第20話




 ♢




 オープンキッチンの側にあるテーブルが俺たちの食卓だった。可愛らしい一輪挿しの花瓶が中央で文字通り華を添えている。とても心が和やかになるダイニングだった。けれど、先生の一言に、俺は一気に加熱してしまう。


「力を抑えられるって、本当ですか!?」


 沸騰して立ち上がった俺を、先生はまぁまぁという手つきで落ち着かせる。驚いた妹がこっちを見ている。


「それはまた、どうしてですか?」


 俺は誤魔化すために咳払いを一つして座り直した。


「うむ。吸血鬼の力の源は血液だと言ったね。それにより力の格差が広がっているとも。なら、もしそれが〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉にも同じことが言えるとしたら、どうだい?」


 妹は〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉として覚醒した。けれど、テン・シナリスはまだ完全復活ではないと言っていた。〈命と嘘の舞踏会ライフ・ライ・ダンスパーティー〉も、まだどうすれば完全復活するかはわかっていない。

 今の段階で血液による栄養源供給を止めれば、


「……完全覚醒を、遅らせられる?」


 俺は顎に右手を当てて呟いた。


「そう。〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉だって吸血鬼だ。血液がなければ生きていけない。可能性は高いと思う」


 流石は先生だ。実に説得力のある視点と考察だと思った。これから先の妹の体調をしっかりとコントロールすれば、〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉を不完全なままでいさせられるかもしれない。

 問題の先送りでしかないけれど、十分意味のあることだった。


「だから、ナノカくんの血液摂取はシビアに見ていこう」


「はい。よろしくお願いします」


「と言うことで、早速飲んでもらおうか」


 え。と、仲良く兄妹揃って声を漏らした。


「あの、え……の、飲むんですか? 飲まないって話だったんじゃ……」


「そんなことは言ってないさ。シビアに、というだけだ。それに、これは〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉になってから初めての吸血になる。体調も良くなってきたみたいだし、ここらで血を飲んで安定させてあげたい」


「そ、そう言われてみれば、そうですね」


 妹が最後に血を吸ったのは、俺が吸血鬼になった時だ。まともな状態ではなかったけれど、回数には数えられるだろう。あれから三日経つ。ここらで血を飲んでおくのも必要か。


「それに、ハツカくんの吸血もさっさと済ませておこう。吸血鬼は成りたて、生まれたての時にちゃんと吸血をしていないと、過剰吸血衝動症候群ヴァンプオーバーシンドロームになりやすい」


 過剰吸血衝動症候群ヴァンプオーバーシンドローム。過剰なストレスや精神的、肉体的なショックを受けることで発症する吸血鬼特有の病気だ。これを発症すると常時血を吸っていないと正気を保てなくなる。そして血が飲めなくなると凶暴化し見境なく生物を襲いまくるようになる。治療法はなく、これにかかると鬼狩りだけでなく、危険因子として同胞の吸血鬼にも殺されてしまう。

 先生は席を立つと、キッチンの上に取り付けられている棚から銀色のパックを持ってきた。それは一度タカハシさんが見せてくれたことがある。国が売っている輸血パックだ。ご丁寧に飲み口がつけられていて、ウィダーとかいうゼリー製品に似ている。まさかこれを自分が使うことになるなんて思いもしなかった。少なからず緊張してしまう。けれど、あることを思い出した。片手を挙げる。


「あ、先生。俺もう吸血したことあります」


「おや? そうなのかい? どこの女の子を誑かしたのかな?」


 ゴリ、という骨が軋む嫌な音がした。突然の激痛に飛び上がる。反応した膝がテーブルの裏面にぶつかった。妹のかかとが俺の足の小指を踏みつけたのだ。不意の暴力に怒りの眼光で妹を睨むけれど、待っていたのはツノが生えそうな妹の顔だった。こんなに怒っているのはどれだけぶりか。俺の怒りなんてすぐに引っ込んで、あたふたした力ない釈明が口から出てくる。


「ち、違います! この前鬼狩りと闘った時に、偶然口の中に入っちゃったんですよ!」


 偶然というより、俺が篠原の右手首を咬みちぎったからなのだけれど、妹に聞かせたい話ではない。あのどろりとした口触りは初めての感覚で、よく覚えている。


「ふぅむ。そうなのか。飲んだ時どんなことを思ったかな? 美味しいとか、嬉しいとか、幸せとか」


 闘い、というキーワードに妹はすぐに鬼面を引っ込め、しゅんとなっている。それを見て先生が素早く話を進めた。俺もありがたくその気遣いに乗っかる。


「いえ、特に。飲もうと思って飲んだものでもないですし……」


「じゃあ、力が湧いたりとか、元気になったりとかはしなかったかい? 初めて生き血を飲むと強い幸福感が襲ってくるものなのだが」


「うーん、それもなかったです。必死だったからかもしれません」


 しまった。また闘いを連想させてるような話し方をしてしまった。妹の瞳は、俺の足の小指に攻撃した元気を削げ落としている。とても所在無さげで、華奢で小さな身体がさらに心許無くなってしまった。やっぱり相当の負い目を感じてしまっているらしい。いたたまれなくなって、話の途中だけれど妹に話しかける。


