている自分がいた。信頼している人を疑うことが、こんなにも辛いなら、初めから信頼なんてしなければよかった。そんな詩みたいな文章が頭に浮かぶ。

 俯いたまま茅島ふくみに話しかけると、彼女は返事をする。私よりもずっと元気だった。

「茅島さん、なんで犯人探すんですか?」

「なんでって、さっきも言ったけど、その方が早いでしょ」そんなことは当然だ、とも言うように胸を張って、彼女は答える。「犯人は変更された後のパスコードを知ってる。パスコードを変更した張本人なんだから、考えてないでも当たり前の話よね。そしてそんな頭がイカれた殺人犯を、ずっとそのままにしておくわけにもいかない。さっさと捕まえてパスコードを吐かせたほうが、危機回避と脱出の面で合理的です」

「…………まあ、はい」

 自室で篭りながら救援を待ったほうが、そんなことよりもずっと安全ではないか、という考えに私は取り憑かれていたが、どうせ彼女は聞く耳を持たないだろうと思って、隠れて飴を頬張ったみたいに口をつぐんだ。第一、救援が来るという保証すらない。ゼミ合宿出発から数週間もずっと連絡が途絶えれば、地球上の誰かが不審に思ってくれるだろうが、今はたかだか二日。そのうえ今は宇宙に面しているハッチの開閉も出来ない。救助が来た所で、あまり意味がない。

 でも犯人探しなんて、また殺されそうになったら、それこそ御免だった。

 彼女だけが頑張ればいい。彼女だけが私の知らない所で頑張って、勝手に犯人を知らない間に捕まえればいい。そして私は自室にずっと籠もっていながらにして、安全に地球への脱出路を確保できれば良い。最善だ。それがいい。

 でも、根拠もなしに、そうならないことはわかっていた。

「住ノ江さんたちって、無事なんですか」

 気が沈んでしまう前に、私はまた彼女に訊く。

「停電してすぐに、エレベーターで真っ先に逃げたわ。他の人達もそれに続いて。岩脇さん、饒平名さん、教授。その次はあと小ケ谷っていうあの女と、その友達ふたり。停電して下向が暴れ始めたっていうのに、ぼーっと何もしないで残されてたのは、残念ながらあなただけよ」

 話しながら、茅島さんはすばやく端末を操作して、住ノ江さんに通信をかけた。短距離通信なら、公共電波を介さずに、端末同士での通信は可能だ。

 短距離通信。手軽さを売りにはしているが、音質も悪く、あまり離れていると繋がりすらしない。もちろん施設から外部には届くはずはなく、地球や他の民間宇宙ステーションに助けを呼ぶことは出来ない。まるで馴れ合うためだけに搭載された下らない機能だった。私が必要になったことはほぼない。

 呼び出し音が途切れて、画面が切り替わった。住ノ江さん、無事だったみたいだ。

「あ、ナキさん。無事ですか。ちょっと合流しようと思うんですけど……はい。自室ですか。すぐに行きます」

 茅島さんは端末を閉じた。音声は彼女の耳元でしか鳴らないため、住ノ江さんの声は聞こえなかった。

「自分の部屋にいるって。この階よ。行きましょう」

 茅島が、座っている私に、まっすぐ手を差し伸べる。

 まるで友好の証だとでも言いたげな。

 それを掴まないで、私は起立した。

「そうだ、端末の番号教えてよ。連絡取る必要あるでしょ」

「はあ、良いですけど……」

 私は口で番号を教えた。彼女の連絡先も渋々登録をする。

「みだりに連絡しないで下さいよ」

「大丈夫よ。私だって、電話嫌いだもの。私の耳には痛いから」



      3



「茅島さん、他の患者もあなたのような機能が搭載されてるみたいですけど」

「ああ、そこまでは教えてなかったっけ」

 歩きながら、彼女は快く答えてくれた。

 まず彼女、茅島ふくみ。年の頃は私と同じくらい。今までに見たこともないくらいの美人で、そして誰よりも人格が歪んでいることは、私がよく知っていることだった。身体に沿った細身のシルエットを強調するシャツに、見方によっては時代錯誤的な長い丈のスカートを身に着けている。長い髪がなびいて、随分年上のようにも見えなくもなかったが、同じ年代だと住之江さんも言っている。

 彼女の機能とは要するに、異常なほどの聴覚、つまり、考えられないほど耳が良い。ここへ来る以前の記憶を失っているが、そんなことを感じさせないような生活態度だった。

 彼女の耳の良さは、飽きるくらいに思い知らされた。人間の行動には音、つまり空気の振動が伴うらしいが、彼女はそれがいかに微細な音波だろうと感知できる。離れていても物音や呼吸や歯ぎしりで位置を割り出され、人格を分析され、暗闇では蝙蝠のように自由に動き回る。

 つまり、正しく音を伝える、平凡な窒素が多めの空気で満たされている空間に於いては、彼女は無敵に近かった。運動能力も私なんかよりもずっと優れていて、下向にも物怖じしない横暴そうな度胸と、上品な外見とは裏腹に悪い足癖を兼ね備えた女だった。

 話している間に私は、二歩ほど距離を取った。ますます近寄りたくなくなった。

 次は貞金雄一郎。キッチンで見かけた男の子。身長こそ私よりも高かったが、弟という概念を丁寧になぞったような風貌をしていた。着飾るということをまだ知らない年齢なのか、装いも簡素だった。まあ場所が場所だけに着飾る気も起きないだろうが。

