三章

第19話



 ♢




 俺は三百回目の腕立て伏せを終了した。顎を伝った汗が床に落ちる。エアコンを二十八度に設定された部屋は、少し運動すれば汗びっしょりになる。直前に腹筋と背筋とスクワットも三百回ずつこなしていることも要因だ。


「……」


「ふぅ」


 床に置いていたTシャツを拾った。かなり初期段階で脱ぎ捨てたため、汗に濡れてはいない。ただ、俺自身が汗だくのまま着るのには抵抗がある。


「ナノカ。タオルとってくれないか」


 できればシャワーでさっぱりしたいところだ。けれど、居候しているお宅でそんな勝手なことはできない。俺の面の皮はそこまで厚くない。


「……ナノカ?」


 ベッドの上に放っていたタオルが手渡されない。背中や腹を流れる汗がジャージの半ズボンに染み込んでしまう。怪訝な気持ちで振り返ると、そこには目を薄くして俺を睨む妹がいた。


「(きもい)」


 胸に前に構えたスケッチブックには辛辣な一言が書かれていた。


「え、きもいって、なんで?」


 予想だにしなかった罵倒に狼狽える。妹が俺に文句を言うことはよくあるけれど、ここまで攻撃的かつ侮辱的な表現をされるのは珍しい。

 妹はページをめくり、また書き記していく。一ページに一言なんてもったいない使い方をする。あとで注意しようと思いつつ、どんな理由が飛び出してくるのか戦々恐々とする。


「(女の子のへやでいきなりきんトレするな ぬぐな きもい)」


 思っていたより大雑把な理由に戸惑った。


「いや、またいつ闘いになるかわからないんだから、身体を鍛えるのは当然だろ? それに汗をかいたら服を脱ぎたくなるじゃないか」


 俺が筋トレをしているのも、服を脱いでいるのも、ちゃんとした理由がある。そんな酷いことを言わないで欲しい。

 群青の半袖ジャージの上下を着た妹。俺も妹も、兄妹揃ってジャージというダサい服装だ。とは言いつつ、我が家の部屋着は所詮こんなものだ。実は先生が妹にお洒落なトップスやスカートを着させようとしていたけれど、妹は断固として着ようとしなかった。


 太ももまでシーツをかけ、ベッドに座っている妹。シーツに隠れた膝あたりにタオルがあった。手を伸ばせば容易に届く距離にあるというのに、俺に渡してくれるつもりはないらしい。


「(女の子のへや! ここじゅうよう!)」


 ビックリマークが使われたのは初めてだった。何やら譲れないポイントみたいだ。けれど、そんなことを言われても困る。


「だって、残ってるのはダイニングと先生の寝室だけだ。先生の寝室に勝手に入るわけにはいかないだろ」


 ここは喫茶ホリの二階だ。一階がお店で、二階が住居。けれど、ここは先生がお一人で暮らしていたため、部屋数はあまりない。二階にあるのはトイレと風呂、二つの部屋とダイニングキッチン。二つの部屋はそれぞれ先生と、こうしてナノカが使っている。ならどちらかを選ぶとなればナノカの部屋になるのは当然だ。


「(そとですればいいやん)」


「いや、いつ何時何が起こるかわからないんだ。ナノカのそばにいたい」


「っ!」


 ナノカが困ったようにうっとうめく。あとこの炎天下の中、屋外で運動するのは危ない。吸血鬼となった今、弱点ではないとは言え、日光を不用意に浴びるべきではない。俺がその辺りのことをこんこんと説明する。けれど、まだナノカは納得できないらしい。むすっとした顔でぶすくれている。ただ、手はしっかり動いており、素早く文字を書いていく。


