第23話



 

 ♢




 扉を開けたそこには、真夏の太陽光を反射する金髪があった。直視するのが辛いくらいの輝きを前にした俺は、危機感と嫌悪感で頬を引攣らせた。


「やっほ」


 金髪は太陽。碧い瞳は海。夏の化身のような男が、満面の笑みを浮かべている。それは妹とはまた別種の美しさだった。


「……なにしにきた」


 何とか絞り出した声は低かった。俺は、目の前の男、テン・シナリスを睨みつける。虚勢を張る準備をしてなかったので、俺の膝は力を失いそうになっていた。それでも瞬時に手が動き、扉を問答無用で閉めようとした。けれど、テン・シナリスは余裕の表情で、右手の親指だけで止めて見せた。


「なにって、暑中見舞いだよ。ほら。ハーゲンの詰め合わせ。君ら兄妹はハーゲンなんて食べたことないでしょ?」


 逆の手ではビニール袋に入った包みをぶら下げている。それを俺がよく見えるように持ち上げた。


「馬鹿にすんな。食べたことくらいある」


 去年、妹がテスト勉強をサボっていたので、一番を取ればハーゲンを買ってやると言ったことがある。結局妹は一番は取れなかったのだけれど、頑張ったご褒美として買ってあげた。あの時の喜びようは忘れもしない。そして一口もらった俺も、他のアイスとの違いに驚いたものだ。けれど、あの時甘やかしたせいで、妹は少々目標を達成できなくても、ご褒美をくれると勘違いしている。

 いや、そんなことはどうでも良い。


「どこに住んでるか知らないけど、帰れ。あなたの相手をする気はない」


「僕は今、中区のホテルに泊まってるよ。そして帰るつもりもない。話しておきたいことがいくつかあるしね。君と、貴女にね」


 テン・シナリスが俺を指差し、続けて俺の背後にも指を向けた。その理由がわからなくて振り返ると、そこには営業スマイルの先生がいた。壁に寄りかかった態勢で腕を組んでいる。切れ長の目は笑っていなかった。


「テン・シナリス男爵バロンだね」


「お初にお目にかかります。ホリアキラ先生。僕のことは彼から聞いているかな? 妹ちゃんに会いたいんだ」


「私に言われても困るな。そこのシスコンに聞いてくれ」


「まぁ、そうだよね。てことで、妹ちゃんに会わせてよ。悪いようにはしないからさ」


「何のつもりだ」


 俺と先生は、〈命と嘘の舞踏会ライフ・ライ・ダンスパーティー〉については妹に伝えないことで一致している。いずれバレてしまうことはわかっているけれど、今は余計な雑音を聞かせないためだ。

 依然として妹の精神は酷く不安定だ。そこに〈命と嘘の舞踏会ライフ・ライ・ダンスパーティー〉なんて名前を持ち出したくはない。帰ってくれ、と覚悟を持って言おうとした。けれど、先にテン・シナリスが口を開いた。


「僕は……そうだな、〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉の存在を知っている知人ってことで良いよ。それにさ、流石に〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉なんてものを妹ちゃん一人に抱え込ませるのは可哀想だよ。一人でも秘密を共有できる存在がいた方が安心できない?」


「……」


「誓って言うが、僕は何もしない。顔合わせ程度さ」


 都合良さげな提案に、俺は必死に考える。こいつも的外れなことを言っているわけではない。そこが怪しくもあるのだけれど、それを言い出せばキリがないのも現実問題だ。ここで強情に追い帰すことが果たして最善策であるのか。駆け引きとまでは言わないけれど、バランスを取ることも重要だ。会わせてくれないから殺しますっていう思考にこいつが行き着かない保証はない。いや、行き着くのはむしろ必然だ。そうなってからでは遅い。


「……先生、構いませんか?」


「君がそう判断するなら。テン・シナリス男爵バロン。ここでは敬称も爵号も省くが構わないかい?」


「もちろんさ。僕は貴女たちと仲良くなりたいからね」


 先生は一瞬柳眉を潜めたけれど、無言で二階へと向かう。

 この状況はあまり良くない。突然の訪問をこちらが受け入れてしまったのだ。前例を作ってしまった手前、今後もテン・シナリスが似たような行動を取った場合、こちらが譲歩しないといけなくなる。だから先生はテン・シナリスに爵号を捨てさせた。互いの立ち位置を均そうとしたのだ。けれど、爵号を捨てることをテン・シナリスは快諾した。これでは効果が薄い。