 機能としては、両腕の力が強いという触れ込みだが、故障しているのかその機能が発揮される所を見たことはなかった。こんな状況下でこそ必要な機能かもしれないというのに、皮肉なものだ、と私は呟く。

 続いて両優花。貞金くんと同じくらいの年頃の女の子。話したことはないが、一見すると気が強そうな印象があった。茅島ふくみと風貌も似ていて、並んでいると少し歳の離れた姉妹という雰囲気があって少々微笑ましい。彼女と茅島ふくみは、案外仲がいいと住之江さんから聞いたような気がするが、あまり鮮明な想像ができない。

 機能は記憶力。覚えたことが、ステーションのデータサーバーにそのまま保存されるらしい。どこでどう使うと有効なのかわからない機能だった。

「まあ今いる患者はこんなものね。私が来る以前にいた他の患者は、もう退院して地球で働いてるらしいけど」

「結構長いんですね、ここって」

「宇宙に来て十数年は経ってるんじゃないかしら。いつだったか院長がそんな話をしていた気がする」

 エレベーターのある広場まで戻ってきた。相変わらず照明が少しも機能していないが、微かに廊下の非常灯の光が差し込んでいるので、数歩先が見えないこともない。いくつか扉が確認でき、患者の名前が刻まれていることから、患者用にあてがわれた部屋が立ち並んでいるのだろうと推測される。これは、トイレに来た時に確認した通りだった。茅島ふくみの部屋も、この軒に存在する。

 扉のひとつを茅島さんがノックすると、中からひょいと貞金くんが顔を見せて、無言で私達を招き入れた。

 安堵しながら中へ入ると、非常ランプが焚かれていて、仄かに明るさがあり、もはや懐かしい顔が三人並んでいるのが見えた。住ノ江さんと、今私達を連れた貞金くんと、ベッドに腰掛けている患者、両優花ちゃん。

「鍵をかけて、ふくみちゃん」

 奥で座っている住ノ江さんが指示した。警戒しているのか、最後に見たときよりも少し苛立っていた。彼女もそんな顔をするのか。

 言われて茅島さんは、オートロックは停電していて使えないらしく、手動ロックを掛けた。両方備えてあるなんて珍しいな、と私は思う。自宅の古いマンションでさえ、電子ロックしかないというのに。

 室内は、電気が通っているときであれば、廊下と同じように最小限の照明が部屋を満たしていたが、今はそれさえも沈黙している。見る限り、あまり彼女の趣味を伺いしれない部屋だった。生活に最低限の物しか、この部屋に存在することを許されていない。私達が使っている客室よりも広かったので、余計になにもない空間が気に止まった。ベッド、机に備え付けのコンピューター、その他本棚には少量の資料やファイルくらい。端的に言えば、生活感がない。

 住ノ江さんがこんな部屋に住んでいるなんて、私はいけないものを見た時のような悪い感情を作り出した。彼女と話をした印象から見受けられる人物像からは、少しかけ離れていた。医療ステーションの仕事というのは、部屋で時間を潰す時間が惜しまれるほど忙しいのだろうか。

「他のみなさんは?」入るなり、茅島さんが尋ねた。

「集まってる方が危険だと思って、多分、各々の自室に行ったよ。二階は今私達しかいません」

「この停電は何なんですか? 犯人が?」

「わからない……今調べてるんだけど、電源プラントの調子が悪いみたい。ここからアクセスすらできない。もしかして、壊されたのかしら……」

 住ノ江さんはコンピューターを触りながら答える。電源が落ちても動くらしい。

「プラントなんか壊したって、そんなの自殺じゃないですか?」茅島さんが近くの椅子に腰掛けた。私はベッドの空いている所へ座った。狭い。「下向が言うように、犯人が患者だったとしたって、電源プラントを壊す意味なんかありませよ。私達にとって、ここは自分の家。家を壊したって、逃げる場所なんかないわ」

「私達以外の誰か、かな……」住ノ江さんが悩む。「皆殺しにするなら、都合がいいでしょ、こういう状況って。ほら、映画とかでよくあるじゃない? 暗いと逃げづらいし、何処から襲われるかわからないじゃない?」

「いえ、見えてる方が絶対都合がいいですよ。本当に皆殺しにしたいなら、明かりがある時に、まとめて談話室で殺せばよかったんです。現に私がいる時点で、私に暗闇で勝てる人間がいるとは思いません」

「じゃあなんで電源なんか……」

「……わかりませんね」

 ならお前が電源プラントを壊したんじゃないか、と言う意見が喉まで出かかった。

 こいつを信用するな、こいつは私を売るような人間だ。騙されるな。頭の中で誰かがずっとそう言っているみたいに、意見が反復している。

「じゃあその電源プラントを見に行きましょうよ」意外なことに、そう口を開いたのは貞金くんだった。「調子がおかしいなら、治しに行けば良いじゃないですか、じっとしてるよりマシです」

