第16話



 ♢



 太平洋へ長く突き出した細い埠頭で、俺たちは命の取り合いを続けていた。俺の身体は中小さまざまな傷が生まれては消え、消えては生まれを繰り返していた。傷痕が完治することはなく、全て青紫色に変色し、俺の身体は腐った茄子のようになり始めている。

 雨足は陰りを見せていたが、風はどんどん強くなる。埠頭に押し寄せる波は激しさを増し、コンクリートに打ち付けた波は見上げるほどの高さにまで上がっていた。俺たちは頭上からの波飛沫を受けながら攻防を続ける。


 だが、押されているのは俺の方だ。青年の剣技の冴えは秒毎に鋭くなっていき、剣の嵐は攻防一体。攻め込む隙を見つけられないまま、俺だけが傷を増やしていく。

 一際高い波飛沫が空に上った。上昇力は次第に衰え、そして地上に向けて落ちてくる。滝のような海水が俺たちに降りかかった。


「っ!?」


 海水の一雫が俺の右眼に入り込んできた。突然半分の視界が奪われる。青年がいなくなった。咄嗟に右を警戒したが、そこにはいない。青年は俺の視線をかいくぐり、地を這うような低姿勢を取っていた。長い脚が俺の両足首の間に差し込まれる。完璧な足払いだ。バランスを崩した俺は背後に倒れ、両手をつく。

 回復した右眼で見上げると、赫い切っ先が暗雲を指していた。青年は素早く立ち上がり、俺のマウントを取っている。この不十分な体勢だと、横に転がって避けることもできない。完全に詰みだった。


 剣は俺の額を狙っている。頭蓋ごと脳を破壊するつもりらしい。それは十分可能だ。強化された鬼狩りと〈十字銀〉は、鉄ですら紙のように両断する。一秒をさらに分割した時間の中、俺の頭蓋骨では脳を守り切れないという結論に達した。指や肘でガードしようかと思ったが、それも同じことだ。どちらにせよ硬さが到底足りない。

 硬さというキーワードから、ある記憶が呼び起こされた。正直思い出したくはない記憶だったが、そこから導き出される賭けがある。振り下ろされる剣が近づいてくる中、俺は勝負に出た。


 空気を震わす振動。剣は俺の額の寸前で停止している。青年も同様だった。後半戦で初めて生まれた隙。畳まれた俺の両脚が解放され、靴裏が青年の両肩に激突した。青年は剣だけは離さなかったが、後ろ向きに吹っ飛ぶ。コンクリートのギリギリのところで受け身を取り、海へ没することは回避する。

 青年は俺の左腕を見て、忌々しげに舌打ちした。


「……危ねぇ」


 左腕をさする。だが、そこに肌の感触はなく、ザラついた氷のような硬さがあった。

 俺の右腕は、赤い鎧を纏っている。これは、〈境界〉を引いた俺の血液だ。テン・シナリスが俺の前に現れた時、あいつは自分の血を硬化して錐のような武器を作っていた。〈境界〉が血を操る能力ならば、血を凝固硬化させれば防具になると考えたのだ。初めての試みだったが、上手く成功してくれた。


 だが、硬化した血でも、〈十字銀〉の剣を完全に防ぐことはできなかった。最初に攻撃を防いだ側の血の盾は斬られ、左腕は切断され、後に残るのは反対側の血の盾のみとなっている。反射的に腕全体を巻いて盾としたことが功を奏した。片側だけだったならば、凶刃は容易く俺の額にまで到達していただろう。

 だが、代償は大きい。腕は凝固した血液のおかげでひっついてはいるが、実質切断されている。〈十字銀〉で斬られたから、しばらくは回復しない。片腕を失ったのは文字通り痛手だった。


 ここからいかにして巻き返しを図るかを必死に思案していた時、


「ぐあ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!!!」


 いきなり青年が頭を抱えて絶叫を始めた。コンクリートの上を七転八倒しながら苦しんでいる。あまりの意味のわからなさに、俺は口を開いて立ち尽くす。そしてすぐにそんな場合ではないと考え直す。好機であるのは間違いない。倒すなら今だ!

 だが、青年の唇から漏れた言葉に、動き出す足が止まった。


「やめてくれ……! 父さんを、お母さんを、妹を……殺さないでくれぇ!!」


 うずくまってのたうちまわる青年は、また過去を視ているのか。


「なんでだ……今日は妹の、麗子の誕生日なんだ! どうして、どうして家族が殺されなくちゃならないんだ!! あぁ! あぁ!! みんな殺されていく! うちだけじゃない、隣の川崎さんも! 八人も!!!!」


 青年の悲鳴が波の音を上回る。倍加した俺の思考は、叫ばれた単語全てを一気に繋ぎ合わせ、導き出した。山田を師匠と呼ぶ。家族が殺されている。両親と妹が殺され、隣の「川崎家」も襲われている。そしてその被害者は「八人」。


「岐阜八人、殺害事件……!?」


 四年前に起こった凄惨な殺人事件。下級吸血鬼によって「川崎家」一家全員が殺され、「篠原家」が長男一人を残して三人が殺された。

 長男? 一人残して?


「篠原……龍之介か!?」


「わ"あ"あ"あ"あ"!!!!」


 家族の名前を喚き続ける青年を見て、確信した。彼は篠原龍之介だ。この血塗られた出会いが、偶然だとは思わない。俺と篠原がお互いに山田と関わっていた時点で、こういう未来が起き得る可能性はあった。俺が山田について調べ、岐阜八人殺害事件に行き着くのも、山田の死を調べた篠原が俺に行き着くのも必然だ。


「どうしてだ……!!」


 篠原は、剣を支えにして立ち上がる。身体は不安定に揺れていた。


「どうしてオマエラは俺の大切な人を奪う!?」


 篠原の壮絶な人生と言葉は、俺の心に深い傷を作った。


「殺す必要なんかなかった! 血が飲めればそれで良かったんだろう!? たった二百ミリリットル! それさえあればオマエラは生きていけるだろう!?」


 その通りだ。俺たち吸血鬼は、二百ミリリットルで生きていける。人間一人が一回献血をすれば摂れる量があれば、生きていくことに支障はない。


「俺は妹にプレゼントを渡すために二階にいた! その時にオマエラはやってきて、家族を殺した! 嗤いながら!! 助けてと叫ぶ妹の首を噛みちぎった!!」


 篠原はもう、岐阜八人殺害事件の犯人と、他の下級吸血鬼との区別がつかなくなっている。それは狂っているとかではなく、もうそうすることでしか己の憎しみに堪えられないのだ。

 溜まりに溜まった憎悪が決壊し、際限なく溢れていく。それを止めるには、下級吸血鬼全てを殺さないとダメなのだ。


「コロス!! オマエラは皆殺しだ!!」


 俺は悲鳴をあげる精神の痛みを、必死に押し殺していた。岐阜八人殺害事件の犯人だって、最初は被害者だった。被害者が加害者になり、その被害者がまた加害者になる。人を襲う吸血鬼を山田が狩り、妹を襲う山田を俺が殺した。そして、弟子である篠原が俺を殺そうとしている。

 一片の救いもない連鎖だった。いつどこで始まったのかわからない憎しみの螺旋が、永遠に途切れることなく紡がれていく。どこまで行っても赦しなどなく、誰一人として幸せになどなれはしない。これを痛みだと思わずにどうすれば良いのか。


 そして何より。何より苦しいのは、その連鎖の中に妹が飲み込まれたこと。

 俺と妹はもうすでに、抜け出せない血色のウロボロスの一部だった。


「……どうしてと問われると、生きるためだと答えるしかない」


 篠原の慟哭に俺は答えていた。俺の言葉は、篠原の逆鱗を逆なでするだろう。


「だから、俺は山田を殺したことを後悔はしない。そうするしかなかった。殺さないと、妹が殺されていたから」


 後悔などはしない。俺はきっとこれからも、襲いくる奴らを殺すのだろう。そしていつかは。


「この先ずっと、俺は誰かを殺し続ける。いつか誰かに殺されるその日まで」


 殺されるつもりなど毛頭ない。俺はいつまでも、妹の幸せを探し続ける。だがきっと、いや、必ず。俺は誰かに殺されるのだろう。そういう螺旋に立っているのだから。


「だが、今日あなたに殺されるつもりはない。俺だって譲れない」


 俺の声は、篠原に届いているのだろうか? 風や波の音に掻き消されそうなほど小さな声だった。残酷な未来これからを強く語れるほどの覚悟はまだなかった。


「うぅぅ!! ああ"ぁあ"あ"!!」


 篠原の剣が、再び形を変え始める。ファルシオンの腹にぼこぼこと穴が開いていき、それが七つ連なった。


「ギギッ!? ギギィ!!」


 剣が哭く。穴だと思っていたものは、ギョロリと動く眼球だった。気色の悪い七つの眼球が、それぞれ好き勝手に周囲を見回している。

 〈十字銀〉の適応率は、使えば使うほど向上していく。全ての鬼狩りが、努力と経験によって適応率六十%ほどまでは到達できる。だが、それ以上は生まれ持った才能の世界。適応率七十%を超える〈銀羅〉は選ばれた者だけの神域である。


 篠原は俺と闘うことで経験を蓄積し、爆発的に適応率を高めている。剣の形状が変化しているのはそのためだ。

 そして一部の研究者は適応率向上の要因の中に、吸血鬼を殺すことが含まれていると言う。それは〈十字銀〉が吸血鬼を憎んでいるからだとか、吸血鬼の駆逐が鬼狩りの精神を練磨するとか、様々な憶測が飛び交っている。


 だが、もしそうだとするならば、俺はその憶測に一つ、感情の起伏というものを付け加えるべきだと思う。鬼狩りが持つ激しい憎悪や、殺意、悪意が〈十字銀〉に流れ込み、成長を促進させる。


「コロス」


「こぉス!」


「コロつ!」


「ころ、ころころ」


「ごろ」


「ろス」


「殺す!!」


 眼球が蠢く。七つの視線が俺を射抜いている。その不気味で薄気味悪い光景に、俺の戦意が萎えそうになる。平静を取り戻すために、俺は左腕を殴打した。痛みに涙が出るが、気力が回復する。

 俯いた姿勢で揺らめく篠原を観察する。正直、体術や剣術、ありとあらゆる武芸において、俺は篠原より劣っていた。唯一優っているのは、【零からの逆襲ロストエンカウンター】の効果だけ。思考速度と身体能力で何とか立ち回っていたに過ぎない。


 ここから展開される篠原の攻撃は、どれも高威力だと予想される。一撃でも受ければ致命傷、浅くとも重傷は免れないだろう。そんな中、篠原の攻撃を利用して傷を作ることで、【零からの逆襲ロストエンカウンター】の効果を強化することはできない。自分で傷をつけるという手がないでもないが、戦いの最中に行うにはリスクが高過ぎる。

 つまり、俺は今のままの戦力で、篠原に勝たないといけない。ならばどうするか? 俺には何ができる?


「うぉ!?」


 考えが纏まらないうちに篠原が突進してきた。右手に持った剣を左脇後方に下げ、居合いのような構えだ。剣の間合いに入るまであと数歩。そこで篠原が、存在しない鯉口を切る。刃渡り五十センチだったはずの一閃が、俺の喉仏に迫る。篠原の剣は数倍にまで伸長していた。間合いの外から放たれた完全な奇襲は回避を許さない。

 俺は左腕で長大な居合いを受け止める。盾としてしか使えなくなった左腕が、豆腐のように容易く斬り落とされる。だが一瞬の減速は俺が横回転する時間を生み出してくれた。


つぅっ!!」


 左上腕がなくなった。例によって傷口からの出血はなく、【零からの逆襲ロストエンカウンター】の底上げにはならない。

 それにしても、剣の切れ味が格段に増している。先程よりも分厚い血液の鎧を作っていたのに、一切の意味を成さなかった。


 篠原の剣をもっと観察する。剣の腹にある眼球の部分が剣と剣を繋ぐ数珠の役割を果たし、しなる鞭状の剣へと変化させていた。それはファルシオンではなく、スネークブレードだった。

 進化した武器は伸縮自在。厄介なことに、紙一重でかわしたとしても追撃してくる。


 剣が遠距離から襲いくる。殺傷能力抜群の大蛇はコンクリートを削り、俺の前身に巻きつこうと暴れまわる。袈裟斬りに剣が振り払われた。半身になって回避し、篠原の懐へと疾走する。剣が伸び切ったタイミングで接近戦に持ち込むこと。これが俺に残された勝ち筋だ。だが。


 腹部に熱を感じた。視線を下げれば、俺の左脇腹から大蛇の頭が飛び出している。腹部の三分の一まで入り込んだ剣。振り返って見ると、剣がコンクリートにぶつかることでUターンし、俺を背後から貫いていた。血を吐きながら、腹を抑えて膝をつく。


「さぁ、シネ」


 剣を戻した篠原が、悠々と近づいてくる。蛇腹の眼球たちが嬉しそうに動き回っていた。


「死ねシネ死ねシネ死ねシネ死ねシネ死ねシネ死ねシネ死ねシネ死ねシネ死ねシネ、死ね!!!!」


 振り上げられた剣が狙うのは、俺の脳天。四度目の正直。




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