第21話


 ♢




 〈十華〉の一員である一条家が経営するホテルの一室。最高級スイートルームの窓からは美しい太平洋が見えていた。窓際に設えられた革張りのソファに、一人の青年が腰掛けている。品の良い真っ白なシャツに、豪華ながらも厳かな銀のベストと、同色のズボン。誰が見ても金持ちだとわかる制服を着た学生だった。

 青年は眼下の海を眺めている。この青は〈銀華〉に来るために乗った船で嫌と言うほど味わった。その時は特に何の感傷も感じなかったが、改めてこうして見下ろしてみるとなかなか気分が良い。


「あっ。は……は、あぁっ。はぁ……あぅ!」


 若い女が悶える声が聞こえてくる。海を眺めるには最高のオーケストラだった。

 青年はソファを回転させ、室内へと振り向く。いやらしい声をあげる女を冷ややかな眼光で射る。


「どうだ、苦しいか?」


 青年は憎々しさをにじませる声で問いかける。女は悶えているだけで返事はしない。だが、水を被ったような汗が女の苦しみを物語っていた。


「兄上はもっと苦しかった。今も半身不随で、二度と鬼狩りとして闘えない。輝かしい兄上の人生を奪った代償は、こんなことでは生温い」


 悶える女は衣服を身につけていなかった。豊かな乳房も、秘部さえも露出している。美しい白磁の肌全てを晒していた。

 身体を隠すことも許されていない。両腕は天井に設置されたワイヤーで吊られており、身動きができないのだ。女の首に取り付けられた黒々とした巨大な首枷がチャリチャリと音を立てる。


「がっ、は、あぁ!」


 女が荒い息を漏らす。目元儚げな美人は、頬どころか耳まで羞恥に染まっている。だが、女を苦しめているのはそれだけではない。

 女の身体の複数の箇所に、小さな十字架が取り付けられていた。頬、首筋、背中、乳房の先端、太股。十字架が取り付けられた箇所は、肌が裂かれ血を流している。女の全身の至るところに黒々とした内出血の跡があった。それは目を背きたくなるような虐待の痕跡だった。


 ホテルの一室で、拷問ですらない拷問が行われていた。青年は女を苦しめるためだけに心身を痛めつけている。

 そして、それを眺めるもう一人の少女が部屋の隅にいた。青年と対となるような銀と白の制服姿で、アルビノのようは銀色のショートカット。あまりに色素が薄く、容姿の美しさも相まって、さながら妖精のようだ。だが、その整った顔は生きているとは思えないほど表情が無かった。唯一、少女の首を隠し尽くす大きな黒鉄の枷だけが目立っている。


 生理的嫌悪感を剥き出しにした青年が言う。


「ふん。僕の周りには貴様ら吸血鬼を性玩具にしている輩もいるが、穢らわしいことこの上ない。貴様らなどゴミ以下だ。そんな存在に欲情するなど虫唾が走る」


 青年は冷静だった。冷静な目で女が苦しんでいるのを観察している。

 女が瞳を開いた。堪えていた感情が爆発し、瞳に瞋恚の炎が宿る。青年を心の底から憎悪していた。


「なんだその目は。相変わらず生意気だな。良いだろう。では貴様の妹をいたぶってや……」


「やめて!!」


 青年の目が隅の少女に向きかけた時、女が叫んだ。必死に放たれた声は裏返っていた。


「やめて、だと?」


「う、くっ。やめて……ください」


 青年が睨むと、女は淀みながらも言い直した。女の頬から流れた血が豪奢なカーペットに染み込む。


「そうか。やめて欲しいなら、やることがあるんじゃないか?」


 青年は手元にあったワイヤーを切った。女が前向きに倒れ臥す。だが、よろよろと動き出すと、青年の足元まで這いずって行った。


「歩いて靴が汚れた。掃除しろ」


「……はい」


 向けられた革靴の爪先を、女の舌が舐める。僅かな土汚れを舐めとっていく。


「良い顔だな」


 女の屈辱と軽蔑に満ちた瞳に、青年はほくそ笑む。青年はこれを求めていた。女が青年をどんなに嫌悪しようと軽蔑しようと、命令には逆らえない。女はそれを理解している。だが、女の気高い精神は屈服などしない。どんな虐待や折檻を受けようと、瞳の色が陰ることはない。

 女は、どんなに自尊心を踏み躙られようとも負けないと誓っている。その魂を少しずつ削ぎ落としていくのが、青年の生きがいだった。今は無理でも、いつかこの瞳の光を消し去ってみせる。