「積極的ね。事件に興味ある?」茅島さんが貞金くんを見つめた。

「いえ、別にそんなことは……」

「声色がいつもよりも楽しそうだわ。これは、君がある女の人と話している時と同じ反応なんだけど……」

「何を言うんですか……」

 どうでも良い話が始まった。狼狽える貞金くんを、両優花は楽しそうに見ていた。

「冗談よ。君が誰に好意を抱いているかなんて、私が知るわけないじゃない」嘘みたいなことを堂々と言う茅島さん。「でも、確実に事件に興味はある。でもね、駄目よ、子供が首突っ込んじゃ」

「放って置けないですよ。院長が殺されて……警察が来れないんだったら、僕らでやるしか無いじゃないですか。このまま部屋にいるのも、なんか、ちょっと違うなっていうか……」

「そういう考え良くないと思うよ。危ないよ」両優花ちゃんが、彼を見て言う。「なんでもそうだけど、詳しい人に任せるのが良いと思う。雄一郎くん、自分で自分の腕修理できるの?」

「……それは、出来ないけど」図星を突かれたような顔をする彼。「でも、だからってむざむざ殺されろっていうのかよ。そんなの悔やんだって悔やみきれないさ」

「わかった、待って」住ノ江さんが手を叩く。「雄一郎くんの意見もわかる。でも専門家に任せるのが一番。だからって何もしないのは良くない状況です。私が責任を持って、電源プラントを見に行く。君たちは留守番。それで良い?」

「危険ですよ。私も行きます」と茅島さん。

「そんなのズルいですよ。なんでふくみ姉さんだけ特別なんですか」貞金くんが食って掛かる。

「ズルいとかじゃなくて、暗闇なら私がいないと危ないでしょ」

 そのまま話は平行線に終わるかと思ったが、先に住ノ江さんが折れた。押されると弱いのかもしれない。

「……わかりました。じゃあ、全員で行きましょう。もしもの時には人手は多い方がいいし、知らないことがある方が、みんなも不安だものね。だけど、ふくみちゃんから離れないことだけは守って」

 患者二人が頷いて、ベッドから立ち上がる。本当に行くつもりだ。なにがそこまで彼らを駆り立てるのだろう。自室にずっと居ていいなら、私だったら布団でも被って身を隠している。

 彼らの姿を、後ろから傍観していた私の肩を、茅島ふくみが叩いた。

「何してるの、行くわよ」

「……私も?」

「当たり前じゃない。人手は多い方がいいって聞いてなかった?」

「……聞いてません」

「嘘ね。顔に書いてある」



      4



「ちょっとごめん、秘密兵器があるんだけど」と茅島ふくみは言った。

 その言葉を信用するわけでもなかったし、秘密兵器だなんてどう聞いても薄ら寒いし馬鹿馬鹿しい、としか私は感じ取らなかったが、両ちゃんがどうしても見たいと言い始めたので、彼女の言うその秘密兵器を取りに、一度彼女の部屋へ向かった。

 と言っても、右隣の部屋だったので数秒でたどり着いた。

「勝手に入っていいわよ」

 そう招き入れられたが、どうにも部屋が散らかっていて、正直足の踏み場もなかった。主に図書室から持ってきたであろう本、よくわからないガラクタ、使い古された医療器具、脱いだ後の衣類、更には食べかけの食料や菓子などが散乱していた。地球で一人暮らしをすると、間違いなく破綻する側の人間だった。

「……なんでもありますね」という皮肉。

「怪しいものは無いわよ」

 しかしこんな汚い部屋で生活しているなんて、神経を疑う。もしくは部屋を物置としか思っていない。ゴミの類が少ないだけマシだろうか。

「ちょっと待ってて。この辺にしまったはずなんだけど……」

 と言って彼女は、ガラクタの山にしか見えない一帯を探し始めた。これはしばらく時間がかかりそうだな、と私はその姿を見ながら、内心で唸った。

 私の他に患者の二人が、なにか面白いものが見られると思ったのか、部屋の中まで着いて来ていた。三人で待ちぼうけを食らっているが、彼らとはほとんど話したこともなく、私から振るような話題がなにもない。どうしよう。こういう時、年下の子と話すような気の利いた題材を、普段から蓄えておくべきだった。人と関わるのが嫌なくせに、そんなことを気にしてしまう。

 結局何もせずに茅島さんの様子を眺めていると、優花ちゃんが私に声を掛けた。気を使ってくれたのだろうか。なんだか申し訳ない気持ちになった。

「加賀谷さん、でしたっけ」

「はい? あ、えっと、うん。加賀谷、彩佳よ」

「私は両優花です。はじめまして」子供とは思えないくらいに、しっかりとした挨拶だった。私は恥部を晒したみたいな心情を理解した。「加賀谷さんは、ふくみさんのこと、どう思います?」

「どうって……」

 本人の目の前で、どうにも答えづらい質問だった。楽しそうな優花ちゃんに対して、はっきりあいつのことは嫌です、と伝えるなんて冷徹なことは、どうしても出来なかった。

「まあ…………普通」

「へえ、普通、ね……」

 私の適当な答えに、優花ちゃんが意外そうな顔をする。こんなことなら嫌いだとはっきり言ったほうが、面白かったかもしれない。

 そして急に、耳元で彼女は囁く。

「ねえ、ふくみさんって、格好良くないですか?」

 どこか頭でも強くぶつけたようなその答えに、私は口を閉ざしてしまった。

 そんなことはかまわないという風に、彼女は続けた。

「私ね、昔図書室に行ったんですよ。普段本なんて読まないんですけど、何故かその日はそんな気分で。行き方だってあんまり覚えてなかったんですけど、なんとかたどり着いて。それでね、そこにいたのがふくみさん。私、その横顔に一瞬で惹かれたんですよ。ああ、なんてかっこいい人なんだろうって」

