第24話



 ♢




「ふん。忌々しい女だ」


 青年は、自らの靴を舐める裸の女を蹴った。女は倒れ、苦悶の表情を浮かべたが、それも一瞬で、またすぐ眼光が鋭くなる。どんなに全身が傷つこうと、女の心は依然として気高いままだった。


「ちっ。おい。僕は少し出てくる。その後は兄上が勧めてくれた店に行くから、服を着ておけ」


 青年が〈銀華〉にきた理由としては、今年度の〈鬼狩養成校アカデミー〉卒業後に配属されると思われる地域の下見だった。〈鬼狩養成校アカデミー〉卒業生徒は、よほどの低成績者でない限り〈銀正〉になる。即実戦配備されるのだ。青年は第八席に位置しているので、当然〈銀正〉となる。また、この隔離された人工島では、近頃〈鬼狩り殺し〉なる事件が起きていると言う。自らを優秀だと信じて疑わない青年は、卒業前に箔をつけるために〈鬼狩り殺し〉を討伐するのも良いと考えていた。


「十字架は外して良い。見苦しいからな。あと、おい。二一七号」


 絨毯の上で身悶えている女を一瞥した後、奥にいる少女に声をかけた。青年の瞳は、二一七号と呼ばれた少女をねぶるように見、下卑た笑いを浮かべる。


「きちんと仕事をしろよ。わかっているな?」


「はい。頼仁さま」


 少女が意思のない機械のように返答した。青年の方を見てはいたが、少女の表情に感情はない。

 青年は少女を、女を見回し、そして部屋から出て行った。明かりを消していったため、室内が薄暗くなる。窓の外は夏の太陽が輝いていると言うのに、室内には届いてこない。そのせいかはわからないが、少女たちがより一層悲嘆に暮れているように思えた。


 少女と同じ白いシャツを羽織っただけの女が、絨毯を這いずるようにして移動する。そんな哀れな姿を、少女は無言で見つめていた。女が少女の足元に辿り着き、下から手を握る。虐待により女の手は体温が上がっていたが、少女の手は酷く冷えていた。


「大丈夫よ。安心して」


 精一杯の笑顔を作って、女が語りかける。


「あなたは、私が守るわ。どんなことがあっても、必ず」


 女の笑顔が壊れそうになる。


「私は大丈夫。絶対に負けたりしない。いつまでだって耐えてみせる。だから、ねぇ……」


 女は震える瞳に涙をためていた。それが決壊するのにさほど時間はかからず、頬に涙の筋が通った。


「だから、ねぇ。お願い。お願いだから……」


 女が強く強く少女の手を握った。


「お願いだから、何か言ってよぉ……!」


 だが、その手は握り返されない。少女は、女がそこにいないかのように直立不動だった。女と目を合わせることすらしない。人形かと思えるほど動きがなかった。


「何でも良いの! 一言で良いの! うぅん、今この手を握ってくれるだけで良い! 何か反応して。私を見て。じゃないと……じゃないと私は……!」


 少女には、女の悲鳴は届かない。


「私は、何のために耐えているのかわからなくなるの! 見失いそうになる! 忘れそうになる! あなたがとてもとても大切だと言うことを、感じられなくなる!」


 どんなに言葉を紡ごうとも、どんなに身体に触れようとも、少女は動かなかった。置物のように、アートのように、口を開かない。瞳も動かさない。呼吸だけに執心していた。


「お願い……だから……!」


 縋り付く女の願いは、いつも叶えられない。精神が粉々に割れ散ってしまいそうになりながら、女は口の中に涙の味が広がるのを感じていた。

 少女は何も言わない。



 ♢


 ♢




 テン・シナリスが消えた後も、俺たちは沈黙から抜け出せないでいた。何かアクションを起こさなければならないけれど、どう切り出せば良いかわからない。それは言葉なのか、行動なのか。ヒュー、ヒュー、という妹の歪な呼吸音。鉄のように固まった妹は瞬きすらしていなかった。


「……甘い物でも作ろう」


 先生がそう言って席を立った。冷蔵庫に入っているハーゲンは無視して、別の業務用アイスを調理し始めた。昼食を食べたばかりだったけれど、気を紛らせる方法が他に思いつかなかったのだ。


