第18話




 ♢




 喫茶ホリまでの道を、カバンを胸に抱えて歩いていた。これが俺の生きる意味だと思えたから、誰にも奪われないように。どこにも落とさないように。

 雨と血と海水でベタベタする身体は、アスファルトを這いずっているような感覚だ。走れば十分もかからない道だけれど、どうしてか永遠に歩かされている気がした。


 けれどまぁ、実際にそんなことは起こるはずもなく、俺は喫茶ホリの扉の前に辿り着いた。closeの看板が雨に濡れてくたびれている。

 重たい扉を、大して力も入れずに開いた。ふわりとしたコーヒー豆の香りが鼻をくすぐる。


 帰ってくるまでの時間、様々なことを考えた。考えたけれど、それが綺麗な終着点に行き着くことはなかった。こんな宙ぶらりんの状態で、妹にどんな顔をして会えばいいのかわからない。わからないからこそ、会うしかないと思えた。

 一階は電気を落としているから暗い。厨房の方から微かな光が漏れている。俺にはそれが、天使の羽にも悪魔の鎌にも見えた。


 俺は、ただいま帰りましたと言った。数年ぶりの「ただいま」な気がして目頭が熱くなる。血と腐臭のする別世界から帰ってこれたのだと、目が眩むほど安心した。

 先生の出迎えはない。眠ってしまったのかもしれない。ただ、よく考えるとどれだけの時間が経過したのかわからなかった。殺し合いというものは、時間の感覚を消し去るのだ。


 まずは先生に一言声をかけるべきだろう。それで何があったのかをきちんと話して、服も着替えなくてはならない。優先順位はわかりやすく並んでいる。けれど、俺の足は妹の眠る部屋へと向いた。濡れた靴下がペタペタと足跡をつくる。扉の前に立って、ドアノブに手をかけようとした。


「うぉっ!?」


 その時、中から勢いよく扉が開いた。軽い衝撃が胸にぶつかって身体が揺れる。

 俺の妹だった。


「ナノカ……いきなり扉開けたら……」


 そう言いかけて、昔同じような経験をしたことを思い出した。あの時の妹は、俺に何て言っただろうか。


「……足音で、俺だとわかったのか?」


 俺の胸に顔を擦り付ける妹は、首をぶんぶん縦に振る。背中に回された腕が小刻みに震えていた。精一杯俺に抱き付いてきているけれど、その力はとても弱々しかった。


「ナノカ。とりあえず部屋に入ろう。それにほら。服が汚れちゃうぞ」


 すると、今度は横に首を振られた。絶対に離れまいともっと腕に力を込める。俺は笑いともため息とも取れない呼吸が漏れてしまった。


「しかたないな」


 俺は持っていたカバンを左肘にかけ、少ししゃがむと、妹の膝裏に手を差し入れた。逆の手は背中にそえて、ぐっと抱き上げる。


「わっ!」


 いきなり抱え上げられた妹が驚いた声を出す。怖かったのかすぐに首にしがみついてきた。妹の足が壁にぶつからないように斜めになりながら部屋へと入る。

 部屋では、先生がベッドにもたれるようにしなだれかかって眠っていた。ずっと妹のそばにいてくれたのだろう。肩にシーツがかけられている。


「ほら、椅子に座って。お兄ちゃんは逃げたりしないから」


 そう言ったけれど、妹は無言でスケッチブックの置かれた棚を指差した。そこまで運べということか。妹は軽いから、別に苦労はない。棚の近くまで行くと、妹はスケッチブックを取り、何やら書き始めた。そして、むすっとした顔で俺の鼻先に突きつけてくる。


「(うそつき)」


「嘘じゃないよ」


「(さっきでていった)」


「あれは……その、ごめん。もうあんなことしないよ」


 困った。まだ怒っているみたいだ。怒る元気があるのは良いことだと言ったけれど、ずっと怒ったままなのは困る。


「まぁ、とにかく下ろすぞ。ほら」


 妹は脚をバタつかせて抵抗したけれど、無視してベッドの端に座らせた。この行為もお気に召さなかったようで、キッと睨んでくる。けれどその瞬間、妹がはっとなって息を呑んだ。手にしていたスケッチブックが床に落ちる。俺の格好が今どんな状態かやっと気がついたのだ。


