第25話
♢
冷房を入れ、アイスコーヒーを提供した。男は三つある丸椅子の内の一つに踏ん反り返って座り、背後に女の子二人を侍らせている。メニューを横目で見ながら、アイスコーヒーを一口含んだ。
「まぁまぁだな」
単調に感想を述べた。
「おい。パンケーキを二つ持ってこい」
「はい」
何でもない注文のはずなのに、何故こうも高圧的に言えるのか。いちいち腹を立てるのが馬鹿らしくなってくる。俺はさっさとその場から離れ、先生にオーダーを伝える。
「凄く嫌な客です」
「まぁその通りだね。それより、ハツカくん、気づいてるかい? あの女の子二人、吸血鬼だよ」
「え?」
「上級、ではないな。中級だ」
「なるほど、それで……」
女の子二人が、どうしてあんな男に従っているのかわからなかった。けれど、吸血鬼だと言うなら話は別だ。何らかの理由で捕らえられているか、脅されているか。吸血鬼には人権が保証されていない。どんなエゲツない支配をされていてもおかしくはなく、安っぽいけれど、女の子二人に同情してしまう。
「吸血鬼を従えてるってことは、鬼狩りでしょうか?」
「どうだろう。少なくとも私にはあの男にそんな器があるようには見えないな」
「それは、そうですけど」
俺が知っている鬼狩りなんて、山田と篠原しかいない。けれど、二人の練磨された空気感をあの男は持っていない。偉そうなだけで、ごく普通の一般人に見える。
パンケーキができるまで、三人組を遠目から観察する。制服姿の女の子二人は、どちらも大きな首輪をし、そこから伸びる鎖は男の右手に繋がれている。男はアイスコーヒーを飲みながら、スマートフォンをいじっている。そして、女の子二人がその様子を見るともなしに見ていた。どちらも血の気のない顔色をしており、特に銀髪の子の方は目に精気すらない。
「はい。あがったよ。熱いから気をつけてね」
「わかりました」
先生が焼き上げたふわふわのパンケーキは、甘い蜂蜜の香りをさせている。妹の大好物だ。
二つの皿を片手で運び、男の席に近づく。男が俺を見ることはない。俺は無言で皿をテーブルに置いた。
「おい」
すると、男が訳の分からないことを言い始めた。
「片方は床におけ」
「は?」
「聞こえなかったのか? 一皿はテーブルに、一皿は床におけ」
男が顔を上げて俺を睨んだ。迫力はなかったけれど、命令することに慣れている雰囲気があった。
俺は今このお店の店員だ。たまに手伝うこともあったから、接客の基本くらいはわきまえている。客の言うことを聞くこと。それがどんな客で、どんな内容だったとしてもだ。俺がここで面倒ごとを起こせば、他でもない先生にご迷惑がかかる。俺は眉根を寄せながらも従った。
「ふん」
「なっ!? はぁ!?」
俺が皿を床に置いた瞬間、男の靴裏がパンケーキを踏みつけた。喫茶ホリの床は古びた木材が敷かれている。そこにホイップクリームが飛び散り、パンケーキが潰れる。皿が六分割された。
「ちょっとあなた、何やって!?」
「黙れ。こいつの食事する準備をしただけだ。おい」
困惑と怒りがないまぜになった声を上げたけれど、男は意に介さない。そして、黒髪の女の子に繋がっている鎖を引っ張った。
「食べろ。手は使うな」
「……はい」
一瞬つんのめるようになった女の子だったけれど、重い一言の返事をした。彼女は床に膝と手をつき、犬のような体勢になる。そして、男が踏みつけたパンケーキを口に含もうとした。
「な、何をっ! 何考えてるんだ!」
初めて感じる種類の衝撃だった。物語の中でだって見たことのない光景が目の前にあった。どんな感情を抱けば良いかわからないまま、俺は動揺する。女の子の舌が土で汚れたパンケーキに届く直前で、俺は女の子の肩を止めた。信じられない行為に吐息が荒くなった。冷房は効き目がなく、生温い汗をかいていた。
「おい。邪魔をするな。さっきからお前はどう言うつもりだ」
「そりゃこっちのセリフだ! あなた、女の子に、いや、人に何をやらせてるんだよっ!」
男は不機嫌そうにしていたけれど、俺の言葉に何か納得したような表情をした。