「ほら。もう片方もだ」


 男は靴裏までしゃぶらせる。

 その痛ましく穢れた光景を、隅の少女はずっと眺めていた。心がないかのような少女の心臓は、誰も聞こえない絶叫で震えていた。




 ♢


 ♢




 俺は、妹を襲おうとした。止めに入った先生すらも同様に標的とし、暴れた。大切な二人に対して、考えられないような暴挙を犯してしまった。何らかの異常をきたしていたことは間違いないけれど、その事実は俺の心にどす黒い靄を作っていた。


「ナノカくんや私の血を欲したんだね。ふむ……」


 俺は、どんな思考や感情であんな行動を起こしたのかを包み隠さず話していた。釈明になるとは思っていない。そうしないと話が進まないからだ。

 あの数秒間で、二人が俺に預けてくれていた信用を全てぶち壊しにした。もう、拒絶されてもおかしくないと思っている。二度と顔を合わせたくないと、軽蔑の眼差しを向けられるだろう。


 そう悟って、覚悟したけれど、俺は身体の震えが止まらなかった。俺は俺を信じてくれる二人がいなくなってしまうことが怖くて怖くてたまらなかった。


「考えられるのは、アレルギー反応だな」


 けれど、先生は穏やかな声でそう言った。


「え……?」


「吸血鬼のアレルギーだよ。血液型だったり、性別の違いだったり、年齢だったり、それぞれ条件は異なるけどね。人間と同じで、場合によっては死に至る。おそらくそれがハツカくんに起こったんだ。君が飲んだパックは二十代の女性の血だった。多分それがダメだったんだろう」


「……そんなこと、あるんですか?」


「そりゃあるさ。だからこうしてパックには血液型や年齢、性別が細かく記載されている。こうした手間があるからパックは高額になっているんだ。それとも、値段設定は下級吸血鬼への嫌がらせだと思ってたのかい?」


 思っていた。実際問題、そういう思惑もあるだろう。けれど、下級吸血鬼への配慮もあるのだと初めて知った。


「まぁ、アレルギー反応を起こすとハツカくんみたいに暴走するからなんだけどね。つまり、さっきの行動はハツカくんの落ち度じゃない。だから、そんな人生が終わったみたいな顔をしないでくれ」


 自分で頬に触れる。そんな風になっているのか。すると、左手に小さな手が重ねられた。妹が真っ直ぐに俺を見つけめている。そして、こくりと頷いてくれた。大丈夫だと、瞳で語りかけてくれた。


「だが、これで衝撃的な事実が明らかになった。いや、〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉の眷属ならあり得ない話ではないのかもしれないが……」


 先生が困ったような顔で独り言を呟く。そして席を立つと、部屋の隅の窓下にある棚に置かれている辞書のように分厚い本を手に取った。知性に満ちた瞳でページを繰っていく。俺と妹はそんな先生の背中に、顔を見合わせた。何か重大なことに気がついたらしい。ボン、という厚みを感じさせる音で先生は本を閉じ、棚に戻すとため息をついた。


「……アレルギー反応を起こすと、暴れると言ったね」


「は、はい」


「それで何故暴れるのかと言うと、アレルギーによって生命の危機を感じた吸血鬼の本能が、自らを生存させるのに最も適した血を探すからなのだよ。先程のハツカくんは、ナノカくんや私を吸血対象として選んだ。つまり、ハツカくんに必要な血液とは、吸血鬼の血液だと言うことだ」


 まず耳を疑った。先生の言うことに間違いがあるはずもないから、きっと俺が聞き間違いをしたのだと思った。けれど、先生の真剣な目を見た時、俺の聞き間違いでも錯覚でもないと知った。

 吸血鬼が吸血鬼の血を吸うことは、ある。互いの上下関係を明確にするためだとか、闘いに勝利した吸血鬼が優越感に浸るためだとか。いずれにしても、精神的な理由である。栄養を得るためや生命活動を維持するためではない。


 けれど先生は、俺が必要とするのは吸血鬼の血液だと言った。常識的にはまるで理解できない話だ。けれど、脳の奥底で、また誰かが囁きかけてくる。


 そうだ。血を吸え。目の前にいる女たちの血を貪り尽くすのだ。



「そんな、ことって、あるんですか? 俺は聞いたことありませんよ……」


「私もないさ。だが、〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉に世界法則は当て嵌まらない。それはハツカくんが一番知っているんじゃないか?」