「(おにいちゃんのはだかなんかみたくないの)」


「別に見せてるわけじゃない」


 かきかき。


「(おにいちゃんはうちのはだかみたらうれしいかもしれんけど うちはうれしくないの!)」


「いや、意味わからん。別に全然嬉しくないぞ。て言うより、興味のあるなし以前に多分視界に入っても気づかない。どうでも良すぎて」


 無意識と言っても良いほどスラスラと口から出てきた。何年あの狭いアパートで二人暮らししてると思ってるんだ。俺にとってはあまりに瑣末な問題、いや、問題ですらない。



 俺が篠原と闘ってから二日が経っていた。妹は少しずつ精神を落ち着かせてきていて、こうして日常会話ができるようになった。まだ食事は不安定で、ゼリーのようなものしか食べれていないけれど、着実に復調している。


 コミュニケイトできるようになったことは本当に嬉しい。妹も筆談に慣れてきたようで、実に素早く文章を書いてみせる。ちょっと文字が雑なのは気になるけれど、そこまで口やかましくは言うまい。

 妹はいま、餅のように頬を膨らませている。可愛いけれど、こういう表情をした後は、ご機嫌を取るのが面倒だ。


「おーい。お昼にしよう。て、なんで裸なんだい?」


 すると、焦げ茶色のエプロン姿の先生がやって来た。時刻は午後一時。確かに昼食時だけれど、お店は混む時間のはず。店長兼唯一の店員の先生が下を離れて良いのだろうか。


「あぁ。なんかクーラーの調子が悪くてね。暑いから今日はもうお終いなんだ」


 俺の視線に気がついた先生が苦笑いした。喫茶ホリは先生が趣味で開いているため、利益は完全度外視している。不定休というより、不定営業と言った方が良いだろう。それでも、コーヒーの美味さと先生の美しさに魅せられた固定客は多い。けれどそのせいで、古本を読みに来ているお客さんは残念ながらほとんどいなかった。せっかくの古本はお店のインテリアになってしまっている。


「そんなことよりハツカくん。年頃の女の子の前で裸になるのは感心しないな」


「え」


「(ほら!)」


 ナノカが我が意を得たりとスケッチブックを振り回す。


「君の場合は特にだ。全く。そうやって何人の婦女子を無責任に撃墜してきたんだい?」


「何を言ってるのかわからないんですが……」


 俺が裸になることで女子が撃墜される? 関連性がまるで見えてこない。撃墜という言葉が何を表現しているのかもわからないし、困ってしまう。それに、妹がタオルを渡してくれないから、汗まみれのままだ。これでは服を着られない。

 視界の隅では、何やら言いたいことがあるらしい妹が必死にペンを走らせている。なかなか文字にするのが難しいらしく、眉間に可愛らしくシワを寄せてペンを噛む。妹の考えを感じ取ったのか、先生がため息混じりにこう言う。


「君はね、外見が凄く整っているんだよ。ナノカくんの兄なのだから当然だろう? そんな君が、美しく引き締まった上半身を晒していては、女の子が色めき立ってしまうだろう」


「そうなんですか?」


 知らなかった。別にどこかれ構わず脱ぎまくるような性癖はない。けれど、体育の後とかはそういう状況になることもあった。そんな時周りにいた女子たちが何かを思ったりしていたらしい。

 正直、中学の時は今よりも生活がカツカツで、周りに目を向けている暇などなかった。中学生を雇ってくれる場所は少なかったし、お給料だってすずめの涙だった。妹の中学の学費を稼ぐことだけを考えて生活していたと言っていい。


 けれど、そんな当時の俺の気遣いの無さで周りに迷惑をかけていたのか。それは素直に申し訳ないと思う。それに、よく考えたら異性の裸に何の反応も示さないのもおかしいだろう。


「ごめんナノカ。そういうことを考えてなかった」


 妹も思春期である。兄の裸を見たら嫌な気になってしまうのも頷ける。


「(べつにええけど)」


 なんだか物凄く長い文章を三本線で消して、その下に小さく一言付け足されている。それほどは怒っていないようで安心した。


 少しは機嫌を直してくれたらしい妹の手を取って、立ち上がらせた。ぎゅっと手を握り合って、離す。そしてダイニングへと三人で向かう。

 先生の作る料理は美味しい。お店のメニューはコーヒー数種がメインだけれど、軽食もある。サンドイッチとかワッフルとか。どれも本を読みながら食べれて、なおかつ本を汚さない品だ。それらを全て先生お一人で作っている。もちろんその他の家庭料理も美味い。俺や妹は先生に料理を教わることで、今日まで食い繋いできた。


