サンダルは片方だけ
三津凛
第1話
「片方だけ脱げたミュールは、処女の喪失を表すの」
千澄は声を殺して薄明かりの中で微笑む。そんな顔をされると、どきりとする。
婉然とさえ見える笑みに私は誘われるように息を吐く。
「…この絵がそんなスキャンダルになるほどのものとは思えないんだけど」
「裸婦を描くためには暗黙のルールがあったのよ」
なあに、と陰気な学芸員を横目に私はそっと聞く。正直絵画にそこまで興味はなかった。千澄に誘われなかったら、日曜日に美術館なんて決して行かなかっただろうと思う。
「神話の中の女神とか、聖書の中の場面であるとか…そういう設定が裸婦を描くためのルールだったの」
回りくどいことをするな、と思った。滑稽に思える。信徒には純潔を説きながら、自分はどこまでも肉欲に溺れるような生臭さを感じた。
「マネの書いたこの女性は明らかに売春婦なの。絵のモデルって、売春婦がやることが多かったんだけどこれは売春婦をそのまま売春婦として描いたことがスキャンダルだったのよ」
千澄は人にものを教えるのが好きだった。形の良い爪が飴色の薄暗い照明の下で、洗われたように光る。
「オランピアは当時ポピュラーだった売春婦の源氏名だし、髪飾りの百合には催淫効果があるの。黒人の侍女と贈り物の花は売春婦を表す定番の組み合わせだしね。黒猫は男性器の暗喩よ」
売春婦だの催淫効果だの男性器だの、千澄は臆面もなく滑らかに言う。普段は男のおの字も出さないのに、とからかってやりたくなる。マネのオランピアは挑発するように目を合わせてくる。
片方だけ脱げたミュールは処女の喪失を表す。
性産業に従事していることを、画家はこれでもかと言うほどキャンバスに撒き散らしたのだ。千澄が一番気に入っているという絵が売春婦の絵だとは意外な気もしたが目の前に立ってみると不思議な引力を感じた。
「不思議ね」
「ふふ、そうでしょ」
千澄が横に立って私をからかうように見つめる。私は唾を飲み込んだ。
オランピアの挑発的な視線と、千澄のそれはよく似ている。
まだ誰ともそういうことはしてないくせに、どうしてそんな顔ができるの。
思わず舌が動きそうになる。
「付き合ってくれてありがとう」
「ううん、私は着いて行っただけだから…」
私は少し自嘲気味に笑った。
「そんなことないよ、日曜日にわざわざ美術館に来てくれるクラスの子はみっちゃん以外にいないもん」
いつもの制服から抜け出した千澄は幼く見える。まだ堂々と、好きなものを好きなだけ思う存分には楽しめない。
恥ずかしくて、怖いから。
そっと微かに日に焼けたように見える千澄の脚を眺める。
「ねぇ、大人になるってどんなことかなぁ」
「あはは、急にどうしたの?」
千澄は要領を得ない顔をする。
「子どもと大人の違いって、どこにあるんだと思う?」
「えー、責任があるかどうかとか?」
手探りで物を探すような顔つきで千澄が言う。
私はふうん、と合わせる。時折千澄がかける眼鏡のように、折り目正しく答えだと思った。
「…私はね、何をするにも理由がいるのが大人だって思う」
「理由?」
「そう、誰かを好きになるのも嫌いになるのも、趣味にしろ何にしろ…。ただ好きだからとか、嫌いだからとかそういうのだけじゃ許されなくなるのが大人になるってことだと思うの」
千澄は静かに聞きながら、窮屈ねと笑った。
「何かあったの?失恋でもした?」
「ううん、なにも」
本当?と顔を覗き込まれる。
私は顔を逸らした。何にだって、ちゃんとした理由がいる。それが多分、千澄の言った責任に繋がっていく。
ふと、片方だけ脱げたオランピアのミュールがよみがえる。
ずっとこんな風にいられたらいいのに、と私は切なく思った。
千澄は固まってたむろする鳩を面白そうに眺めている。同じクラスの服部が千澄に告白をしたことはちょっとした騒ぎになった。いつも無口な服部がクラスメイトの目を気にするそぶりもなく拍子抜けするほどの当たり前の調子で告白をしたのだ。もっと驚いたのは千澄がそれに頷いたことだった。
ねぇ、あいつのどこが好きなの?
