第22話
♢
吸血鬼は陽に焼けない。肌が赤くなることも黒くなることもない。だからなのか、妹の肌は常に白磁の輝きを有している。けれど、儚さや清楚さの代名詞のような美しい肌は、今この瞬間は桜色をたたえていた。
青いジャージの半ズボンに、適当な英語がプリントされた芋くさいティーシャツ。妹の格好は女性の華やかさとは縁遠いものだ。だと言うのに、俺は何故か無性に気恥ずかしくなってしまった。
「安心してくれ。私は他人の吸血など掃いて捨てるほど見てきた。遠慮なんかいらないよ」
「だったら敢えて俺たちにやらせなくても良いでしょう……」
「吸血鬼同士が食事のために吸血をする、と言うのが見たいんだよ。わかってるくせに。ほら、時間をかければかけるほど意識しちゃうから、早めにガブっといくべきだ」
先生の頼みごとを断るなんてことはできない。これまで受けた多大なるご恩に報いるためだ。外部的理由はこうして出来上がっている。外堀を埋められているとも言えるだろう。さらに、俺はいつかは血を飲まないといけないわけで、自分の身体が求めるものを知っているかどうかは死活問題だ。もし本当に吸血鬼の血でなくては栄養補給できないのであれば、早めに対策を講じなくてはならない。人間の血は国が売ってくれるけれど、吸血鬼の血なんて取引されていないのだから。妹の血を飲ませてもらう理由は他にいくつも出てくる。これは必要なことなのだ。
けれど、いざ行動に移せない。それもこれも全部、先生が含みを持たせるようないらゆ事を言うからだ。意識しなくても良いようなことを意識させられた。そのせいで、
「っ…………」
妹がこんな顔をしている。何故そんな大人の階段へ一歩踏み出す乙女みたいな顔をしているんだ。首筋だけは両手で隠しているが、黒真珠の瞳は俺を見上げている。逡巡も期待も好意もない交ぜにした虹彩。
「ふぅ……」
椅子に座る妹と、立っている俺。深呼吸した俺は、すっと妹の方へ体重を移した。
「っ!」
びくりとした妹が椅子を引く。
そう言う反応をするからっ……!
「はーぁ」
進まない俺たちに業を煮やしたのか、先生がつまらなそうに息を吐いた。テーブルに顎だけをのせただらし無い姿勢だ。淑女のやることとは思えない。
「仕方ない。じりじりと焦げ付くような駆け引きも楽しいのが君たちの年頃だが、生憎私は卒業している。割り切って妥協する癖がついているんだよ」
「へ、へぇ?」
「ほら、ハツカくん。私の血を飲みたまえ」
先生がエプロンを肩まで脱ぐと、黒いブラウスのボタンを外した。鎖骨と豊かな胸元、そして紅いブラ紐がチラついた。斜め上に顔を向けた先生は、首筋を見せつけてくる。
「え、え、えぇ!?」
「何を驚いているんだい。私の血でも問題ないだろう。あ、それとも若い婦女子じゃないと気が乗らないかな? でも、それならおかしいな。私はまだまだ現役のつもりなのだが」
「ちょっ! 先生! ボタンを留めて下さいよ!」
「なんだいウブだなぁ。そんなことじゃ将来苦労するぞ」
「どーでも良いですから!」
身を乗り出してくる先生。ますます胸元が強調されて、俺の顔が火を噴きそうになる。先生の実年齢は知らないけれど、外見年齢は二十代後半だ。大人の女性特有の艶やかさが鱗粉のように振りまかれる。先生ほどの女性にこんなことをされれば、男なら誰でも熱病になる。
俺は必死に先生を見ないようにする。テーブルに膝をついた先生はお構い無しに近づいてくる。そして、妹はそんな状況を呆気にとられた様子で見ていた。口を半開きにしてちょっと間抜けっぽい。けれど妹がやると美少女のアクセントになる愛嬌なのだから世の中は不公平だ。
「あ……」
「ナノカくんも良いよね? 私が血を飲ませても。可愛い生徒のためだ。随分嫌がってたみたいだし、私にとっても吸血鬼に血を吸われるというのは興味深い体験になるさ」
先生は露骨に挑発している。にやにや笑いをしているんだろうなと嫌でも想像がつく。声がすでに笑っているのだ。そして、また妹がカチンときたこともわかった。我が妹ながら、扱いやす過ぎる。先生の手のひらでコロッコロ転がされていた。
「むぅ!」
「痛いっ!」
