第26話



 ♢




 この女の子、銀髪が似合う美少女ではあるけれど、どうやら純日本人らしい。鼻梁が美しく目元がすっきりしているから、こんな北欧チックな髪色も違和感がないのだ。制服も銀を基調にデザインされており、全体的に色素が薄い。肌なんて向こう側が透けて見えそうだった。


「うーん。恥じらいがないと興奮しないなぁ」


「興奮しないで良いんで、スカートから手を離してあげてください」


 先生は女の子のスカートを掴んだままだ。上に持ち上げることはしないけれど、さっきから左右にフリフリさせている。白い太ももが見え隠れして、非常に目のやり場に困る。そして悲しいことに、彼女の脚が異常に細いこともわかった。半袖から覗く二の腕も、まるで肉がついていない。栄養失調ギリギリと言ったところに見えた。

 女の子の色素が薄いこと、手脚が細いこと、そういう要因があるせいか、黒鉄の首枷がより強調される。彼女が支配され虐げられていることが、嫌というほどわかった。


「では二一七号くん。君に仕事を与えよう」


「せ、先生! 二一七号で通すんですか!? それじゃああんまりじゃないですか!」


「そう言われても、おそらくだが、二一七号くんは別の呼び方をされても理解できないよ」


 ぐっと唾を呑み込みながら、女の子を見やる。意思の見えない瞳には、適応力とか応用力とかがまるで備わっていそうにない。実際、まだこの期に及んでスカートから手を離さない先生に抵抗をしない。最初はただされるがままになっているだけだと思っていた。けれど、ここまで無抵抗だと、彼女が自立思考を失っていると考えられる。


「でも、俺は抵抗があります」


 けれど、やっぱり納得できなかった。人を番号で呼ぶなんて、俺には無理だ。


「まぁ、ハツカくんならそう言うか。じゃあ、二一七号くん。君は読み書きはできるかな?」


 女の子は質問された時だけ動く。


「肯定します。読み書き計算は高校卒業段階まで習得しています」


「それは凄い。年齢はいくつだい?」


「十五だと聞いています」


「飛び級だね。なら、君の名前、二一七号を多少もじったものなら理解できるだろう。ハツカくん、君が何かわかりやすい名前をつけてあげたら良いさ」


「え、俺がですか?」


 高校課程は終了していると聞き、少しだけ羨ましくなっていた。そしたら、思いもよらない方向へ話が飛躍した。


「そうだよ。君が二一七号とは呼びたくないって言ったんだ。なら、君が責任を持って呼び方を決めてあげるべきだよ」


「わ、わかりました」


 あげるべき、と言われてしまったので、そう返事してしまった。名前をつけるのではなく、呼び方を決めるのだ。そこまで深く考える必要はないだろう。それに、どうせそんな呼び方も今日半日だけのものだ。


「……いや」


 すぐに思い直した。今日半日だけだからこそ、きちんと呼んであげよう。この女の子が、機械のような番号ではなく、人としての名前と呼べるようなものを、考えよう。


「二一七なんだよね。二百十七じゃないんだよね?」


「肯定します。二と一と七です」


「生まれた時からずっと?」


「否定します。二年前からそう呼ばれるようになりました」


「え、ならそれまで呼ばれてた名前があったんじゃないのか? それを教えて欲しい」


「不可能です。何と呼ばれていたかは忘れろと言われたので、忘れました」


 あまりのことに、胸が疼く。自分の名前を忘れさせられる。それは人間性の否定に等しい。そんな残酷なことを強要され、それをこんな無感情に言えてしまうことが、俺には辛かった。だから、すぐに過去の名前を詮索することはやめ、新しい呼び方を考える。


「二一七、二一七……」


 ふと、何故二一七なのかと疑問に思った。この女の子は二百十七番目なのか? それでは余りにも数が多すぎないか?

