第24話
♢
「ふん。忌々しい女だ」
青年は、自らの靴を舐める裸の女を蹴った。女は倒れ、苦悶の表情を浮かべたが、それも一瞬で、またすぐ眼光が鋭くなる。どんなに全身が傷つこうと、女の心は依然として気高いままだった。
「ちっ。おい。僕は少し出てくる。その後は兄上が勧めてくれた店に行くから、服を着ておけ」
青年が〈銀華〉にきた理由としては、今年度の〈
「十字架は外して良い。見苦しいからな。あと、おい。二一七号」
絨毯の上で身悶えている女を一瞥した後、奥にいる少女に声をかけた。青年の瞳は、二一七号と呼ばれた少女をねぶるように見、下卑た笑いを浮かべる。
「きちんと仕事をしろよ。わかっているな?」
「はい。頼仁さま」
少女が意思のない機械のように返答した。青年の方を見てはいたが、少女の表情に感情はない。
青年は少女を、女を見回し、そして部屋から出て行った。明かりを消していったため、室内が薄暗くなる。窓の外は夏の太陽が輝いていると言うのに、室内には届いてこない。そのせいかはわからないが、少女たちがより一層悲嘆に暮れているように思えた。
少女と同じ白いシャツを羽織っただけの女が、絨毯を這いずるようにして移動する。そんな哀れな姿を、少女は無言で見つめていた。女が少女の足元に辿り着き、下から手を握る。虐待により女の手は体温が上がっていたが、少女の手は酷く冷えていた。
「大丈夫よ。安心して」
精一杯の笑顔を作って、女が語りかける。
「あなたは、私が守るわ。どんなことがあっても、必ず」
女の笑顔が壊れそうになる。
「私は大丈夫。絶対に負けたりしない。いつまでだって耐えてみせる。だから、ねぇ……」
女は震える瞳に涙をためていた。それが決壊するのにさほど時間はかからず、頬に涙の筋が通った。
「だから、ねぇ。お願い。お願いだから……」
女が強く強く少女の手を握った。
「お願いだから、何か言ってよぉ……!」
だが、その手は握り返されない。少女は、女がそこにいないかのように直立不動だった。女と目を合わせることすらしない。人形かと思えるほど動きがなかった。
「何でも良いの! 一言で良いの! うぅん、今この手を握ってくれるだけで良い! 何か反応して。私を見て。じゃないと……じゃないと私は……!」
少女には、女の悲鳴は届かない。
「私は、何のために耐えているのかわからなくなるの! 見失いそうになる! 忘れそうになる! あなたがとてもとても大切だと言うことを、感じられなくなる!」
どんなに言葉を紡ごうとも、どんなに身体に触れようとも、少女は動かなかった。置物のように、アートのように、口を開かない。瞳も動かさない。呼吸だけに執心していた。
「お願い……だから……!」
縋り付く女の願いは、いつも叶えられない。精神が粉々に割れ散ってしまいそうになりながら、女は口の中に涙の味が広がるのを感じていた。
少女は何も言わない。
♢
♢
テン・シナリスが消えた後も、俺たちは沈黙から抜け出せないでいた。何かアクションを起こさなければならないけれど、どう切り出せば良いかわからない。それは言葉なのか、行動なのか。ヒュー、ヒュー、という妹の歪な呼吸音。鉄のように固まった妹は瞬きすらしていなかった。
「……甘い物でも作ろう」
先生がそう言って席を立った。冷蔵庫に入っているハーゲンは無視して、別の業務用アイスを調理し始めた。昼食を食べたばかりだったけれど、気を紛らせる方法が他に思いつかなかったのだ。
「ナノカ。ナノカ」
「……」
「ナノカっ!」
「ひゃっ!?」
何度肩を揺すっても反応しないため、耳元で大声を出した。そこまでしてやっと妹は俺に気がついた。とても深く自分の世界に入り込んでいたらしい。良くない傾向だと思った。
「その、考えるなってのは無理だろうけど、考え過ぎちゃダメだ」
「ぅ……」
