第17話
♢
今日も疲れた。仕事を始めて二ヶ月。俺はまだ、朝から晩まで肉体を酷使する土木作業に慣れられない。アパートの古い手すりにもたれかかるようにして階段をのぼる。俺たちの部屋は階段をのぼってすぐそこだ。狭いけれど角部屋だから窓が二つある。
「おかえり! お兄ちゃん!」
「うぉ!?」
階段をのぼりきった時、いきなり玄関扉が開き、妹が飛び出してきた。夜八時だというのにまだ制服を着ている。
「な、ナノカ!? 無闇に玄関開けたらダメだろ!? 不審者かもしれないんだぞ!」
「足音でお兄ちゃんやってわかったもん」
「だからって……」
「もー! そんなんええやん。早よご飯食べよ!」
俺の話なんか聞かない妹に腕をぐいと引っ張られ、つんのめりながら部屋に入った。開け放った二つの窓から涼しい風が通ってきている。そして、狭いダイニングにまで連れていかれる。そこには、こじんまりとしたちゃぶ台の上に、温かい夕食が用意されていた。
「ほら、手洗って。あ、それとも先にお風呂入る?」
「……いや、食べるよ」
二人分の食事。妹も俺の帰りを待って、まだ食べていないらしい。
おひたしに玉子焼き、野菜炒めと味噌汁。タンパク質の少ない料理が並ぶ。けれど、そんな光景がどうしようもなく愛おしかった。
「いただきます!」
「いただきます」
料理は全部熱を持っていて、俺の帰りに合わせて作ってくれたのがわかる。胡椒と醤油で味付けただけの野菜炒めが美味い。
「また野菜が高くなっとってね、キャベツなんか三百七十円!」
「〈銀華〉は輸送に手間がかかるからなぁ。野菜や肉は値段が上がりやすいんだよ」
「もぅ、うちらの味方はもやしだけやね」
豆腐と油揚げの味噌汁をすする。
「学校はどうだ? なんか良いことあったか?」
「え? うーん……。別に」
妹が忙しなく瞬きを繰り返す。本人には教えていないけれど、これは嘘をついている時の癖だった。
「なんかあったんだな」
「うわ! でたお兄ちゃんのエスパー!」
「それで、なにがあったんだ? 嫌なことか?」
「嫌なこと……やないけど。その、な」
妹は茶碗を置いて、言いにくそうに左右に揺れ始める。俺は玉子焼きを箸で掴んで口に持っていこうとして、次の妹の言葉でぽとりと落とした。
「三年生に、告白された」
ひゅっと風が窓から入ってきた。妹は初めのうちは俺から目線を外していたけれど、俺の胸、顎、鼻と通って最終的に目を見てきた。大きな瞳が上目遣いで俺を見つめる。
「お兄ちゃん?」
「あ。あ、いや。そ、そうか。良かったじゃないか。カッコいい人なのか?」
「まぁまぁ、かな。なんか人気のある人って友達が言うてたし」
「ふむ」
妹は中学一年生。相手は三年生だと言う。よくもまぁ入学して二ヶ月も経たない女の子に告白なんてできたものだ。俺自身はそういった話がよくわからなくて、学生時代は周りの話に付いていけなかった。だから妹の件も別に珍しくもないのかもしれないけれど。
俺はすこぶる落ち着いていた。あれ、落ちた玉子焼きを箸で上手に拾えない。
「どうしたら良えかな?」
妹のすがるような、反応をうかがうような視線が何故か痛い。頭の中で様々な考えが巡り巡って、最終的な答えにたどり着いた。
「お断りしなさい」
威厳のある声で言えたと思う。
「ナノカは中学一年生だ。そういうのはまだ早い。そうだな、せめて高校生になってからだ」
「……うん! わかった!」
玉子焼きを飲み込んでから話すと、元気の良い返事が返ってきた。見ると妹は嬉しそうに笑っている。
「米粒ついてるぞ。お馬鹿さんみたいだからやめなさい」
妹の口元についた米粒を指摘した。すると妹は一瞬なにかに迷うような表情をし、すぐに指で取った。
「お馬鹿さんってなんやの……」
そこからはお互い黙々と食事する。この成り行きに深い意味はないけれど、なんとなく気まずかった。普段の妹は何かにつけて俺にかまってくるため、部屋の中でこういう状況は珍しい。
「あ! そうや!」