 そんなことは今関係ないだろと頭を振る。けれど、脱線する思考に邪魔されて、上手い呼び名が出てこない。思えば、何かに名前をつけるなんて初めてのことだった。


「二一七、に、いち、なな……。ニ、イチ、ナナ……あ」


 安直だけれど、一つ思いつくものがあった。不思議とこれしかないと思える。


「ニイナだ。君は、今日一日、ニイナだ」


「二一七号だからニイナか。わかりやすくて良いんじゃないか?」


 先生も褒めてくれた。女の子の外見や髪色は少し外国人っぽいから、ニイナとしても大丈夫だと思う。すると、


「ニイ、ナ……ニイナ」


 女の子改めニイナが、ポツリと呟いた。それは、ニイナ自身が誰に言われるでもなく言葉を発した、初めての瞬間だった。


「私は、ニイナ」


「そう。ニイナだよ」


 ニイナの瞳に、小さな光が生まれた気がした。それは、人間が当たり前に持つ生命としての光だった。それが彼女の瞳に戻ったように思える。けれど、それも僅か一瞬で、また元の睡眠中の魚の目になってしまった。


「よし。素敵な呼び名も決まったことだし、仕事をしてもらおうか。実はずっと前から屋根裏部屋の掃除をしなくちゃと思っていたんだ」


「え、や、屋根裏なんてあったんですか?」


「半分は倉庫みたいなものさ。もう十年は手をつけてないから、厄介だよ。ニイナくん、大変だと思うけど、お願いするよ」


「かしこまりました」


 四十五度の綺麗なお辞儀をしたニイナ。それを見て先生も満足そうに笑う。けれど、俺としてはどうしても不安になってしまう。先生はこう見えて整理整頓が下手だ。使った物を元の場所に戻すという習慣がないらしく、部屋のあちこちに物が散乱する。これと言って綺麗好きでもないから、あまり頻繁に掃除もしない。その結果部屋が荒れる。理由は定かではないけれど、それが十年間放置されているというのだ。これはかなり大物の予感がする。


「あの、先生。俺も手伝って良いですか?」


「それはもちろん。人手はいくつあって良い。案内しよう」


 先生は俺が片付けた食器やアイスコーヒーのグラスなどを手早く洗うと、二階への階段を上る。向かったのはダイニングだった。妹はもうおらず、部屋で休んでいるらしい。妹の精神状態が気になる。一度顔を見てから掃除に参加しよう。


「よい、しょっと」


 ダイニングの隅、棚があるところにまで先生が椅子を運ぶ。それに乗ると、先生の手が天井に届いた。今まで気がつかなかったけれど、そこは不自然な四角い枠があった。一メートル程度の枠と、何か取っ手のようなものがある。先生はそれを掴み、くるりと回す。すると、枠が開き、ゆっくりと木の梯子が降りてきた。


「う、わ……!」


 梯子が床についた瞬間、大量の埃が舞う。思わず手で払いのけてしまうほどの煙たさだった。


「あちゃ、思ってたよりずっと酷いな」


「……みたいですね。言ってくれればいつでも掃除したのに、どうして教えてくれなかったんですか?」


「いやぁ、自分の生徒に空き部屋を掃除させるのもどうかと思ってね」


 先生らしいけれど、出来ればこうなる前に何とかして欲しかった。しつこく浮遊する埃に少し咳き込む。部屋の広さはまだわからないけれど、これはかなり大掛かりなことになりそうだ。


「すまない、ちょっと着替えてくるよ。あと、ニイナくん」


「はい」


「君も着替えよう。その綺麗な制服を汚してしまうのは忍びない。私のサイズなら問題ないだろう」


「かしこまりました」


 先生とニイナを見比べる。なるほど、二人とも俺より少し背が低いくらいだ。


「じゃあ、俺は先にのぼってみますね」


「気をつけて。あ、階段のぼって右手に窓があるから」


 その情報で少しホッとした。こんな埃まみれの中で動き回っていたら、肺病になってしまう。梯子に手をつけばざらりとした埃の感触があり、足をかけるたびに、ぼふっと埃が立つ。右手で口を隠しながらのぼる。顔が屋根裏部屋にまで到達した。恐る恐る様子をうかがうけれど、暗くてよく見えない。先生が教えてくれた窓も、カーテンが閉まっているらしく、隙間から細い明かりを漏らしているだけだ。何とかわかるのは、とにかく大小様々な荷物や物で溢れかえっていることと、マスクを取りに戻る必要があることだ。

 けれど、ある種先遣隊である俺だ。何もしないまま引き返して先生たちに押し付けるわけにもいかない。とりあえずは窓くらいは開けようと屋根裏部屋に足をつけた。


「う、げほ、こほっ!」


 本当に埃が凄い。床の作りはしっかりしているみたいだけれど、物があり過ぎて真っ直ぐ歩くにも苦労する。できる限り埃をあげないよう忍び足で歩いて、窓にまでたどり着いた。遮光カーテンを左右に開け、太陽の光を取り入れる。目が灼かれるけれど、素早く窓を開いた。