「ふうん……」

 まあ、眺めるだけなら、そう吐き気を催すほど悪いものでもない。気になって茅島を横目で見たが、顔は見えない。美しい彼女の横顔を思い出すと、途端に少しだけ、私は腹が立ってきた。

「その時って、初対面だったの?」

「いいえ。だけど、ふくみさんが入院してきてから……えっと、覚えてないんですけど、そんなに日は経ってないくらいでした。なんていうか、最初の頃のふくみさんは、もっとこう、儚いっていうか……」

「儚い? あれが?」

「ええ。俯いた表情も陰りがあって素敵でした。もちろん、今の完璧な佇まいも十分に惹かれるんですけど。なんていうか、吹っ切れたっていうか、あの人が幸せそうなのが、私にとっても幸せなんですよ」

「お前、ほんとに好きだよな」貞金くんが、どうも面白くなさそうに口を挟んだ。そして意味があるのか知らないが、小声で言った。「俺はなんか苦手だぜ? あの人」

「なんで?」

 私は好奇心で追求する。住ノ江さんが、彼の意中の人は、茅島ふくみだと言っていたような気がしたからだ。

「だって、まあ今でこそあの人とは話しやすいけど、優花が言うように、前はあんな気さくな人じゃなかったし」貞金くんは、本気で思い出したくもないような、複雑な顔をした。「正直に言って、怖いんですよ、今も。なんか、話やすさとは裏腹に、僕らと距離取ろうとするし、それでいて嫌な時に勝手にずかずか入ってくるじゃないですか。そういうのがなんか、怖いなって……前の印象があれでしたから」

「そんなに最初怖い人だったの?」

「うん、世界に呪われてるみたいな……」

「雄一郎くん覚えてるんだ。私、図書室で見かける前のことは覚えてないな。多分同期すれば思い出すんだけど」優花ちゃんは気付いて、私を向いて説明する。「あ、同期っていうのは、私の記憶のバックアップが、こうして今も保存され続けてるんですけど、全部の記憶を同期すると、なんか人間にとって都合が悪いんですって。確か饒平名さんに聞いたわ。それで重要そうな記憶に絞って、必要なやつだけを同期してるんだけど」

「……まあ、わかったような、わからなような……」

「あの時期って、人の出入りが激しかったし、覚えることも多かったから間引かれてるんじゃないの」貞金くんは思い出のように語った。「でも懐かしいな。今ではあの頃いた患者たちみんな、地球で働いてるんだっけな。まあでも、変な噂はあるんだけど」

「噂って……何?」

 思わせぶりにそんなことを言われて、私は反射的に先を促してしまった。彼は続けた。

「いや、昔いた患者のお姉さんから聞いた話なんですけど、まだ施設の何処かにいるらしいんですよ」

「何が」

「僕ら以外の患者が」

「それって……どういうこと?」

「隠匿されてるんですよ」

 まあでも、考えてみれば、宇宙に病院を構えていて、患者がたった三人というのも、思えば変な話ではあった。人数が少なすぎる。いや、宇宙への移動コストが掛かりすぎる故に、この程度で抑えているという可能性も否定できない。結局私にはよくわからない。

「それは、なんで?」

「わかりませんね。僕らの間では、人前にもう出せないような、酷い改造を施された、とか言ってましたけど」

「ちょっと、その話やめてって言ってるじゃん……」

 優花ちゃんは耳をふさいでいた。何度も悪戯心で聞かされたような、くだらない話なのだろうか。

「病院側が都合が悪くなって、いっそ患者を死んだことにして、家族には、おたくの患者は亡くなったって伝えたけど、本当は何処かで生きながらえて、ずっと苦しんでいる。殺して欲しいのかもしれませんよ。だって、酷い改造なんですから、自由に歩けないとか、生きてるだけで痛いとか、内臓が飛び出てるのかも。でも病院側は、実験材料として、ずっとその患者を生かしてるんですよ」

「…………本当なの?」

 貞金くんは、微笑んだ。

「知りませんよ、噂ですし」

 そう言われて、私の緊張の糸が、ぷつっと切れた。

 一瞬だけ、本気にしてしまいそうな自分がいたが殺した。

「もうやめてって言ってるじゃん!」優花ちゃんは貞金くんに殴りかかろうとした。私もすればよかった。「眠れなくなったら雄一郎くんの所為だから……」

「はは、なにが怖いんだよ、こんな話」

「ええ。全然怖くないわね」

 不意に、茅島ふくみが、何か得体の知れない物を手に持って、私達を楽しそうに眺めていた。秘密兵器とやらは見つかったようだ。

「そんな変な噂話、誰が流したの? どうも信憑性に欠けるわ。医療機関で、遺体がないまま『彼は死んじゃいました』なんて、そんなことふざけたことを言っても、果たして信じてもらえるものかしら」茅島さんは、手に持っている何かをくるりと回した。「やっと見付けたわ。最近ご無沙汰だったんだけど」