 もし効果があるとすれば、それは妹の前で爵号なんて心臓が縮むものを出さないですむことだけだ。


「おお。噂には聞いてたけど、本当に良いお店だね。僕好みのコーヒーの薫りだ」


 深呼吸するテン・シナリス。先生のお店を褒めてもらえるのは嬉しいけれど、こいつが言うと嫌な気分になる。行動の端々が胡散臭いからだ。

 二階に上がったところで、妹が待っていた。俺たちが客人を連れているところを見て、大慌てで自分の服装を気にしだした。妹は猫かぶりなので、親しい人以外には本性を見せない。けれど、もう間に合わないことを悟って、せめてもの外行きの笑顔を作った。それに、テン・シナリスも「鯵」と書道体でプリントされた白ティーシャツを着ている。服装が適当なのはどっちもどっちだ。


「立ち話もなんだ。ダイニングに案内しよう」


 さっさと奥へと案内する。先程まですったもんだをしていたダイニングは、招かれざる客のせいで一気に雰囲気が暗転した。先生と妹が並んで椅子に座り、テン・シナリスが対面して座った。俺は妹の背後に立つ。テーブルを挟んだ一メートル足らずの距離が近すぎて不安だ。


「まずはこれを。暑中見舞いだよ。ハーゲンの詰め合わせだ。美味しく食べてね」


 妹の瞳が一際輝いた。妹は即座にテン・シナリスを良い人認定しただろう。ハーゲンおそるべし。そして我が妹は単純過ぎる。


「僕の名前はテン・シナリス。ホリ先生と、ハツカ君のお友達だ。よろしく」


 テン・シナリスは人好きのする笑顔で右手を差し出す。妹は少し戸惑ったけれど、握手を交わした。俺にこんなどう見ても外国人な友達がいたことに驚いているのだ。〈銀華〉は外国人が極めて少ない。〈十字銀〉研究の流出を避けるため、〈十華〉が厳しい入島審査を課しているからだ。実際、俺もテン・シナリス以外の外国人というのを見たことがない。


「早速だけど、僕は君が〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉だと知っている」


 ハーゲンの話題から一転、誤魔化しなしの直球勝負だ。遠回りをしないつもりらしい。妹の表情筋が痙攣する。数秒ほど停止して、どうしたらいいかわからない、と言う目を俺に向けてきた。不安そうな瞳に何とか応えるため、俺は嘘をついた。


「大丈夫。安心して。その……この人は鬼狩りじゃないし、奴らを呼んだりもしない」


 現実はちっとも安心できないのだけれど、そう言うしかない。そして、テン・シナリスも乗ってきた。


「その通りさ。大変な目に遭ったね。怖かっただろうに。でも、これからは僕のことを頼って欲しいな。こう見えて〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉の研究をしてるんだ」


 優しそうな声でそう言った。それに嘘もついていない。


「どうかな? 〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉になって気づいたことはない? 些細なことでも構わないよ」


 テン・シナリスは妹に随分とざっくりした質問をし始めた。俺や先生に口を挟むなと牽制しているかのようだった。けれど、もし妹が異変を感じていたのなら、一番に俺に相談するはずだ。初対面の男に言うようなことではない。俺は鼻で笑った。

 妹がスケッチブックに何かを書き始めた時も、特にないとか、わからないとかだと思った。


「(うちはほんとうにしゃべったらダメなんでしょうか)」


 けれど、そんな、俺や先生も聞かれたことのない疑問を書いた。俺は妹の背後に立っているから、何を書いているか丸見えだった。その衝撃的な内容と行動に大いに動揺する。


「まぁ、そうだね」


 俺の動揺をよそに、テン・シナリスは残念そうに言った。


「個体差もあるけど、〈鬼聲〉は〈鬼眼〉よりも強力だ。あまり考えなしに言葉を口にすると、力が暴発することもあるよ。だから、ハツカくんとホリ先生の判断は正しいね」


 肯定と賛同の言葉なのに、こいつに言われると腹が立つ。まるでこいつの許可なくして行動ができないかのような錯覚をしてしまうのだ。

 〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉の専門家を名乗る男に言葉を使ってはいけないと診断された妹は、落胆を隠しきれない。会話ができないというのはもどかしく辛いものなのだろう。けれど、テン・シナリスはこうも続けた。