「あぁ、コレは吸血鬼だ。人じゃない」
それは常識を語っている者の目だった。さぁこれで文句はないだろうと言わんばかりで、鎖を無理やり引き寄せる。女の子が苦しげに声を上げた。
「吸血鬼には食事なんて必要ないんだ。それを与えてもらっているだけありがたいと思うだろう。なぁ?」
「はい。感謝しています」
男の足元に四つん這いになっている女の子が屈辱に満ちた声で言った。背後に立つ銀髪の女の子は、無言で棒立ちしている。この光景を見てすらいない。
「だから気にするな。何も問題なんてな……」
「ふざけるな!!」
俺の声は店内に響き渡った。そして一時の静寂が訪れる。男は固まり、女の子は驚いたような表情をしている。俺にはそれが信じられなかった。
「吸血鬼だからって何しても良いわけないだろう! 吸血鬼にだって心があるんだ、知性があるんだ。心を通わせられるんだ! それをっ……こんな、こんなのは許されない!」
「……おい。僕は〈
「知るか」
「お前たちは僕ら鬼狩りに守られているんだ。それ相応の態度というものがあるだろう。だと言うのに、僕に意見する気か? 僕のやることに文句を言うなんて馬鹿なのか?」
「今この状況を見過ごすことが普通なら、俺は馬鹿で良い」
こんな、こんな風に誰かが虐げられている様を許してしまっては、俺は人ではなくなる。例え人間だろうと吸血鬼だろうと、理性ある者としての倫理を失ってはならない。倫理を失った者は人間でも吸血鬼でもなく、ただの化け物に成り下がってしまうからだ。そしてそれは、俺が心の奥底で怖れていることだった。
俺と男が睨み合う。先に目を逸らしたのは男の方だった。
「気分が悪い。僕は帰る」
「おいっ! 代金は!」
「お前などに金を払いたくない。払う価値もない。だから、こいつを置いていく」
男は鎖で銀髪の女の子を引きずった。その子はされるがままに俺の前に飛び出してくる。
「今日一日貸してやる。働かせるなり何なりしろ」
「お前、そんなことで良いと……!」
めちゃくちゃな言い分に、流石にキレた。胸倉を掴みかかろうとする。けれど、
「おやめください」
黒髪の女の子に間に入られた。苦い味が口の中に広がる。君が庇うのか。そいつを。
俺は一瞬躊躇した。他でもないこの子が割り込んできたことに失意に似た諦観を感じたからだ。するとその時、背後から肩に手が置かれた。振り向くと、厳しい顔をした先生がいた。
「お帰りを。君にこれ以上商品を提供したくない」
先生の声は冷え冷えとしていた。俺を含めた全員がたじろぐほどの圧力。細身の女性から放たれているとは思えない力強さだった。男はぐっと息を吸うと、歯ぎしりをしながら、憎々しげに扉から出て行った。黒髪の女の子が乱暴に連行されていく。その焦ったような背中はとても小さく見えた。
男が力任せに開いた扉が、ゆっくりと閉まり、涼やかな鈴の音色を奏でた。先生は不快そうに唇を結んで横髪を梳かす。しばらくそうしていたけれど、俺が呆気に取られているのに気がついた。
「あ、あぁ、はは。いや、すまない。久しぶりに少しイラついてしまったよ」
「い、いえ! えっと、すみません。俺のせいで料理が……」
「別にハツカくんのせいじゃないだろう。さ、今度こそ看板をcloseにしてきてくれ」
「はい」
素直に驚いた。今も心臓がばくばくしている。温厚で理知的な先生でも、あんな目つきをするのか。特別怖い顔なわけでもなかったし、手に武器を持っていたりもしていない。けれど、あの時の先生には絶対的な強者の風格があった。男を庇っていた女の子は震えていた。中級吸血鬼を眼力だけで圧倒したのだ。
外の看板を今度こそcloseにして店内に戻る。踏み潰されたパンケーキを悲しそうに見る先生は、もう普段通りだった。その姿を見て、俺の胸中にもどかしい生苦しさが生まれた。せっかく先生が作ってくれた料理が、こんなことになってしまった。結局、テーブルの上のパンケーキも口をつけられていない。アイスコーヒーが半分になっているだけだった。
「もったいないですね……」