「ぷはっ!」


 窓から首を突き出して呼吸をする。ダメだ。これはしばらく作業できないほど酷い。窓の向こうには青々とした太平洋が広がり、大きな入道雲を膨らませている。真夏の象徴のような光景に心が清々しくなってくる。けれど、風が室内に入ってきたため、あり得ないほどの埃が乱舞する。太陽光に反射する埃が白銀に輝き、雪国に来たのかと思うほどだ。

 窓が一つしかないせいもあって、上手く換気できないし、埃も収まらない。それでも、部屋の内装が見えてきた。天井は斜めになっていて、一番高いところだと二メートル程度、低いところだと一メートル程度だ。部屋の中央の位置に頂点がある。綺麗な四角錐の部屋だった。そして、その部屋を埋め尽くすように段ボールが置き積まれている。その数は五十はくだらない。それ以外にも、明らかに不必要だと思われる家具がいくつもあり、クローゼットのような物も二つあった。


「お、おお。げほ。なかなか汚れているようだね」


「先生。これほとんど埃ですよ」


 先生が梯子から首だけを出していた。埃が目に入ったらしく、涙目になっている。


「どうしようか。とりあえず要らない物を纏めて捨ててしまおう。と言うより、ここにある物全て要らない」


「色々ありますけど……。段ボールの中身とか見なくて良いんですか?」


「十年放置してたんだよ。今更必要なものなんてないさ。よっと」


 先生は上がってくると、梯子に向かって手を伸ばし、ニイナを引き上げた。ニイナは埃を吸ってしまっても表情一つ変えずに咳をした。

 ここにある全てが要らない。わかりやすいし手間もなくてありがたいのだけれど、数が多い。出入り口はその梯子しかなく、幅も狭い。階下におろすにしても埃まみれのままで良いわけがない。下はダイニングなのだから。


「窓から外に出すにも道具がないですしね。やっぱり色々と大変そうだな」


 こつこつハタキで叩いて埃を散らせ、雑巾なんかで拭いて梯子からおろす。地味だけれどこれが一番確実だろう。実はこの展開は予想していたため、すでにハタキは所持している。部屋の隅でパタパタやっても仕方ないから、この窓際まで運んできて叩こう。


「お、準備が良いね。じゃあ、私は少し用事で出かけてくるから、あとよろしく」


「え」


「いやー、すまない。誠に遺憾だ。後ろ髪を引きちぎられる思いだが、仕方ないよね用事なんだから。だってこの部屋の掃除なんて今日の予定になかったんだから」


「……どうぞ。用事なりなんなりして来てください。後はやっときますんで」


 ただ単純に面倒なだけだなこれは。掃除用に着替えをしているのに用事とかを言い出すところを見ると、予想以上に部屋が汚くて嫌気がさしたのだろう。俺にそれを咎める権利はない。ここ数日は完全に居候状態なのだ。部屋の掃除ごときでその他様々なご恩をお返しできるとも思っていない。率先してやらせていただく気構えである。ただ、バレバレな演技が子供っぽいと思うだけだ。先生は中年っぽかったり子供っぽかったりと行動の精神年齢の上下動が激しい。


「それじゃ、よろしくね」


 笑顔で梯子をおりて行った。まぁ、人が多いからと言って早く終わるタイプの作業でもない。俺とニイナの二人で丁度良いだろう。


「じゃあニイナ。これで段ボールの埃を払って行ってくれ。俺がそれを雑巾で拭くから。全部終わってから一気に下におろそう」


「かしこまりました」


 何とも淡白な返事だ。これではこの惨状にどんな感想を抱いているのかわからない。ただでさえも喜怒哀楽が乏しいのに、それを表現しようとしないから、機械よりも機械らしい。先生の服を借りているニイナを難しい言えない気持ちで見る。ハタキを手渡し、俺は一旦掃除道具を取りに階下に降りた。ここで、埃の直接的被害を被る叩き作業を担当すべきだったかと考えた。後で交代を申し出よう。多分ニイナは埃を吸い込むのを気にすることなく作業をするだろう。あの抵抗力の無さそうな身体に異物を取り込ませるわけにはいかない。

 俺はこの時すでに、妹のことを忘れて掃除のことばかりを考えていた。妹が優先順位の下位に落ちることはままある。けれど、体調や精神を崩している妹にそれが適応されるのは、間違いなく初めてのことだった。




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