すると妹は思いついたように手を叩いた。
「お兄ちゃん、これね、今日ホリ先生にもらったんよ」
「うん?」
「ほら!」
「あ、それかぁ。えー。かなり高価なやつだろ。そんなの貰えないよ」
「うちもそう言うたけど、先生はもう使わないからって」
貰ったと言うそれは、先生の私物だ。かなり昔に買ったものらしく、少しばかり古い物になってしまっているけれど、だからこそ価値が高い。それに、まだまだ十分使用可能だ。タカハシさんとはこんな高価な物を物々交換したことはない。先生のご厚意と言えど、ちょっと受け取りづらいものだった。
「でもなでもな。これあったら楽しいよきっと!」
「楽しい?」
「うん! だってーー
♢
♢
「死ねシネ死ねシネ死ねシネ死ねシネ死ねシネ死ねシネ死ねシネ死ねシネ死ねシネ、死ね!!!!」
振り上げられた剣が狙うのは、俺の脳天。四度目の正直。
左腕は斬り落とされた。左脇腹には深傷を負い、全身は傷だらけ。〈十字銀〉は回復力だけでなく、吸血鬼の生命力すら奪う。普通ならなんともない小さな傷も、蓄積されれば大きなダメージとなる。俺の身体は粘土のように鈍重となっていた。
身体はとっくに壊れている。どんなに気力を振り絞っても、もうほとんど動かせない。
篠原の赤い瞳は復讐の業火に炎えている。俺を殺した後は、また別の吸血鬼を襲うのだろう。篠原の実力ならば、下級吸血鬼は紙人形のように千切り捨てられていく。
だが。
「ンなっ!?」
俺は右手を振り払った。〈十字銀〉で貫かれた左脇腹は出血しない。だが、皮膚が脆くなった傷口に指を突き入れ血液と内臓を掴んでいた。体温より熱い赤を、篠原の目に向かって撒き散らした。
血肉の目潰しに篠原が束の間だけ鈍る。この時、俺に向かって剣を振り下ろしていた右手首がガラ空きになる。
「らぁ!!」
俺の牙が篠原の手首に突き刺さる。躊躇いの一切ない咬みつき攻撃だった。人間の咬合力は約七十キロ。【
ギチチュン! という人生史上最悪の噛みごたえで、篠原の手首を咬み千切った。喉に生温い液体が流れ込む。
「くぅ! このぉ!! 卑怯な!!」
「卑怯、上等だ!」
命がかかってるんだ。手段を選んでなどいられない。持ち手を失った剣は落ち、俺はそれを即座に遠くへ蹴り飛ばす。海に落としたかったが、海際のコンクリートの上で止まった。右手首から大量に出血しながらも、篠原が左拳を武器に襲いかかってくる。俺はその顔面に、篠原の手首を投げた。二度目の目潰し。篠原は傷ついた右腕で払いのける。だが、その動作だと必ず一瞬視界がふさがる。
篠原が俺を探す。俺は篠原の頭上に飛んでいた。
さきほど篠原にやられたように、下に潜り込めれば一番良かった。だが、片腕のない俺の武器は脚だ。
【
まだ手は緩めない。バウンドした篠原の足脚を踏み潰した。
「があ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!」
想像を絶する激痛の中でも、篠原はまだ意識を保っていた。それどころか、片脚で起き上がり、俺に向かって左腕を振るう。
「〈
そして新たな武器を生み出してみせる。適応率を超える発動も一顧だにせず、即席の青白い短剣を突き刺ささんとしてくる。
だが、俺はそれと正面切って闘うつもりなどなかった。ひらりと横にかわし、道を開ける。その向こうはコンクリートの端。暗く荒れ狂う太平洋。
停止することなどできず、篠原は海に落ちていく。だが、篠原は落ち際に振り向き、俺の顔面めがけて短剣を投擲してきた。勝手に勝負が着いた気になっていた俺は、予想外の動きに回避が遅れる。だが、短剣が刺さったのは右肩だった。篠原は空中で上手く身体を制御できなかったのだ。
篠原が海に没するまでの一瞬、目と目が合った。その目には無念さも敗北感もなく、噛み付くような敵意だけがあった。篠原は敗北、いや、死がほぼ決定的になったこの一秒間も、俺を殺すことだけを考えている。