 彼女が持っている、拳銃のような形をした物体。やや大きく、銃身がラッパのようになっていて、実弾の発射を促しそうな、物々しい引き金が備え付けられている。

 私は、さっき彼女に騙されたときのことを思い出して、妙に嫌な気持ちになった。人に玩具の銃で戦えというような女だ、どうせ今度も偽物だろう。

「なんです、それって」優花ちゃんが楽しそうに尋ねた。本当に嘘偽り無く茅島ふくみに興味がある。

「知りたい? これは超音波銃よ」

 茅島ふくみが突然私に向けてトリガーを引いた。咄嗟のことだったので私は身をすくめて驚いてしまったが、弾すら発射されなかった。

「ふふ、なにやってんのよ」茅島ふくみが憐れむように笑った。「“超音波銃”だって。実弾なんか出ないわよ」

「……それが秘密兵器ですか?」

「ええ。これはトリガーを引くと、銃口が向いている方向に、超音波を鳴らすだけの単純な機械なんだけど」

「……? 何も聞こえませんでしたよ」

「あなた超音波の意味も知らないの? 人間には聞こえないくらい高い音ってことよ」またぐるぐると銃を回す茅島ふくみ。「あなた、私のことを蝙蝠だなんて言ったけど、あながち間違いじゃない。これで超音波を発射して、その音の反射を私の耳で拾うと、たとえ暗闇だろうと、何処に何があるのかわかる、っていう仕組みよ。これを反響定位っていうんだけど、って説明済みだったかしら。靴音よりも、相手に聞かれる心配がないから、こちらの方が隠密性に長けるわね」

「茅島さん、超音波聞こえるんですか?」

「それくらいは、機械の耳を駆使してピントを合わせれば当然」

 彼女は秘密兵器であるところの超音波銃を、そのあたりに置いてあったポーチに仕舞って、腰からぶら下げると、私達を部屋から追い出した。

 次はいよいよ電源プラントへ行って終わりかと思っていたが、彼女は急に私の部屋が見たいと言い始めた。



 どうして私の部屋を見たがるのだろう。歩きながらずっと考えていた。まあ疑うのは当然のことではあるが、私みたいな人間に、人殺しの度胸なんて無いことは、自慢の耳や洞察力では推し量れないのだろうか。

 電源プラントへ行くには、まず一階を通らなければならなかったので、私の部屋は丁度通り道と言っても差し支えはなかった。それでも疑われていることに対して、いい気分はしない。

「なにが見たいんですか? 身分証?」電子ロックが死んだ扉をこじ開けながら、私は言った。重い扉を、腕力で引かなければならなかった。「そんなの学生証ぐらいしか無いですよ。車の免許証は置いてきましたし」

「念のために、あなたが犯人でないという証拠が欲しい」茅島さんは私を見ながら、無表情でそんなことを囁く。「主に、凶器の類がないかどうかを」

「……ありませんよ。そんなの、自分で探してください」

 中へ入ると、旅行鞄から取り出した中身が散乱していて、少し恥ずかしくなった。それでも、茅島さんの雑多な部屋を思い出すと、随分気が楽になった。

 住ノ江さんたちは外で待っていると言った。部屋に人を招くのは、生まれてからでも数えるほどしか無かった。それにこの女が加わることになるとは、会った当初からは想像だにしなかったが。

 隠し事さえ難しそうなほど、簡単な空間だ。ベッド、窓、机。そしてシャワー室とトイレ。最も安価な宿泊施設に似ていた。

「本当に、なにもないですよ。昨日来たばかりですし」

「これは?」旅行鞄を指差す茅島さん。「中はなに? 着替え?」

「はい。一週間分の着替えと、勉強道具と、本と、それから、いろいろ雑貨」

「見ても良い?」

「どうぞ」

 人に鞄を物色されるのは、いい気分ではなかった。本当になにか悪いことをしたみたいな感情が芽生えてくるからだ。

 茅島さんは、事務的に私の着替えを出したり入れたりしていたが、やがて何かを見つけた。

「メモリーカードね。これも見ても?」

「……嫌だって言ったら」

「疑われるわよ」

「散々振り回しといて、何言ってるんですか」

 確かこのメモリーカードは、卒論の役に立つと思って、たまにつらつら書き留める日記が保存されていた。不用意に人に見られるのが嫌で、端末には何も残していなかった。

 自分でメモリーカードを自分の端末に挿して、ウィンドウが開いたが、おかしなことに、中には何も記録されていなかった。

「あれ? なんでだろ……」

「何のデータ?」

「いえ、たまに書く日記があったんですけど、全部消えてます」

 茅島さんにも画面を見せた。自分の目の前に浮かび上がるウィンドウを、他人も視認できることを改めて実感する。だけどデータはなにもない。もしかすると、間違えて新品のメモリーカードを持ってきたのだろうか。いやそんな間違いを犯すはずは……