「命令だったり、願望だったりを口にするのは危ない。現実に起こってしまうかもしれないからね。でも、相槌をうつとか、単語のみを話すくらいなら大丈夫だと思う」


「本当かっ!?」


 身を乗り出してしまったのは俺だった。


「うん。そもそも、何が起こるかわからない、という状況をいつまでも指を咥えて見ているわけにもいかないでしょ? やって良いことや安全な範囲を見つけていかないと。それに、その様子だともう何回か喋っちゃってるだろ」


 確かにテン・シナリスの言う通り、妹は何回か喋っている。短い言葉がほとんどだったけれど、完全に無言だったわけではない。さらには、俺だって妹が苦しんでいるのを傍観していたくない。もし妹の不自由が少しでも改善されていくならば、それはとても嬉しいことだ。薄っすらとだけれど、希望が見えた気がした。


「でも、焦っちゃダメだよ。ちゃんと話す言葉は選ばないと、リョウタくんみたいになるからね」


 その発言を一瞬、俺は聞き流しかけた。それでも何とか耳に引っかかったのは、その名前が俺の心に刻み込まれていたからだ。二度と忘れられない光景を脳裏に呼び起こす着火剤だからだ。


「は……? リョウタ、くん?」


「そうだよー。『リョウタくんがここからいなくなれば』。なぁんて呟いちゃったから、こんなことになってるんだし?」


 俺も、ずっと無言で座していた先生も、テン・シナリスが何を言っているのかわからなかった。ニヤニヤと愉快満面の笑みを浮かべる真意が掴めない。けれど、ただ一人。妹だけが、理解していた。嘲笑うテン・シナリスの瞳が意図する事実を、知っていた。


「あれ? 自覚ないのかなぁ? ほら、あの時だよ。怖い怖い鬼狩りから四人で逃げてきて、狭っ苦しいアパートで震えていた時の話だよ」


 妹が膝の上のスケッチブックを取り落とした。カツンと小さな音がダイニングに広がる。妹の呼吸が荒くなっていく。

 テン・シナリスが何を言っているのか、先生はまだピンときていないようだったけれど、俺は少しずつわかり始めていた。わかりたくないと心が叫んでいる。けれど、俺の思考は迷うことなく一つの答えを導き出した。


「ハツカくんもおかしいと思ってなかったのかな? あの時、どうして突然リョウタくんがアパートから飛び出して行ったのかを。不思議だよね。意味わかんないよね」


 あの日。中区で遭遇した山田から逃げた俺たち四人。考えていたのは、これからどうやって隠れるかということだった。〈銀華〉に見切りをつけ、本土に逃げるつもりだった俺だけれど、おそらく四人全員が同じことを考えていたはずだ。俺たちは心身ともに疲れ果てていて、会話はなくとも、思いは同じだったはずだ。わざわざ確認しあうまでもない。けれど。それなのにあの時、リョウタくんは何の前触れもなくアパートから飛び出していった。俺やリョウコさんの制止に耳を貸すこともなく、駆けていった。

 あれは、いったいどう言うことだったのか。あの意味不明な行動は何だったのか。〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉ばかりに気を取られて、ないがしろにしていた謎が、今明らかになりつつある。


「あ……や、う、うち……」


 妹の力ない独白が、怯える舌で紡がれる。


「んん? 言い訳しても構わないけど、気をつけなよ」


 テン・シナリスが口元を歪める。碧い瞳が玩具を楽しんでいた。


「だって、君が! 願ったから! あのいたいけな少年は! 無惨に死んだんだから!」


 テン・シナリスの哄笑が俺たちの鼓膜を傷つける。まさしく悪魔の笑みだった。二の句がつげない俺たちを弄ぶように、テン・シナリスは喋り続ける。


「大丈夫さ! 誰だって自分が一番可愛いんだ。恥じることも悔いることもない! 心に生まれたほんのちょっとの影を呟いちゃっただけさ! 人も吸血鬼も、汚いだけでも綺麗なだけでもない。今回はたまたま偶然、君の願望が、至極人間的だっただけさ!」


 重く鈍い言葉の刃が俺をゆっくりと貫いていく。そして、それ以上に妹の心をほじくっていく。俺も妹、先生ですら、されるがままに嬲られているしかなかった。見えない重力が倍加したような重苦しい空気が立ち込める。そして、いつのまにかテン・シナリスはいなくなっていた。

 ダイニングに広がる沈黙は、ヒュー、ヒューという妹の呼吸音だけを際立たせていた。





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