「おに……!?」


「大丈夫。もう治った」


 こんなことを言われても、安心なんてできないだろう。妹は泣きそうな顔で俺の身体をペタペタ触る。安心させるため、あえて気が済むまでやらせた。もうどこにも傷はないし、妹もそれは理解したようだ。


「う、ぐすっ……うぅ……」


 けれど、すぐに泣き始めた。俺の胸に顔を埋め、服を噛むことで泣き声を抑える。いじらしい様に歯ぎしりした。けれど、俺はこの現実を受け入れると決めていた。


「ナノカ。聞いて」


 妹は泣きながら頷く。シャツにシワがよる。


「昨日の鬼狩りの弟子と闘ったんだ。俺が勝ったから大丈夫。もうそいつは襲ってこないよ」


 もう、襲ってこない。


「弟子が言ったんだ。師匠は人々のために命を張って闘っていたって。殺されていい人間じゃないって」


 妹の肩が跳ねる。脈拍がおかしいくらい早くなったのが伝わってきた。


「俺はその通りだと思ったよ。でも、俺は二人とも殺したよ。殺したんだ。二人を殺さないと俺が殺されたし、ナノカがもっと酷い目に遭うかもしれなかったから。もう俺は、誰かのヒーローや、正義の味方を殺さないと、生きていけないんだ。敵や悪い人なんかじゃなく、普通の人や何の罪もない人の幸せを奪い取っていくしかないんだ。そういう人生にレールがすげ替えられちゃってる」


 自分の口から出たはずなのに、その言葉は俺の中の何かを容赦なく抉り取っていた。頭で割り切れていると思っていたことに、まだ心がついてきていないと知った。けれど、俺にはもっと強い思いがある。


「俺は弱っちくて、殺すつもりで闘わないとすぐ殺される。だから俺はこれからたくさんの人を殺すよ。でもな。でもな、ナノカ。ナノカは違うんだ。ナノカは世界で一番強い吸血鬼だから、誰も殺さなくて済む方法を見つけられるかもしれない。それって凄くないか? ナノカだけが、人も吸血鬼も傷つけない生き方を選べるんだ。ナノカは、俺とは全然違うレールを歩いていけるんだよ」


 目も鼻頭も頬も真っ赤にした妹が、顔をあげた。乾いた唇が揺れる。


「や……やだ。お兄ちゃん。行かないで……。うちを、置いていかないで!」


 俺と妹は違う。力も生まれも立場も、価値すら別次元のものだ。

 俺の口ぶりから、妹は俺が離れてしまうと思ったのだろう。捨てられまいとする子猫のように恐怖し、呼吸を荒げるほど怯える。


「置いていったりしない」


 だから、すぐに安心させてあげられるよう力強くそう言った。


「これを見て。ほら。大丈夫だから手を離して。俺はナノカにこれを見て欲しくて、アパートに取りに帰ったんだ」


 それでもすがりついてくる妹の小さな握りこぶしを包んで、持ってきたアルバムを握らせた。卒業アルバムなんかとは全然違う、安っぽくて薄っぺらい材質のアルバムはしかし、はち切れんばかりにまで膨れ上がっていた。


「二年前に先生にもらった一眼レフで、毎日のように色んな写真を撮ってきただろ。俺たちだけじゃない。部屋の様子だったり、外の風景だったり、先生や、タカハシさんたちも」


 毎日毎日、写真を撮り続けてきた。容量がいっぱいになると、すぐカメラ屋さんに行って、印刷してきた。貧乏な俺たち兄妹だったけれど、そこにだけはお金を惜しまなかった。


 朝食の献立。二つの歯ブラシが並ぶ洗面台。使い古された調理道具。ガタつく窓。狭くて暑くて寒い部屋。

 俺たちの母校。海辺。中区のショッピングモール。空にかかった虹。雨に濡れた花。喫茶ホリのアイスコーヒー。

 タカハシさん。笑っているリョウコさん。転んでしまったリョウタくん。カウンターで本を読む先生。他にも、喫茶ホリにきてくれたお客さん達。

 全てが日常のどこにでもある、何でもなくて、どうでも良いほど当たり前の写真だった。撮ること自体が無意味なくらいの写真がいくつもあった。けれど、その全てを俺たちは写真に残してきた。