「もうどうしようもないことなんだ。だから、これから何ができるかを一緒に考えよう」
時間は巻き戻らない。そして、あの日の惨劇は防ぎようがなかった。山田はすでに俺たちのアパートを突き止めていた。遅かれ早かれ、俺たちは山田に襲われ、殺されていただろう。
けれど、だからこそと言うか、どうしてもと言うか、考えてしまう。どう転ぼうと今に行き着くのなら、何もこんな一番残酷な道を歩く必要などなかった。妹をこれ以上傷つけて何になる。
「それに、あの時ナノカは、俺たちを追いかけて来てくれただろ。本気で居なくなれば良いなんて思ったなら、追いかけて来たりしなかったはずだ」
杜撰なこじつけだったけれど、俺の口からはこんな言葉しか出てこなかった。
「だから、見失わないでくれ。ナノカが優しい女の子だっていうことを、信じていてくれ」
どんなに自分の醜い部分を見つけたとしても、それが己の本質だなんて思わないでくれ。そうじゃない。醜いからでも、汚いからでもない、普通の女の子だったから、妹は暗い思いつきをしてしまったのだ。
それは何一つとして褒められたものではない。糾弾されて然るべきものだろう。けれど、だからといって自分を責め過ぎてはいけない。そして何より、
「俺はナノカを嫌いになったりも、責めたりもしない。絶対に。何があっても」
暗い色をしていた妹の頬が、僅かだけ赤みを帯びた。俺の言葉は何とか届いてくれたらしい。俺が頭を撫でると、妹は安心したように目を瞑ってくれた。まだまだ心配は尽きないけれど、俺も少しだけ気を緩めることができた。妹が強くなってくれたおかげだろう。
「先生を手伝ってくる。座って待ってて」
自分も手伝いに立とうとする妹を、手でおさえた。とにかく今はゆっくりしていて欲しい。一ミリたりとも無理はさせられない。
妹のことを考える一方、俺はテン・シナリスについて思考を巡らせていた。やはり、あいつを妹に会わせるべきではなかった。結局何がしたくて来たのかわからなかったし、俺たちのデリケートな部分を引っ掻いて帰っただけだ。もしかしたら、それだけが狙いだったのかもしれない。妹を追い詰めていく時のあいつの表情は、寒気がするほど楽しそうだった。妹だけでなく、俺や先生が鉄のように固まっていくのを観察して嘲笑っていた。趣味が悪いなんて騒ぎじゃない。イカれてる。
もう二度と、あいつに妹を会わせない。先生にだってそうだ。あいつの好き勝手にさせてたまるものか。
「先生、何か手伝いましょ……」
「うん?」
俺がキッチンの先生に声をかけようとした時、階下で鈴の音が鳴った。それは、テン・シナリスが入ってきた裏口の音ではない。喫茶ホリの玄関に取り付けられているものだ。
「お客さんですかね?」
「ふむ。おかしいな。closeにしてたはずなんだけど……」
「俺、見てきます」
「すまないね。任せたよ」
不定営業の喫茶ホリだから、お客さんが間違えてやって来ちゃうことはままある。けれど、店内にまで入られたのは、俺が知っている中では初めてだ。先生の様子を見ても、なかなか無いことなのだろう。一応は、先生が看板を掛け違えている可能性もある。その時は丁重にお帰りいただくしかない。
急ぎ足で階段をおりてカウンターに入る。すると、玄関の所に女性がいた。
「え……」
まず俺の目に入ってきたのは、大きな黒鉄の首輪だった。首全てを隠し、顔の輪郭よりも幅がある。店に入って来られたことよりも、そちらに気が行ってしまった。
「店員さんでしょうか?」
「あ、えっと……」
首輪をつけているのは、二十歳手前ほどの女の子だった。肌の色が悪く、非常に不健康そうで、ショートボブの黒髪が似合う美人なだけにもったいない。けれど、優しげな垂れ目には凛とした強さがあった。