「ナノカ。ナノカ」


「……」


「ナノカっ!」


「ひゃっ!?」


 何度肩を揺すっても反応しないため、耳元で大声を出した。そこまでしてやっと妹は俺に気がついた。とても深く自分の世界に入り込んでいたらしい。良くない傾向だと思った。


「その、考えるなってのは無理だろうけど、考え過ぎちゃダメだ」


「ぅ……」


「もうどうしようもないことなんだ。だから、これから何ができるかを一緒に考えよう」


 時間は巻き戻らない。そして、あの日の惨劇は防ぎようがなかった。山田はすでに俺たちのアパートを突き止めていた。遅かれ早かれ、俺たちは山田に襲われ、殺されていただろう。

 けれど、だからこそと言うか、どうしてもと言うか、考えてしまう。どう転ぼうと今に行き着くのなら、何もこんな一番残酷な道を歩く必要などなかった。妹をこれ以上傷つけて何になる。


「それに、あの時ナノカは、俺たちを追いかけて来てくれただろ。本気で居なくなれば良いなんて思ったなら、追いかけて来たりしなかったはずだ」


 杜撰なこじつけだったけれど、俺の口からはこんな言葉しか出てこなかった。


「だから、見失わないでくれ。ナノカが優しい女の子だっていうことを、信じていてくれ」


 どんなに自分の醜い部分を見つけたとしても、それが己の本質だなんて思わないでくれ。そうじゃない。醜いからでも、汚いからでもない、普通の女の子だったから、妹は暗い思いつきをしてしまったのだ。

 それは何一つとして褒められたものではない。糾弾されて然るべきものだろう。けれど、だからといって自分を責め過ぎてはいけない。そして何より、



「俺はナノカを嫌いになったりも、責めたりもしない。絶対に。何があっても」


 暗い色をしていた妹の頬が、僅かだけ赤みを帯びた。俺の言葉は何とか届いてくれたらしい。俺が頭を撫でると、妹は安心したように目を瞑ってくれた。まだまだ心配は尽きないけれど、俺も少しだけ気を緩めることができた。妹が強くなってくれたおかげだろう。


「先生を手伝ってくる。座って待ってて」


 自分も手伝いに立とうとする妹を、手でおさえた。とにかく今はゆっくりしていて欲しい。一ミリたりとも無理はさせられない。

 妹のことを考える一方、俺はテン・シナリスについて思考を巡らせていた。やはり、あいつを妹に会わせるべきではなかった。結局何がしたくて来たのかわからなかったし、俺たちのデリケートな部分を引っ掻いて帰っただけだ。もしかしたら、それだけが狙いだったのかもしれない。妹を追い詰めていく時のあいつの表情は、寒気がするほど楽しそうだった。妹だけでなく、俺や先生が鉄のように固まっていくのを観察して嘲笑っていた。趣味が悪いなんて騒ぎじゃない。イカれてる。


 もう二度と、あいつに妹を会わせない。先生にだってそうだ。あいつの好き勝手にさせてたまるものか。


「先生、何か手伝いましょ……」


「うん?」


 俺がキッチンの先生に声をかけようとした時、階下で鈴の音が鳴った。それは、テン・シナリスが入ってきた裏口の音ではない。喫茶ホリの玄関に取り付けられているものだ。


「お客さんですかね?」


「ふむ。おかしいな。closeにしてたはずなんだけど……」


「俺、見てきます」


「すまないね。任せたよ」


 不定営業の喫茶ホリだから、お客さんが間違えてやって来ちゃうことはままある。けれど、店内にまで入られたのは、俺が知っている中では初めてだ。先生の様子を見ても、なかなか無いことなのだろう。一応は、先生が看板を掛け違えている可能性もある。その時は丁重にお帰りいただくしかない。

 急ぎ足で階段をおりてカウンターに入る。すると、玄関の所に女性がいた。


「え……」


 まず俺の目に入ってきたのは、大きな黒鉄の首輪だった。首全てを隠し、顔の輪郭よりも幅がある。店に入って来られたことよりも、そちらに気が行ってしまった。


「店員さんでしょうか?」


「あ、えっと……」


 首輪をつけているのは、二十歳手前ほどの女の子だった。肌の色が悪く、非常に不健康そうで、ショートボブの黒髪が似合う美人なだけにもったいない。けれど、優しげな垂れ目には凛とした強さがあった。