 写真の向こうの妹は笑っている。アイスを食べたり、先生と話をしたり、料理を作ったりしている。

 写真に写った妹は怒っている。何故怒っているのかはわからないけれど、とにかくムッとしていたり、こちらを睨んでいたり、時にはレンズを手で隠していたりしている。

 他にも、悲しそうな顔をしていたり、嬉しそうな顔をしていたり、妹の感情が全て写真になって残っていた。


 それは、俺たちがこの二年間積み上げて、集めて、大事に大切に守ってきた幸せたちだった。お金にもならない、名前もついていない。かけがえのないなんてことのない、いつでも取り替えのきくもの。そんな幸せが、何冊ものアルバムいっぱいに詰め込まれていた。


「この二年間だけじゃない。辛いことも嫌なこともあったけど、でも幸せだっただろ。楽しかっただろ。少なくとも俺はそうだったよ。ナノカはそうじゃないのか?」


 泣きながら食い入るようにアルバムを見つめる妹は、激しく首を横に振る。


「だから俺はさ。ナノカと一緒に過ごしてきた幸せだけで、この先ずっと生きていける。どんなに怖いことに巻き込まれても、どんなに醜い世界を見せられても、この思い出がある限り、絶対に大丈夫だ。思い詰めることはあっても、壊れそうになることはあっても、この日々は絶対に忘れない」


 さっきは少し落ち込んでしまったけれど、もう大丈夫だ。俺は、とっくに幸せになっているのだから。幸せを忘れてなんかしていない。大切なものは全て、ちゃんと俺の中に残ってる。


「俺は大丈夫だから、全部お兄ちゃんに任せておけ。怖いことも辛いことも、全部全部お兄ちゃんがまとめて引き受けてやる。だからナノカは、考えてくれ。誰でも良い。困っている人を救えるような力の使い方を。世界で一番強い吸血鬼の力を、優しい使い道ができる方法を探してくれ。多くの人を救うことなんて考えなくて良い。少しの人を、手に届く人を救ってあげて欲しい」


 そのために、これからも生きてくれ。これからもずっと、幸せでいてくれ。


 俺はそう言って、ナノカの手を握った。今度は、ちゃんと伝えられたと思う。

 俺の言うことを静かに聞いていた妹は、よろよろとスケッチブックを拾いあげた。少し俯いていてどんな表情をしているか見えない。キュキュ、と短い一言が書かれたことがわかった。


「(いや)」


 見せてくれた返答は、残念なものだった。けれど、俺は諦めたりなんかしない。そう思って口を開きかけた時、妹は再びスケッチブックに何かを書き始めた。それは少し長い文章の気持ちだった。


「(おにいちゃんも いっしょがいい おにいちゃんもいっしょにしあわせになってくれないと いや)」


 俺はその文章を見て、自失したようになってしまった。


「(いっしょにがんばろ? ふたりでいっしょに)」


「…………あぁ。そう、だな。そうだよな……!」


 溢れる涙を隠すため、俺は妹をきつく抱きしめた。

 そうだった。そうだよ。そうなんだよ。妹が俺を置き去りにするはずなんてない。妹が俺の幸せを願わないはずなんて、ない。


「ごめんな。お兄ちゃんが悪かった。そうだよな。一緒に頑張らないと、意味ないよな」


 妹が小さく頷いたのがわかった。ちゃんと瞳を見つめるため、一度肩に手を置いて距離をとった。すると、妹が笑ってくれた。

 その笑顔は、俺が見たくてたまらなかったものだった。もう一度強く強く、妹を抱きしめた。今度は俺の方が、妹にしがみつかずにはいられなかった。そんな俺の背中を、妹が優しく撫でてくれる。


 時間が過ぎるのを忘れて、俺は泣いた。


 アルバムの中の俺たちが、カメラに向かって微笑んでいた。



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