「なんだろう、接触不良かしら」

「……わかりません」

「自分で消した?」

「そんな、疑わないでくださいよ。消すわけ――」

 彼女は急に、私をぐいと引き寄せて、私の胸に耳を当てた。

 あまりに、私の不意をついていた。

「な、ちょっと、何やってるんですか!」

 慌てて彼女を突き放した。

「なによ。嘘ついてないか調べただけじゃない。そんなに嫌がること?」

「……方法に問題があるんだよ」

 まだ心臓が高鳴っていた。

 ……嫌な気分だ。人に弄ばれた後には、決まってこういう不快感がつきまとう。

「ああ、人間嫌いだったわね、あなた。不用意にパーソナルスペース内に近づかれるのが怖いんだ?」

「そんなことよりどうなんですか! 私が嘘ついてるかどうかは!」

「明らかに心拍数が上がっていたわ。動揺している、と言って差し支えない。日記が知らない間に消えたのは本当のことのようね」安心して、信じてあげるわよ、と私に告げる彼女。嬉しくもない。「メモリーカードの他には何か無いの?」

「何か、ですか」

「武器。もしくは役に立つもの。凶器って意味じゃなくて、戦えるように」

「……ちょっと待ってください。面白いものがります」

 私は思い出して、旅行鞄の中からその面白いものを取り出して、茅島ふくみに突然向けた。

 すると、鳥が爆音を聞いた時のような、見たこともないような勢いで、彼女は後ろへ退いて壁に背中をぶつけた。

「駄目だって! 駄目よそれは!」

「どうしたんですか?」

 見たこともないくらい狼狽する彼女の様子を見て、少し楽しくなった。

「それスタンガンじゃない!」

「……へえ、怖いんですか?」私は悪趣味な笑みを隠しきれなかった。

「違うわよ、身体の機械部分に強力な電圧は毒! もう早く仕舞ってよ!」

 そんなに彼女が怒るとは知らなかった。私はおとなしくスタンガンを懐にしまった。比較的小型故に、ポケットには労せずして滑り込んだ。

「……そんなもの何処で手に入れたの?」

「地球じゃ普通に売ってますよ。最近のは対象から多少離れていても、ある程度効果があるので、私みたいな弱い人間でも護身用に便利ですよ」

「間違っても私には撃たないでよ……」

 彼女曰く、機械部分と身体の神経をつなぐ回路がショートして命の危険があるらしい。茅島さんがそこまで言うのだったら、本当のことなのかもしれない。

「……あなたって恐ろしいのね。なんだってそんな物買うのよ」

「……そう言えば、なんでスタンガンなんか持ってるんだろ、私」

 ふと、スタンガンを買った記憶が無いことに気づく。

 冷静になってみれば、私がいかに生きる才能のない弱い人間だろうと、護身用の武器を持つほど、自分のことが大事というわけではなかった。

「覚えてないの?」

「ええ、私が買うわけ無いですし……」

「じゃあ誰かに貰った?」

「かもしれませんね。スタンガンなんかくれる人、一体何者なんですか」

「そんなの相当な変人よ」

 私たちは笑った。

 彼女と同じ瞬間に笑っていることは、彼女に振り回されてから初めてだった。

 それがきっかけか、少しだけだったが、茅島さんに興味が湧いた。嫌いだったが、突き放す気にはならなかった。

「茅島さん、ステーションに来たときのこと覚えてますか?」なんとなく私は尋ねる。

「覚えてるけど、あんまり思い出したくないな」彼女は即答する。「誰から聞いたの。優花ちゃん? ナキさん?」

「両優花」

「あの娘も口が軽いわね。別に、隠してるわけじゃないんだけど」彼女は私のベッドに腰掛けながら、話し始める。「正直、記憶が曖昧だわ。なにせ、私はここへ来る以前のことを何も覚えていない。年齢も、実家も、言ってしまえば、この名前が本名なのかも。ステーションは全部把握してると思うけど、私には知らされてない。地球の様子だって、概念や偏見やインターネットで見た写真でしか知らなかった。本当に私が生まれたのは地球なのかどうかさえ疑った。でも確証はあった。宇宙は、なんだかわからないながら、憧れの対象だったの。ここが宇宙だと知って『ついに宇宙に来れたんだ!』って頭の一割くらいが無意識に考えたのを、ずっと覚えている。そんなこと、地球出身の人しか考えないでしょ」

「記憶が無いって、どんな感じなんですか」

「私は私なのに、私を証明するものがない」彼女は人のベッドに寝転がった。「無実の罪で牢獄に入れられた、一般人の気分。そんなのでも、私は牢屋が心地よかったみたい。記憶の断片が思い出すの。人間は煩わしい。人間はうるさい。宇宙は良い。究極の静寂が存在する、なんて」

「気持ちはわかります」

「あなたみたいなのと一緒にされても困るわ」茅島さんは微笑んだ。「ま、ステーションに来てから色々あったけど、今はこうして適度に距離感を保って楽しく生活しているし、究極の静寂に近づいているわ。こう見えて、今の生活はとても気に入ってるの。それだけに、犯人は絶対どうにかしなくちゃいけない。私の生活を脅かすなんて、そんなのは絶対に許さないわよ」

 そんな風に自分のことを話す彼女に、

 私は人間性を感じた。

 少しだけだけど、彼女のことを認めたくなった。

 だけど、殺されかけた時のことを考えて、それを打ち消した。

 そうだ、茅島ふくみを信じるな。

 その誓いと共に、スタンガンを部屋から持ち出して、私達は電源プラントへ向かった。



      5



 宇宙で地下というのも変な話だったが、私の部屋があるフロアが一階ということなので、それより下の階は、必然的に地下と呼ばれることは、住ノ江さんが端的に説明してくれた。