「ナポリタンなのだが、ナノカくん、食べれるかい?」


 いい加減ちゃんとした食事をしないと体が保たない。妹もそれを自覚しているようで、素直にこくりと頷いてみせた。ダイニングに入ると、赤をこれでもかと自慢するナポリタンが用意されていた。


「さて。食事をしながら、いくつかの懸案事項を確認しよう」


 先生に向かい合う形で、俺と妹が隣同士に座る。先生のフォークがくるくると回り、ナポリタンを巻き取っていく。


「ハツカくんが吸血鬼になったことで、ナノカくんに血液を供給できる人間がいなくなった。そして必然的に、ハツカくんにも血が必要になるね」


 俺たち吸血鬼の栄養源、人間の血液。それがどうしても必要になってしまったのだ。


「ここでいくつかおさらいをしておこうか。まずは吸血鬼の成り立ちからね。一言で言うと、吸血鬼は人間とはまるで違う進化系統から生まれた生物だ」


 先生のナポリタンが美味しい。ついそちらに気をとられそうになるが、意識して先生と目を合わせる。


「かつては、吸血鬼は人間の血液のみを栄養源としていた。だが、今ほど【ブラッド】が強力でなかった時代だ。人間に返り討ちにされることも少なくなかった。そこで当時の吸血鬼たちは、自らを人間に似せ、擬態しコミュニティに紛れることで吸血行為を行うようになった」


 これは吸血鬼歴史学と吸血鬼生態学の講義のようなものだ。どちらも専門学校か大学でないと学べない。非常に高度な知識だと言える。そのため、ほとんどの一般人が知らない知識だ。


「しかしだ。吸血鬼は姿形を人間に似せたため、血液以外からも栄養を摂取できるようになった。今君たちがナポリタンを食べているようにね。これは革新的な進化で、一気に吸血鬼の数が増えた要因だ。野菜や肉や魚から栄養摂取をすることで、必要な血液量が減ったんだ。一説では、最古の吸血鬼と比べると、現代の吸血鬼が必要な血液量は、十分の一以下になったとも言われている」


 そうなのだ。実際、ひと月の必要量二百ミリリットルというのはかなり少ない。コップ一杯にも満たない量で、生命活動を維持できるのだ。

 吸血鬼は、毎月二百ミリリットルの血液さえあれば死ぬことはない。ただ、それは最低量なので、足りない栄養は人間と同じく普通の食事によって補う。

 つまりは、普通の食事だけでは生きられないけれど、二百ミリリットルの血液があれば何とかなる。逆に、どんなにお腹いっぱい食事をしても、血液が飲めなければ死んでしまう。


「もちろん、吸血鬼の力の源は血液だから、強くなるためには血をたくさん飲むしかない。これが〈爵位級アッパー〉と下級吸血鬼の力の差が拡大していくことに繋がっている最大の要因だ。〈爵位級アッパー〉は好き勝手に人を襲い強くなれるが、下級吸血鬼はそんなことできないからね」


 吸血鬼の成り立ちから、現代の吸血鬼の状況までを非常に掻い摘んで語ってくれた。


「以上を踏まえた上で、私はある仮説を立てた。これが当たっているならば、ナノカくんの〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉の力を抑えられるかもしれない」


「え!?」


 先生が言った。それは、俺にとっては閉じ込められた部屋に扉が開いたような感覚だった。けれど、途轍もなく真面目な話をしているのに、妹の関心はナポリタンのみに向いているようだった。ケチャップソースを口の端につけながら、方頬を抑えて実に幸せそうだった。




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