無駄なお喋りをしないところかな。
こっそり千澄に聞くと、今まで見たこともない笑顔で返された。私は思いつく限りの悪態を服部についてやろうかと本気で思った。
でもできなかった。好きな人の好きな人を抉ることは、結局千澄も抉ることになりそうだったから。
「服部を誘えばよかったのに」
何でもないふりをして言う。
「うん、でも興味ないって」
「そう」
「でも、みっちゃんと来た方が良かったかも」
千澄が笑う。
距離のある笑い。見えない線が引かれている。こうして時間もお金もかけない服部の方が、その線の向こう側にある笑顔や甘えを受け取れることに私は微かな憎しみを覚えた。
「ねぇ、大人と子どもの違いもう一つ思いついた」
「まだそれ?なあに?」
くすくすとおかしそうに千澄が聞いてくる。
「上手な嘘をつけるようになること」
ほんの一瞬だけ、私たちは真顔で見つめ合った。
「よく分からないよ」
千澄はすぐに顔を逸らして、どんくさい感じのする汚れた鳩に向かって脚を向けた。
もしも私と千澄のどちらかが男であったのなら、私たちはどうなっていただろう。今以上に並んで歩くことに理由づけは必要になったのだろうか。
私たちの友達としての関係は、どこか軽い。高校を卒業したらそこからはどうなるのか分からない。
服部はなにを考えているのか分からない奴だった。私は服部を見るたびに意地悪な視線を刺してやった。時折服部と目が合う時があった。私はその緩い顔つきがどことなく鳩に似ているのに気がつく。千澄が美術館の帰りにやたらと鳩の群れに向かって歩いていたことを思い出す。そして、群れから外れたどんくさそうな鳩ばかり追いかけていたことも、その締まりのない輪郭から想起した。
相変わらず服部は私の方ばかり見ていた。私は悪意を込めて睨み返してやった。
理不尽だけれど、当たり前の顔をして千澄に手を伸ばせる服部が憎かったのだ。
それからあまり間を置かず、服部から呼び出されて千澄にされたのと同じように告白をされた。さすがに今回は気が咎めたのか、放課後の廊下の隅でぼそぼそと言われた。
「…千澄はどうするの」
「別れる。お前がいつもこっちばっかり見るから、千澄よりも気になった」
私は小狡い感じのする服部の目を睨む。
「千澄のどこが好きだったの」
「それは…」
「もういい、付き合ってあげる」
服部は薄っすらと笑った。ちっとも好きではなかったけれど、こんな男に千澄が奪われたままでいるよりかはいいと私は投げやりに頷いた。
私は屑のような時間をそれから過ごした。服部のことは相変わらず憎かったし、千澄のことは好きだった。男を千澄から遠ざけるためだけに、私は服部と並んで歩いた。服部は暇さえあればゲームばかりしていてつまらなかった。同じように分からないものでも、千澄と見たマネのオランピアの方が面白いと思った。手元のスマホの人工的な明滅に照らされて浮かぶ服部の横顔は、鳩というよりも深海魚のように見えた。
「みっちゃん、服部と付き合ってるでしょ」
千澄の方からまた別の美術館に行きたいから付き合って欲しいと言われた日曜日のことだった。むしろ千澄はこれを言いたいがために美術館と無数の絵画をダシにしたのかもしれない。懐に忍ばせた刃物の鋒を気にするような趣がそこにはあった。
「付き合ってる…というか」
私は濁した。ここで嘘をつくことは簡単だった。むしろ、つくべきだったのに私は曖昧に笑った。
千澄の顔が色を失って、仄暗くなるのを私は見て取った。恨みの色だ。
まるで他人事のように、哀しみと絶望が降りてくる。
「私は服部とまだ付き合ってるのに、どうしてそんなことするの」
私は驚いて千澄を見上げる。
愚鈍な鳩の小狡い鳴き声がどこかで聞こえてくるような気がした。
「ふうん、まだ付き合ってたんだ。あいつ私には千澄と別れるって言って告白してきたのに」
「そんなこと聞いてない!」
恨みの鋒は服部にな向いてない。私は自分の喉笛を差し出すようにして顔をあげた。
どいつもこいつも、ずるいんだから。
服部は私たちを天秤にかけたつもりでいい気になっている。千澄はままならない想いを私に向けて、逃げるための生贄としているのだ。
「馬鹿みたい」
つい唇から本音が漏れた。
千澄は無言で私の頰を叩いた。でもその瞬間に後悔したのか怯えが走ったのか、振り返りもせずに駆け出した。
鳩の群れが驚いて飛び立つ。
私は無意識のうちにその背中を追いかけた。でも一向に追いつけなかった。
気がつくと履いてきたサンダルが片方だけ脱げていた。
真昼のアスファルトが素っ裸の足裏を焼く。痛くて暑い、そして無性に哀しかった。
千澄の背中はもうどこにも見えなかった。
片方だけ引っ掛けたミュールをものともしないオランピアがフラッシュバックした。
別に、服部に女をあげたわけでもないのに今の自分とオランピアの片方だけのミュールが妙に重なって思えた。
ただ私たちは、この日何かを喪ったのだ。
サンダルは片方だけ 三津凛 @mitsurin12
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