 ぐっと声が詰まる。確かに俺は、物理干渉を引き起こす〈鬼聲〉や〈鬼眼〉を目の当たりにした。あの怖ろしい経験に勝る根拠なんてない。俺はそんな〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉の眷属なんだ。普通の吸血鬼と違う点があっても何らおかしくない。それどころか、普通であることに疑いを向けるべきだ。


「よし。机上の空論を並べていてもまどろっこしいだけだ。実験あるのみ」


「実験、ですか?」


「うむ。ハツカくん。ナノカくんの血を吸ってみてくれ」


 今度こそ聞き間違いだと思った。隣の妹の時間が停止している。たっぷり三拍置いて、俺は呼吸を再開する。


「あの、冗談ですよね……?」


 恐る恐る尋ねた。


「ん? 冗談のはずがないだろう。ほら早く。私も色々と初めての経験でワクワクしているんだ。ほら、早く早く」


 バン、と机を叩いた。衝撃で食器が宙に浮く。


「な、何を言ってるんですか先生! そんなのできるわけないでしょう!?」


 隣では真っ赤になった妹がペンを亜音速で走らせている。そして、先生の鼻先に突きつけた。


「(そんなのムリムリムリムリ! すわれる おにいちゃん ありえない ウチのちを! なにをかんがえてるんですか ホントにもういみわかんない!)」


 ページにデカデカと書かれた文字はぐしゃぐしゃで、読み取るのに苦労する。妹の心の動揺が合わせ鏡のように文字に現れていた。その後も兄妹二人で先生に猛抗議をする。俺たちが先生にここまで噛み付いたのは初めてのことだった。


「いやいや。別に全然おかしくないよ。ハツカくんが最初に押し倒したのはナノカくんだし、適任だ。それに、ナノカくんの血でハツカくんの栄養が賄えるなら安上がりでいいじゃないか」


「安いとか高いとかではなくですねっ!」


「んー? 値段は関係ないのかい? そりゃあそうだよねぇ? だって君たちはもう家賃も食費も払ってないしぃ? 水道代や光熱費だってそうだしねぇ? あれー? そう言う諸々のお金を払ってるのは誰だったけなぁ」


「っ! そ、それはっ!」


 先生のお宅に居候して三日。慣れとは怖いもので、もうここでずっと暮らしていくような感覚になっていた。そしてこの三日間に発生したあらゆる金は、全て先生が払ってくれているのだ。甘えていたつもりはないけれど、結果だけ見ればただの穀潰しだ。そんな痛いところを、先生は的確かつ鋭利に突いてきた。

 妹が光速で書き上げた文章が机に叩きつけられた。


「(おかねはあとではらいますし もういえにかえりますし とにかくダメ!!)」


 妹は首筋まで朱に染まっていた。ついそこに目が行ってしまい、慌てて逸らした。口腔内に唾が溜まっていくのを自覚した。逸らした目も、引力のような力で再び妹の首筋へと吸い寄せられていく。

 妹が俺の邪な視線に気がついた。バッと両手で守るように首を隠すと、唇をわなわなさせて俺を見つめる。あ、その目つきはやばい。


「何故そんなに拒絶するんだい? ただの食事だよ。深い意味なんかないさ。なに? それとも君たち二人のこれまでの吸血行為は何か別の意味合いがあったのかなぁ?」


 先生を殴りたいと思ってしまった。妹は頭から湯気を上げそうになって俯いている。頑として首筋は隠したままだ。

 俺は吸血行為にそこまでおかしな気持ちを抱えていたりしていない。断言できる。幼い頃は必要だからしていたと言うだけだった。もちろん、妹が成長しどんどん綺麗になっていく中で、多少の恥ずかしさが無かったと言えば嘘にもなる。けれど、妹の命を守る行為なのだと思っていた。そこに不純な気持ちなどなかった。だから、ここまで強硬に否定しているのは、妹の肌に傷をつけることに抵抗感からだ。


 けれど、妹の反応を見て意味合いが大きく変わってしまった。どうやら妹は、かなり俺を意識していたらしい。食事が食事以外の何かに変わりつつあったらしい。


「それとも、君たち兄妹は、他人に見られたら困るような行為をこそこそしていたのかな?」


 悪魔のような先生の駄目押しが、妹の肩を震えさせた。妹はちらと俺を見上げる。その瞳が恥ずかしさと怯えで彩られている。そしてその中に、淡い期待の色が混ざり合っているのを、俺は確かに見つけてしまった。




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