「ナノカ。あんまり気に病まないでくれ。お兄ちゃんが勝手にやったことだ」


「そうだよナノカくん。シスコンがシスコンたる所以を発揮しただけだ」


 敢えて茶化すように先生は言った。それに妹はくすりと笑ってくれた。膝の上のスケッチブックに一言書く。


「(ありがとう)」


「うん」


 ごめんなさいではなく、ありがとう。そう言ってくれたことがとても嬉しかった。


「よしよし。では君たちに飲んでもらう前に、大事な前置きだ」


「はい?」


「ナノカくんはハツカくんの血を飲んできた。兄妹でやるにはなかなか背徳感のある行為だが、それは脇に置いておこう」


 なら言うなと思ったけれど、大恩ある先生に暴言を吐くのは堪えた。隣の妹が凄く恥ずかしそうにしている。中学生の女の子が、兄とはいえ、異性に抱きつき首筋を噛むのだ。多少の照れや恥ずかしさを感じていてもおかしくない。


「一言で言うと、生き血というのは、とっても美味しいんだよ。逆に言うと、このパックの血はめちゃくちゃ不味い」


「そうなんですか?」


「あぁ。生き血は当然新鮮だし、血そのものが生きている。小魚の踊り食いに違いかもしれないね。しかし、パックは全然違う。採取してから数年経っているし、冷凍保存こそしているが多少腐っているものすらある。生き血とパックを飲み比べした知人が言っていた。パックの血は泥水にネズミのヨダレを混ぜて腐らせた後、雑巾につけたものだ、とね」


 とんでもなく不快、不愉快、不潔な喩えだった。仮にも飲食物を表現したものだとは思えない。俺と妹の頬が引き攣る。苦笑いにもなっていなかった。そんな物をこれから飲めと言われているのだ。

 パックを一旦テーブルの隅に置いた先生は、どこに隠していたのか、風呂桶を中央にどんと置いた。これは妹が吐いた時に使ったものだ。つまり、もしもの時はこれに吐けということだ。


「ハツカくんはともかく、ナノカくんは甘やかされて育っている。覚悟しとくべきだ」


 甘やかされて、というフレーズに妹の眉がピクリと動いた。む、と口を引き結び、躊躇など振り切ってパックを掴む。妙なところで負けず嫌いな妹の性格を知っている、先生の巧みな作戦だった。妹は飲み口のキャップを外すと、気前よく一息に飲み干す、前に吐いた。


「ぐぇ!?」


 可憐な少女が発したとは思えない酷い声だった。吐いてるし。


「わかっただろう?」


 先生は笑顔を作っていた。底意地悪そうに見える。

 妹はまだぺっぺと血を吐いている。コップの水を飲むと、一瞬迷った表情をして、なんとか胃に流し込んだ。うがいをしようか迷ったのだろう。


「ちなみにパックは栄養価も低い。下級吸血鬼がいつも顔色が悪かったり、弱っていたりするのはそのためだ」


 短く付け足して、俺に視線を向けてくる。


「さぁ。ハツカくんも飲むんだ。大丈夫。吐いたって私は怒らないよ」


 妹に先を越されておいて、兄が怖気付いている訳にはいかない。俺は自分を叱咤するために椅子から立つと、飲み口を噛んで、パックを握りつぶした。ぬめりとした液体が舌の上に乗る。なめこ汁を更にぬめらせたような舌触りだ。匂いもおかしいし、吸血鬼に必要不可欠な飲み物であるはずなのに、怖ろしく身体に悪そうな感じがする。けれど、隣で吐いてしまった妹に威厳を見せるため、必死に飲み進める。一口だけでギブアップすることはできない。猛烈な吐き気と戦いながら飲み干した。背中に脂汗をかいている。