 通信室へ登る時に使ったエレベーターで、今度は下った。すると、本当に地球へのめり込んでいるような錯覚さえ覚えてきた。宇宙に天も地も無いことを思い出すのは、今の私には難しかった。

 地下室は辺り一面をコンクリートで作られた、見るからに無機質な場所だった。ここの電源は別なのか、天井からは煌々とした照明がぶら下がっていて、今の生活スペースよりずっと明るかった。何ならここに住むほうが、安全といえば安全だった。何かくだらないスポーツが出来そうなほどに、十分の広さを誇っていることが、腹立たしい。

 茅島さんはエレベーターを降りた直後から、超音波銃を何もない空間に撃ち続けていた。十発ほど撃った所で「誰もいないみたい」と呟いた。とにかく下向がいないと言うだけで、私は安堵から、疲れがのしかかってくる感覚が身に沁みた。

 それにしても、不気味な音がする。唸りのような、胃を擽られるような、腸を触られるような。何処かから、ずっと途切れること無く聞こえてくる。機械の起動音らしかったが、私にはそれが徐々に受け入れ難いものになってきた。

「地下室は全部、ライフラインを司る設備が設置してあります」住ノ江さんが、親切にそう教えてくれた。「発電と、酸素、重力、それとステーション自体の軌道に関する動力は、全てここで管理しています。まあほとんど自動でやってくれるので、私達が手を出すことは、稀なんですけど」

 エレベーターを中心に添えて、倉庫みたいな分厚い扉が四つ、東西南北に中央のエレベーターを囲うようにして、軒を連ねていた。その上部に張ってあるプレートにはそれぞれ北側から、生活、動力、発電、重力と書かれている。

「酸素は生活と書かれたプラント、発電は見ての通り電源プラントです。動力はさっき言った通りで、重力は私達がこうして普通に立てているので、異常はありませんね……」

「電源を見てさっさと帰りましょう」茅島が急かすように言う。「こんななにもない所、あまり長居するべきじゃないですね」

「でも待ってふくみちゃん。酸素も調べておかないと……」

 私たちはまず、最初の目的のとおりに、電源プラントを確認しに行った。重い材質の扉を開ける時に、針に糸を通すように慎重にはなったが杞憂だった。茅島ふくみの言う通り、下向はいない。椅子で殴られて死んでしまっていればよかったが、それを確認する勇気もない。

 開く。備え付けのコンピューターがひとつ。他には何もない。大きな発電装置を少し期待したが、空振りに終わった。そもそも大抵のステーションは太陽光発電だ。この施設を、ジェットの窓から眺めた時に、太陽光パネルが数基見えたことを、酷い乗り物酔いをしながらでも覚えていた。ここではその制御を行うのみだろう。

 住ノ江さんがディスプレイに触れた。通信室のように、パスコードの不備で立ち上がらないということもなく、労せずして操作画面が現れた。やはり、私程度では見てもよくわからない。もう少し勉強するべきだった。

「……メインパネルの動力が止まってる。これじゃあ電気が回らないわけですね。今は、非常用に電気を貯めているバッテリーしか動いてない。これもなくなるのも時間の問題でしょうね……」

「メインパネルは治せるんですか」茅島が訊いた。

「待っててよ、動力システムに干渉するから……」

 住ノ江さんが、そう言いながら速やかに操作するが、突き返すようなエラーが表示される。

「あれ……」

「どうしたんですか」

「進まないわ……」

 入力されたパスコードの違いではなく、ここからのアクセス権限がない。遠目からでもディスプレイを読むと、そんなようなことが長々と書いてあった。

 しかしこれでは、本当に電気が使えない。明かりをつけることも、端末を充電することも出来ない。そう考えると憂鬱になってきた。

「だって、おかしいよ、いつもはこうして……」

「犯人……ですか」

 茅島さんがそう呟いた。住ノ江さんはそこまで考えていないらしかった。

「ちょっと待ってよ、犯人がそこまでできるの?」

「わからないですけど、他に考えられなくないでしょう。犯人は何か私たちには思いつかないような意図で停電を促し、パスコードを変更し、アクセス権限を制御し、院長を殺した。今はそう考えておくのがもっとも健康に良いでしょう」