スケッチブックをフルスイングされた。面ではなく角が俺のこみかみにヒットする。場合によって目に当たる可能性もあったのだけれど、挑発されボルテージの上がった妹には関係ない。普段はこんなことはしないのだと妹の代わりに弁明しておこう。妹は他人の痛みがわかる優しい子だ。
妹はスイングしたスケッチブックを素早く手元に戻すと、きゅきゅっと文字を書く。
「(せんせいはジャマしないでください おにいちゃん のんで!)」
俺と先生に文字を見せつける。そして、妹は椅子に座り直すと、俺に右手を差し出してきた。手のひらを上にしている。
首筋ではなく、手首から飲めということらしい。手首にも大きな血管がある。心臓からは少し遠い位置にあるため、微妙に味が落ちるらしいのだけれど、そんなことはどうでもいい。少なくとも、首筋に噛み付くよりは全然マシだ。
「わ、わかった……飲む。できるだけ痛くないようにするから……」
俺は片膝を立て、妹を見上げる。妹の頬はまだほんのり赤く、下唇を噛んでいた。けれど、俺と目が合うと、小さくコクンと顎を引いた。
俺は左手で妹の手の甲を、右手で手首をそっと包む。妹の指が震えているのがわかった。
唇を寄せ、牙を見せる。鋭利な牙は、柔らかい肌にゆっくりと侵入していき、血管に行き着いた。牙を通して温かい血液が舌を濡らす。
俺はあまりの衝撃に思わず力が入ってしまった。妹が痛みに片目を閉じた。
妹の血は、美味かった。甘い香りが弾け、生命力に満ちた力強い味は喉の渇きと言うより、俺の心臓を潤していく。意識が輝いてくる。喉が痺れ、胃が蕩けるような幸福感があった。
俺は、もっと欲しくて欲しくて、たまらなくなった。この液体を飲み尽くしたい。より深く牙を。さらに奥へ牙を。
けれど。
「あ……」
見上げると、妹が泣いていた。大粒の涙がいくつも転げ落ちていく。妹は必死に目をこすっていたけれど、目尻が赤くなるだけで意味はなかった。涙が、涙が。
「ご、ごめんっ! 痛かったか!? ごめんな!? あぁ! 俺はなんてこと!」
血を口にした瞬間から、俺は俺のことしか考えていなかった。ただ目の前にある欲望だけを貪っていた。それは、吸血鬼の本能で、人としての理性ではなかった。
声もなく泣き続ける妹の頭を撫でる。手首には傷など残っていなかったけれど、俺が牙を突き立てた事実は消えない。
慌てる俺を宥めるように手を振った妹は、膝においていたスケッチブックを取った。
「(うれしいの)」
「え……」
「(うち いつもおにいちゃんにめいわくかけるだけやった けど)」
スケッチブックは涙でくしゃくしゃになっていく。
「(もしかしたら ほんのちょっとでも やくにたてるかとおもうと)」
「(うれしくて)」
……泣くほど、だったのか。
そんな風に泣いてしまうほど、妹は俺に負い目を感じていたのか。
俺はまるで気づいていなかった妹の心を、やっと知ることになった。今までは上辺だけで、知った気になっていただけだった。
「それで、どうなんだい?」
先生が真剣な表情で言う。血の味や、効果について聞いているのだ。
俺は、理屈ではなく、本能で理解していた。求めていた何かを確信した。
「俺には、吸血鬼の血が必要です。人間の血じゃ、ダメです」
味も質も、何もかも違っていた。吸血鬼の本能よりも更に根深い、生物としてのDNAが空腹を満たされた笑みを浮かべている。
先生が困ったように言う。
「そうか……。本当に君たちには驚かされる」
常識で考えればそうなのだろう。けれど、身をもって知ったからなのだろうか、俺はそれほど困惑しなかった。ただ、どうしても見過ごせないのが、これからどうやって血を手に入れるかということだった。はっきり言って、妹や先生の血は飲みたくなかった。二人とも大切な人で、女性だ。その肌に傷をつけるのはあまりに忍びない。それに、さっきのように本能が暴走したらどうする。
「あ……」
その時、俺は気づいた。この感情こそが、妹が抱えていた心の澱だったのだ。大切な人から血を奪う罪悪感。そのせいで関係が壊れてしまうかもしれない恐怖。生きるためだと割り切ってしまう良心の呵責。俺でさえこんなにも胸が痛いのだ。優しい妹は、こんな苦みを何年も前から背負っていたのか。