「あぁ。料理人の端くれとしてはとても悲しいよ。とは言え、あの男の食べ残しに手を付けたいとも思えないし。処分するしかないね」
俺が食べます、とは言えなかった。あのパンケーキは美味しそうに見えない。先生のパンケーキだから、見た目は美しいのだけれど、何だか目に見えない毒が盛り込まれていそうだった。
割れた皿や潰れたパンケーキを回収する。あの男がパンケーキを踏んだ靴で歩き回ったため、クリームの足跡がいくつもあった。モップか雑巾が必要だと思い、店の隅の見え辛い所にある掃除道具入れに向かおうとして、
「……」
「うわっ!?」
銀髪の女の子が居たことに気がついた。
「あ、い、居たんだ。えっと……」
「おや、私もすっかり忘れていたよ。影が薄いと言うか生命力が希薄な子だ」
扉の前で佇む女の子。足の踵を揃え、両手は下腹に添えている。改めて観察すると、品のある立ち姿をしている。ただ、本人が生き物としての存在感を何も発さないため、空気のようだった。俺や先生に気づかれた今も、力のない目をしている。魚は目を開けたまま眠るというけれど、そんな感じに近いと思った。
「せ、先生。どうしますか? お代のこともありますし、警察に連絡しますか?」
男はこの女の子を好きに使えと言ってきたけれど、それをはいそうですかと応じるわけにもいかないだろう。あんなのただの無銭飲食だ。
「いや、警察はやめておこう。きみたちも兄妹も私も埃に塗れている。それに、あの手の輩は虎の威を借りている。警察くらいじゃどうにもならないよ」
けれど、先生はそう言った。仰る通りなので、俺も黙って頷くしかない。
「それに、こうしてこの子を置いて行ってくれたわけだしね。やり口は不快だけど、まぁ許せる範囲ではあるさ」
「先生がそう仰るなら俺は構いませんけど……」
アイスコーヒーとパンケーキ二人分、しめて二千円程度である。まぁ普通のお店なら二、三時間働けば稼げる金額だ。ただ、一つ問題なのは、今日はもうお店が終わってしまったことだ。働かせるにも仕事がない。
「よし。きみ、名前を教えてくれないか?」
お店の売り上げに関わることなので、先生に全部任せよう。そう思って俺は、先生たちの会話を聞きながらも後片付けを開始した。
「二一七号です」
「うわちゃぁ。ありがちな展開だなぁ」
女の子の機械のような返答に先生が頭をかく。どうやら、この女の子にはきちんとした名前がないらしい。生まれた時からあの男に支配されているということか。
「まぁそれは良いや」
良いんかい。全然良くないと思う。けれど、先生相手なので口には出さない。俺は粛々と片付けを進める。
「可愛い制服だね。〈
「肯定します。〈
「私が知っていたのとはデザインが変わってるなぁ。えぃ」
「ちょっ!?」
先生が女の子のスカートをめくったのを目撃してしまった。アイスコーヒーのグラスを落としそうになる。
「な、何やってんですか!!」
「ん? いや、可愛い制服を可愛い女の子が着ているんだ。スカートをめくりたくもなるだろう」
「めくりたくなるのは自由ですけど、行動に移さないでください!」
大の大人が何をやってるんだ。今日日小学生だってやらないようなことをやる先生に呆れを通り越して脱力してしまう。先生はたまにこう言うことをする。妹のシャツの裾から手を差し入れたり、意味無くベタベタしてくすぐったり。そこはかとなく中年くさい。先生だからちょっと嫌な顔をするだけに止める。けれど、赤の他人が妹にそんなことをしたら俺は問答無用でぶん殴ってしまうだろう。
「……」
二一七号と名乗った女の子は、無言だった。まだ先生は女の子のスカートの裾から手を離していないのだけれど、特に抵抗したりする様子はない。スカートをめくられ、太ももの大半部分を晒された時も、恥じらうことも嫌がることもなかった。
「……」
無言の女の子は、首を傾げることすらせずに、黙って立っているだけだった。
感情を忘れたかのように、静かだった。
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