 白いシャツに銀のベスト。銀と黒のチェックのプリーツスカート。派手な色合いだけれど、どこか品の良さを漂わせる服装だった。おそらくはどこかの学校の制服だ。〈銀華〉にはいくつもの教育機関があるから、どこの学校かはわからない。


「店員さんでしょうか?」


 女の子もう一度同じ質問をした。声が掠れている。やはり体調が悪そうだった。そこまでわかって、やっと俺の思考が首輪から離れる。


「あ、違うんですけど、今日お店はやってないんです」


「木曜日は営業日だとうかがっておりましたが」


「す、すみません。店長が気分でやってまして……」


 この女の子、俺より背が高い。そのせいか、妙な迫力のようなものがあって押されてしまう。どうしようかと困っていると、


「悪くない店だな」


 別の声がした。見ると、古本が並んだ本棚の前に、男が立っている。男は、この女性と同じデザインの制服を着ている。同級生らしい。男が振り向いた。癖っ毛を明るく染めている。けれど、それ以外に何の特徴もない、ひどく平坦な顔の造形をしていた。


「流石は兄上だ。貧相な西地区にこんな店があるとはな。ここでならコーヒーを飲んでやっても良い」


 平然と偉そうなことを言う男だった。年齢は俺より少し上程度か。おそらくは篠原と同じくらいだろう。けれど、こいつに篠原のような鋭さはない。妙に肩肘張った立ち方をしているだけで、動きは鈍い。


「あの。今日はもう閉めちゃったんです。看板を掛け違えてたらすみません」


「関係ない。僕は忙しい身なんだ。早くメニューを持ってこい」


 なんだコイツは。追い返してやろうと思った時、


「……」


 目の前の女の子と目が合った。その強く懇願するような視線に、せり上がってくる言葉を喉元で止めた。この女の子と男の力関係がわかってしまったからだ。


「……店主を呼んできます」


「早くしろ。それと、アイスコーヒーをまず持ってこい」


 俺は自分を割と穏やかな性格だと思っていた。けれど、どうやらそうではないらしい。この偉そうな男の一挙手一投足すべてがカンに触る。


「っ!」


 この瞬間、信じられないことに気がついた。男が鎖を握っており、それが女の子の首輪へと繋がっていたのだ。まるで犬でも散歩させるみたいに女の子を従えていた。黒く蠢く心を必死に鎮めながら階段をのぼろうとすると、中程で先生がこちらをうかがっていた。


「どうしたんだい?」


「あ、す、すみません。お店を開けてもらえませんか?」


「え。まぁ、別に構わないけど。何だい、お友達かな?」


「違い、ます。あの、料理を出すかどうかは先生に決めて欲しくて……」


「おかしなことを言うね。どれどれ……む? あ、なるほどね……」


 先生は階段から顔を少しだけ出すと、店内を見回す。そしてあの男を見つけた。一瞬眉をひそめたけれど、一度頷くとすでに店長の顔になっていた。


「注文は?」


「アイスコーヒーを一つ」


「オッケ。持って行ってくれるかい?」


「はい。あと、着替えてきます」


「構わないさ。それに、そのジャージは高いやつなんだよ」


 厨房に入った先生は、慣れた手つきでアイスコーヒーの準備をする。それでも多少の時間はかかってしまう。俺はその間にメニューを運んで行った。すると、会話をした女の子とは別の女の子を見つけた。この子も同じ制服を着ている。この奇妙な三人組の中で、ある意味では一番存在感があった。

 女の子のショートカットの髪色は銀だった。染めているのではなく、色素が剥がれ落ちているらしい。顔つきは美しく整っていて、絵本の中のお人形さんのようだ。けれど、その瞳や口元には感情が見受けられない。人が仮面をつけているかのようだった。そのせいか、外見の美しさは鳴りを潜め、不気味な雰囲気を醸し出している。


「おい。暑い。冷房を入れろ」


 男が何か喚いていたけれど、俺は二人の女の子たちが気になった。



 ♢

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