俺が妹の方へ振り返った時、妹はまだ涙していた。妹の苦みに気づき、そのホッとしたような、安心したような表情の意味がわかった。自らをただ傷つけ奪うだけの存在だと思っていた妹は、やっと与え癒す側になれたのだ。
俺は妹のことを悪く思ったことなど一度もない。頑張り屋で、いつも周りのため優しくできる妹は、俺の自慢だ。だから、妹のために血を供給できることは誇りですらあった。こんなに素敵な女の子の力になれていることが嬉しかった。
けれど、妹はそんなことわからない。時折俺に向けられる謝罪は、妹の澱の一部だったのだ。それが今日、ほんの少しだけ救われた。妹はやっと、負い目を軽くすることができたのだ。
「血を吸わせてくれて、ありがとう。それと、今まで気づけなくてごめんな」
俺は妹の頬を撫でた。涙の冷たさが手を濡らす。妹はくすぐったそうにはにかんだ。すると、ピンポン、という気の抜けるインターホンの音がした。なんだがタイミングが悪いような良いような、作為的な何かを感じる。
三人で目を合わせた。ちょっと特別な時間が流れていただけに、急に現実に引き戻された気分だ。まぁ、俺が出るべきだろう。
お店の入り口とは別に、階段を降りたすぐの所に裏口がある。インターホンはここに取り付けられている。
郵便か宅配か。二度目のピンポンが鳴った時、俺は扉を開いた。
♢
♢
暗い部屋には無数のパソコンが放つ青い光があった。その全てが全く別の動作をし、ちかちかと目を焼く。その他にも、いくつもの液晶画面が壁に取り付けられていた。その中でも最も大きなパソコンと液晶画面の前に、一人の男が座っていた。
男は悩ましげにパソコンを睨みつけては、キーボードを打つ。ここ数日の間、それを何千回と繰り返していた。
パソコンがTELの画面に切り替わった。イヤホンから特別仕様の音楽が聞こえてくる。キーボードを叩いてインカムに繋ぐ。
「私です」
「(僕だよ〜。依頼した件の進捗はどうかな?)」
「順調です。来週には完成品をお届けできますよ」
「(流石に早いね)」
男は銀縁の眼鏡を押し上げた。右方向から見ると、端整な顔立ちをしている。だが、左方向から見た時、万人が息を飲むだろう。男の左顔面は削げ落ちていた。左頬はなく、左目はなく、左側の歯もない。顔の半分の骨格が消えている。頭の狂った絵描きが描いた戯画のようだった。
「それで、報酬の話ですが」
「(えぇ? 僕は色々見逃してあげてるんだよ? その分で割り引いてよ)」
「おや、見逃しているとは?」
「(十字銀のサンプル集めは順調かい?)」
電話の相手はすり潰すように笑いを堪えている。それは男が今まで聞いてきた中で最も楽しそうな声だった。相手の性格は知っていたつもりだったが、それ以上にひん曲がっているらしい。
だが、男はそれが嬉しかった。この相手に出会えたことが人生最大の幸運だと思える。
「えぇ。まだ三人ですが。あと四、五人は欲しいですね」
「(楽しそうだし、手伝ってあげよっか?)」
「結構ですよ。それより、お願いがありまして。今年〈
「(ん? どうかしたの?)」
相手のパソコンに素早くデータを送った。相手がデータを確認し終える頃まで待ち、本題に入る。男が話した内容は怖ろしいものだった。だが、相手は大いに喜んだ。依頼された仕事の報酬とは無関係に手伝ってくれるらしい。ただ、相手は一つだけ条件をつけてきた。これまた恐ろしく趣味の悪い話だった。だが、男はそこが気に入った。
「では、アレの〈十字銀〉の強度を少し弄っておきますかね」
別れの挨拶もなしに通話を切った。三日後は楽しくなりそうだ。これで下らない家系のしがらみから抜け出せる。
「ふふ」
唇の端をあげようとして、左側がないことに気がついた。あの事件以来笑うのは初めてだった。
男は液晶画面を見つめる。そこに表示されているのは、大きな籠手だった。肘から胸までをカバーする黒い装束。
男は不自由そうに車椅子を動かした。この仕事が終わり次第、〈足の生えた生首〉と連絡を取ろう。そう考えると、歓喜の身震いがした。
♢
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