「どうだい? 身体に何か変調はあるかい?」


「とりあえず、うがいをしたいです。あと味のさっぱりした飲み物も欲しいです」


「そう言うことじゃない。血を飲んだんだ。力が湧いてきたりしないのかい?」


「いえ……そんな感じは全く……」


 むしろ体力と気力が削られた気分だった。するとそのせいか、脈絡なく後頭部に熱を持ち始めた。


「う、わ……」


 熱はじわじわと脳全体に広がり、視界が赤くなる。


 違う。これじゃない。


 俺の中の誰かが、舌を伸ばして渇きを訴える。それは、本能というより異物に近い。俺ではない者が俺の脳を乗っ取っている。

 急に脚に力が入らなくなって、椅子に座ってしまった。椅子がなければ尻から落ちていただろう。


「ど、どうした? ハツカくん?」


 俺の様子がおかしくなったことに気づいた先生。妹も慌てて俺の背中をさする。吐きそうだと思っているのだ。

 けれど、俺は吐きたいわけではなかった。むしろ全く真逆、何かを飲みたいと思っていた。その何かは、俺自身が教えてくれる。


「お、おに……?」


 顔を上げると、妹が心配そうに俺をうかがっていた。柔らかそうな唇や、すっと通った鼻。きめ細やかな肌を舐めるように見る。そんな俺が妹の瞳に映り込んでいた。当てられた妹の手を背中で感じる。その部分が温かくなっていき、次第に胃を焦がすような温度へと上昇した。それを自覚した時、


「え、きゃっ!?」


 妹を押し倒していた。


「ハツカくんっ!?」


 先生の慌てふためいた声も俺には聞こえていなかった。鐘を打つような鼓動が止まらなくなり、俺の目は妹の首、頸動脈に釘付けになる。押し倒した際に掴んだ右手首でも構わない。とにかく、大きな血管がある場所、牙を突き刺せば極上の美味が溢れ出す部位。


「お、に……?」


 妹は怖がるとも焦るとも違う、訝しむような表情をしていた。今の俺は平常な状態で、何らかの理由ですべきことをしている。けれど、それが何だかわからないから、疑問を浮かべている、そんな感じだった。俺を信じきっていて、心を委ねている故の表情。それを見て、俺は。


 欲情に近い興奮を得ていた。


 自分の感覚にかつてないほど気色悪い寒気を感じながらも、身体は言うことを聞いてくれない。開いた口から牙がのぞき、唾液が床に落ちる。俺は妹に顔を近づけていく。そして。


「ぐぅ!!」


 床に頭突きをかましていた。


 何をやっている。早く寄越せ。言うことを聞け。


 誰かがそう言って脅してくる。

 声を振り払うために再び頭を床に打ち付ける。声が聞こえなくなるまで、何度も何度も、額から血が出ても止めない。それほどのことをしないと、声が消えなかった。


「ちょっ、ちょっと!? 何をやってるんだ!!」


 背後から先生が俺を羽交い締めにした。妹から引き剥がされる。俺は安心しつつも、落胆していた。好機を失ったと、歯ぎしりをしていた。


「本当にどうしたと言うんだ!?」


 俺の背中には先生の豊かな胸が押し当てられている。今度は先生に対して叫び出したいほどの渇きを感じた。理性は鳥肌を立てていたけれど、本能は歓喜している。血が、健康な血がそばにある。

 妹や敬愛する先生にこんな感情を抱いたことが、物凄く気持ち悪い。自分の感情なのに、自分とは別人のもののようだった。


「ぶっ!」


「おいおい……!?」


 俺は俺の頬を殴った。まだ足りない。衝撃を逃がさないよう左手で首を固定して、本気で殴る。これはかなり効いた。


「やめて!? なんでなんで!?」


 とうとう異変を感じた妹が声を出して俺の手に身体ごとしがみついてくる。非力な妹など問題にならない。けれど、妹の「やめて」という声を聞いた途端、急に俺の中の誰かが溶けていくように消えた。


「あ……。えっと……」


 口や額から血を垂らしながらも、俺は止まった。俺の身体から強張りが消えたことで、先生も力を緩める。


「ちょっと待ってくれ……流石の私も混乱している」


「す、すいません……」


「何が何だかわからないが、今はもう大丈夫なんだね?」


「はい……。たぶん」


「たぶんかぁ」


 先生がひとまずは俺から離れた。中腰の姿勢で俺の脇に手を差し込み、立ち上がらせられた。


「……?」


 信じられないという顔つきで妹が俺の方頬に手を添える。赤く腫れた箇所に妹の冷たい手が気持ちよかった。けれど、この程度の傷はすぐに治る。風船がしぼむように腫れは引いていった。


「えーっと。聞きたいことがありすぎてまとまらないな。だから、ハツカくん。君から何か言いたいことないかい? もしくは、伝えておきたいと思えるようなこと、重要なこと」


 ふらつく俺は、頬にある妹の手にすがった。両手で包んで、目を瞑る。そして自分の心と向き合った。

 この手は、俺にとってどんな存在だ?




 ♢

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