「でもふくみちゃん、犯人は停電なんかさせないって……」

「なにか……目的があるんですよ。私達を普通に皆殺しにする以外の」



 酸素プラントも同様の状況だった。

 一見すると違いがわからない操作パネルを、住ノ江さんが巧みに触ると、さっきと同じように、操作不能のエラーが吐き出された。今度はと期待していた分、私は肩を落とした。

 そんな人間に逆らう機械生命が作ったような画面を見ながら、住ノ江さんが恐ろしげに呟いた。

「おかしい……だって、酸素なんてメインシステム用のパスコードでだって、そう簡単に止められるわけないのに……どうして止まってるのかしら……」

「酸素、今どれくらい残ってるんです?」貞金くんが訊く。

「ざっと見て……五日、ってところかしら」

 急に余命を宣告された。私は身体の重さを感じた。

 五日を過ぎれば、私たちは死に近づくのか。そんな文字列を思い浮かべるだけで、胃の中のものを構わず吐きそうになった。

 顔が青くなっているだろう私のことなんて気にも留めないで、その素振りさえ変えない茅島ふくみが、画面を覗いて口を開く。

「『緊急状態のため停止』? これ、どういうことですか? なんで酸素は止まってるんです?」

「わからない……院長ならわかるんでしょうけど……」

 緊急であることには間違いはなかったが、普通に考えれば酸素が止まることの方が深刻な事態だろう。私はこの馬鹿な機械を殴りたくなった。

「犯人がやったんですよ!」急に大声を上げて貞金くんは狼狽する。「こうなったら力づくで起動させるしか……」

「……でも、なんで酸素プラントなんか止めたのかしら。心中するつもり?」茅島さんが呟く。「あなた、どう思う」

 彼女は思い付きのように、そして暇でも潰すように私に話を振る。

「……ここから私達を追い出したいんでしょうか」

「だったら脱出ポッドを使えるようにするわよ」

「うーん、じゃあ、とにかく怖がらせたい」

「ふん、新鮮な意見だわ」全然溜飲が下がったような顔をしないままだったが、何か閃いたように彼女は言った。「でも、そうか。本当に私達を全員殺すだけなら、動力をいじって、ステーションを地球にでも直接落とした方がてっとり早いわよね」

「……もうひとりの患者ですよ」

 貞金くんが、そんな場違いみたいな、おとぎ話のようなことを口走った。

「もう一人の患者が、俺たちにとにかく復讐したいんですよ、きっとそうだ……」

「なるほど」茅島さんは唸る。「犯人は、私達をとにかく苦しめて痛めつけたい。院長を殺して火蓋を切り、停電させて結託が崩壊、乱れたところを最低の殺し方で、最悪にいたぶる。逃しても酸素を止めれば窒息死。狩りかなんかのゲームだと思っている。あなたが考えているのは、そういうこと?」

「……そうです。だからどうしても逃したくないし、ステーションを地球に落とすような、簡単なやり方は好まないんだ……」

「とにかく、その話は置いておいて、私はこの緊急状態による非常停止をなんとかできるように、施設内を探してみます」住ノ江さんが話題を切り替える。「みんなは危ないから、部屋に隠れてて」

「何言ってるんですか、冗談じゃないですよ」

 反発の意思なのか、茅島さんが威勢よくそう言った。

「私は犯人が誰であれ、下向と一緒に縛り上げて、ここから叩き出します。そして加賀谷さんとその他全員を、雁首揃えて地球に送り返す。私の究極の静寂を邪魔させないですよ。ナキさんはライフラインの復帰、私は犯人。それで良いですね」

「……無理はしないでよ」

「そんな趣味はないです」

 彼女こそゲームか何かのように、楽しそうに笑った。

 茅島ふくみのそういう所が、根本的に理解できなかった。



 解散して、自室に吸い込まれた。

 茅島さんが注意を払っていた下向は、何処にもいない。それがずっと怖かった。鍵がかかっていることを部屋に入ってから三回は確認したが、まだ心が安らぐことはなかった。

 人に好かれようと努力をして、笑えるくらい大失敗した上着を脱ぎ捨てて、慰みにシャワーでも浴びようかと思ったが、もしかしたら水も出ないかもしれない。そう思うと何の気力もなくなった。とにかく疲れた。

 そのままの姿で窓の外を見つめた。

 何も変わらない母星がそこにあった。それがだんだん、私を騙すための出来の悪い作り物のように見えてきた。

 この眼の前のものが全てイミテーションで、私は地球の、どこか海の底にでもいるのだろう。条件的にはそっちの方が心安らかだった。窓を割れば海に出られるからだ。気圧や水圧の問題は、そんな趣味はないので考えないことにした。

 こんなにも近くにあるのに、なんでこんなにも遠いのだろう。

 悔しくなって窓を殴った。痛みは些細だった。

 地球が懐かしい。家が懐かしい。生活が懐かしいし、平和が懐かしい。

 そこでふと、私は忘れていたことを思い出す。

 つい先日だっただろうか。私は友人を失ったばかりだった。死んだわけではない。喧嘩をした。それだけだった。呆気ないものだ。一生の苦楽を共にしようなんて、一方的に考えた私の方が愚かだった。

 その反動でだろうか、せめて今回の合宿では、ゼミ生には好かれようとしたのだろう。結局普段の行いが原因で失敗した。

 お前は失敗した。

 私には孤独しか似合わないのだろうか。

 こんな時ぐらい誰かに頼れる人が羨ましくなった。住ノ江さんでは、図々しいのかな。私が泣きつけば、ある程度優しく接してくれるだろうか。

 そして彼女に頼る勇気もない自分を殴り殺したくなる。どうせ失った友人みたいになるのだったら、初めから深入りしないほうが健康に良かった。

 もうどうでもいい。

 下らないことを考えて時間を潰すことをやめよう。

 ベッドに撃ち殺されたように倒れた。

 茅島ふくみに乱された、表面はきれいなシーツが肌に心地よかった。

 人に迷惑をかけないように、私は布団をかぶって隠れていればいい。五日経ってなにも進展がないようだったら、睡眠薬でも飲んで死んでしまえばいい。幸い数錠鞄に入っている。

 こんな状況でも強くあれるような人間では私はなかった。

 あの世への脱出口が見つかった途端に、むしろ安心感を覚え始めていることに気がつくと、胸の奥が楽になる。

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