白いシャツに銀のベスト。銀と黒のチェックのプリーツスカート。派手な色合いだけれど、どこか品の良さを漂わせる服装だった。おそらくはどこかの学校の制服だ。〈銀華〉にはいくつもの教育機関があるから、どこの学校かはわからない。
「店員さんでしょうか?」
女の子もう一度同じ質問をした。声が掠れている。やはり体調が悪そうだった。そこまでわかって、やっと俺の思考が首輪から離れる。
「あ、違うんですけど、今日お店はやってないんです」
「木曜日は営業日だとうかがっておりましたが」
「す、すみません。店長が気分でやってまして……」
この女の子、俺より背が高い。そのせいか、妙な迫力のようなものがあって押されてしまう。どうしようかと困っていると、
「悪くない店だな」
別の声がした。見ると、古本が並んだ本棚の前に、男が立っている。男は、この女性と同じデザインの制服を着ている。同級生らしい。男が振り向いた。癖っ毛を明るく染めている。けれど、それ以外に何の特徴もない、ひどく平坦な顔の造形をしていた。
「流石は兄上だ。貧相な西地区にこんな店があるとはな。ここでならコーヒーを飲んでやっても良い」
平然と偉そうなことを言う男だった。年齢は俺より少し上程度か。おそらくは篠原と同じくらいだろう。けれど、こいつに篠原のような鋭さはない。妙に肩肘張った立ち方をしているだけで、動きは鈍い。
「あの。今日はもう閉めちゃったんです。看板を掛け違えてたらすみません」
「関係ない。僕は忙しい身なんだ。早くメニューを持ってこい」
なんだコイツは。追い返してやろうと思った時、
「……」
目の前の女の子と目が合った。その強く懇願するような視線に、せり上がってくる言葉を喉元で止めた。この女の子と男の力関係がわかってしまったからだ。
「……店主を呼んできます」
「早くしろ。それと、アイスコーヒーをまず持ってこい」
俺は自分を割と穏やかな性格だと思っていた。けれど、どうやらそうではないらしい。この偉そうな男の一挙手一投足すべてがカンに触る。
「っ!」
この瞬間、信じられないことに気がついた。男が鎖を握っており、それが女の子の首輪へと繋がっていたのだ。まるで犬でも散歩させるみたいに女の子を従えていた。黒く蠢く心を必死に鎮めながら階段をのぼろうとすると、中程で先生がこちらをうかがっていた。
「どうしたんだい?」
「あ、す、すみません。お店を開けてもらえませんか?」
「え。まぁ、別に構わないけど。何だい、お友達かな?」
「違い、ます。あの、料理を出すかどうかは先生に決めて欲しくて……」
「おかしなことを言うね。どれどれ……む? あ、なるほどね……」
先生は階段から顔を少しだけ出すと、店内を見回す。そしてあの男を見つけた。一瞬眉をひそめたけれど、一度頷くとすでに店長の顔になっていた。
「注文は?」
「アイスコーヒーを一つ」
「オッケ。持って行ってくれるかい?」
「はい。あと、着替えてきます」
「構わないさ。それに、そのジャージは高いやつなんだよ」
厨房に入った先生は、慣れた手つきでアイスコーヒーの準備をする。それでも多少の時間はかかってしまう。俺はその間にメニューを運んで行った。すると、会話をした女の子とは別の女の子を見つけた。この子も同じ制服を着ている。この奇妙な三人組の中で、ある意味では一番存在感があった。
女の子のショートカットの髪色は銀だった。染めているのではなく、色素が剥がれ落ちているらしい。顔つきは美しく整っていて、絵本の中のお人形さんのようだ。けれど、その瞳や口元には感情が見受けられない。人が仮面をつけているかのようだった。そのせいか、外見の美しさは鳴りを潜め、不気味な雰囲気を醸し出している。
「おい。暑い。冷房を入れろ」
男が何か喚いていたけれど、俺は二人の女の子たちが気になった。
♢
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