その時俺は理解した。篠原が海に落ちたのは俺の罠に引っかかったためではない。瀕死の重傷を負い勝利が絶望的な状況の中、最後の手段として、自らの命すら武器にした。海に落ち行くことで俺の油断を誘い、背後から短剣で射抜くつもりだったのだ。
海面へと背中から落ちた篠原は、それ以降浮かび上がってくることはなかった。
俺はしばらく海面を見下ろしていたけれど、ふっと緊張の糸が切れた。深く深く二酸化炭素を吐く。尻をコンクリートに落として片腕で膝を抱えた。荒波と風の音に打たれながら、心臓の鼓動が静かになっていき、脳が冷えていくのを待つ。
「それは身体を休めるため? それとも懺悔するため?」
背後からテン・シナリスが言った。前触れのない突然の出来事で少し驚いたけれど、すぐに得心した。ずっとどこからか監視していたのだ。闘いが終わってすぐに出てきたのは、善意か悪意か。
それでも俺は、誰かの声が聞けたことに安心し、驚くほど素直に返事をしてしまった。
「どちらかは決められない。たぶん……」
俺は闘いが終わっても篠原の赤い瞳に怯えていた。会ったこともなかった他人からあれ程までの憎悪を向けられたことが、怖くて仕方なかった。
「いや、上手く言葉にできない……」
どんな理由があろうとも、殺しを正当化しようとは思わない。けれど、自分は間違っていなかったのだと思わなければ、この胸の罪悪感と虚無感に堪えられそうにない。山田も篠原も、決して悪ではなかった。彼らには彼らの正義があり、護りたいものがあった。俺はその全てを奪ったのだ。理屈のない重みが、遅効性の猛毒のように全身を蝕んでいく。
「ま、良っか。じきに慣れるよ。あとこれ」
テン・シナリスが俺の隣に置いたのは、傘と妹の手縫いのカバンだった。わざわざ持ってきてくれたらしい。感謝すべきか迷ったけれど、何も言わないことにした。そして、テン・シナリスは篠原が使っていたスネークブレードを拾う。
「この〈十字銀〉は僕が預かるよ。あと、あの鬼狩りの生死は確認しなくて良いの?」
「……あの傷で荒海に落ちたんだ。絶対死んでる」
本気でそう思っている。けれどその裏側で、俺が殺したという結果を知りたくないだけだった。俺が殺したのではなく、俺に傷を負わされた篠原が溺死した、と思いたかった。
「ふーん、わかった。君がそう望むなら、僕も余計なことはしないさ。回復するまで休んでると良いさ」
生真面目そうに言うと、テン・シナリスは音もなく消えた。初めからそこにいなかったかのようだと思った。
失った左腕が徐々に再生されていくの感じる。見てみると、切断された傷口から青い蛍火が放たれている。蛍火はゆっくりと螺旋に回転しながら腕の形になっていき、気がつくとすでに元通りになっていた。幻想的だけれど、不思議と陰鬱な気分になる光景だった。
「あ……」
全身の傷も蛍火に包まれながら癒されていく。俺は埠頭の先で大きな青い蛍になっていた。
身体が癒えていくのを感じながら、俺は自分自身を強く強く抱き締めていた。そうしないとバラバラになってしまいそうで。自分自身を失くしてしまいそうで。
篠原の叫びが耳元でこだまする。
「やめてくれ……! 父さんを、お母さんを、妹を……殺さないでくれぇ!!」
やめてくれ。
「オマエなんかに殺されていい人ではないんだ!!」
知ってる!
「どうしてオマエラは俺の大切なの人を奪う!?」
そうするしかなかったんだ!
そうするしか、なかった。それは間違っていない。けれど、必要はあったのか? 俺が生き延びる必要は、本当にあったのか?
落ち着こうとしていた鼓動が、また激しくなってきた。その時、海風がカバンを横倒しにした。中からアルバムがこぼれた。
「あ……」
そして、二年前に先生からいただいた、デジタル一眼レフが姿を見せた。
「そうか……俺はこれを」
これを、妹に届けたかったから、生きたかったんだ。
♢
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます