第14話




 ♢



 妹のこめかみに流れる汗を、冷やしたタオルで拭う。室温はクーラーで過ごしやすいよう保たれているというのに、妹の寝汗は止まらない。どれだけ辛い夢を見ればこんな目に遭うのか。そして、どうして妹がこんな目に遭わなくてはならないのか。妹にこれほど凄絶な不幸を背負わせた神を心から憎悪した。

 妹の左手が俺の右手を握りしめた。もちろん妹の意思ではなく、悪夢に苦しむせいだった。うなされながら、強く強く俺の手を握っていた。


「ん……あ、ぁ……」


「大丈夫だ。ここにいるよ」


 俺は何の意味も為さない言葉を、妹にかけた。静かに目を覚ました妹が、不安に涙を溜めた瞳で周囲を見回したからだ。妹と目が合う。妹は俺を見つけた時、いつもならもっと嬉しそうな顔をする。けれど、今は妹の表情が晴れることはなかった。ふ、と目を逸らすと、眉根を寄せて目元に影を落とした。


「……」


「気分はどうだ? 何か食べるか?」


 残酷な質問だと、自分でも思う。自殺に踏み切って失敗した後に「気分はどうだ」などと聞かれて嬉しいわけがない。妹が失望してもおかしくないような一言だった。さらには、妹には喋ることを禁じている。声を出せない相手に会話を試みるなど、責め苦以外のなにものでもない。けれど俺は、妹が目覚めた時には最初にこの質問をすると決めていた。そして、妹が俺に返事をする手段も用意している。


「ほら」


 妹にスケッチブックとボールペンを差し出す。スケッチブックはたまたま先生が持っていたものをいただいた。長方形を二等辺三角形に区切って、それぞれを緑と黄色に塗った淡白な表紙だ。表紙をめくり、真っ白なページを開く。

 けれど、それが受け取られることはなかった。いつまでも差し出されたままのスケッチブック。このままだと一生同じポーズをし続けることになるから、妹の胸元に置いた。薄い胸だから、それはほとんど水平に保たれる。


 静謐な時間だけが経過していく。妹の瞳に精気はなく、スケッチブックを見るともなしに見ている。けれど、俺は辛抱強く妹のアクションを待った。すると、妹は何かに気がついたように口を動かすと、意思伝達手段を手に取った。酷く悲しい顔をしていたけれど、すらすらと文字を書いていく。そして、それを俺に見せつけてきた。


「(シニタイ)」


 別に驚かなかった。おそらくこう来るだろうなと予想した通りだった。漢字でもひらがなでもなく、カタカナで書いたのは、文字を書く気力すら萎えているという意思表示だろう。


「駄目だ。死にたいなんて言っちゃ駄目だ」


 俺はあえて平坦な言葉を返した。ご機嫌いかがですかと聞かれて、はい元気ですと答えるような、教科書そのまんまの返事だ。

 また沈黙が生まれた。しばらくして妹はもう一度ペンを取る。さらりと書いた一言を、俺に見せてくる。


「(シニタイ)」


 同じだった。一文目はスケッチブックのど真ん中に大きく書かれており、二文目はそれの下に小さめに書いてきた。

 俺は首を横に振る。内心では、妹が本気で死にたいなどと言っていることに焼け爛れるような痛みを感じていた。けれど、必死に平然とした面持ちを作った。諭すでも叱るでもなく、ただただ、駄目なことを駄目だと伝えるにとどめた。


 そんな俺の態度に、妹は唾を呑み込む。そしてペンを走らせる。


「(しにたいの)」


 今度は縦書きで、ひらがなだった。俺はベッドの隣にある棚からボールペンを取り、「しにたいの」という一文を二本線で上書きした。す、す、という音がした。

 俺の行動に迷いはない。妹は少し眉をひそめた。そして、懲りずに同じ文を書き連ねる。


「(しにたいしにたいしにたい)」


 一瞬ゲシュタルト崩壊を起こしそうになったけれど、その文章も二本線で消した。若干斜め横に書かれた文章も、しっかりと消してしまう。


「たぶん」


 ムキになったように次の一文を書こうとする妹に、そろそろと語りかけてみる。


「ナノカが死にたいって思ってるのは、たぶん真実なんだと思う。気の迷いとか突発的なものじゃなくて、本気で人生が嫌になっちゃったんだろうな。辛くて苦しくて、心が折れちゃうくらいの痛みを味わったんだと思う。そしてそれはきっと、この先永遠に洗い流せなくて、どこに逃げてもへばりついてくるものなんだと思う。それがわかってるから、ナノカも死ぬって選択肢を望んだんだ」


 俺は思っていることを精一杯伝えるため、意識してシンプルな口調と言葉で語っていく。変に抑揚をつけたり、ジェスチャーをしたりしない。妹の目を真っ直ぐに見つめて、ちゃんと伝えていく。


「これからもっと辛いことがたくさんあるよ。今以上に死にたいって思う日々が続くんじゃないかな。もう、ごく普通の生活なんてできっこないと思う。誰かが死んだり、殺されたり、地獄の果てみたいな出来事を何度も目にすると思う。そして目にするだけじゃなくて、俺たちが被害者にも、加害者にもなるんだ」


 けれど。いや、だからこそ。


「それでもさ、生きていこうよ。血と内臓でできた壁を、一つずつ乗り越えていこう。死体の河に胸まで浸かって、汚辱の針を身体中に刺して、前に歩いていこう。壁の向こうに、河の先に、一億分の一の確率でしか存在しない幸せを、探して生きていこうよ。俺たちにはそれくらいのことしかできないんだ。二人で、俺とナノカで、生きていこう」


 必死にならないように必死になりながら、今言えることを全て言った。上手に伝えられたとは思わないし、本当はもっと伝えたいことが、俺にも見えていないことがあると思う。それでも、どんなになっても変わらない願いがある。


「俺は、ナノカと生きたいと思うよ。ナノカとだから、生きていきたい。ナノカがいるから、そう思えるよ」


 これで俺の話は終わりだ。そう締め括って、俺は席を立った。俺の言葉が、妹にどこまで届いたのかはわからない。妹の心臓に触れれるほど近くに行けた気もするし、月と地球くらいかけ離れた場所にいた気もする。そしてそれはきっと、どちらも真実なのだろう。相手の気持ちを理解するなんて不可能だし、理解しようとする行為は虚しいんだと思う。だから、俺には伝えることしかできない。それも、もう終わった。


「先生が時々見に来てくれるから、大人しくしてろよ。お兄ちゃんはちょっと出てくるから」


 ここから先は、妹に考えてもらうしかない。だから一人きりにする。もしかしたら、また自殺に及ぶかもしれない。ナイフを手に取るかもしれない。けれど、〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉である妹は死ぬことはできない。妹がどんなに死を望もうとも絶対に死ねないという、残酷な安心感があった。


「ぇ……あ」


 妹は何か言おうとしたけれど、それは背中で受け止めた。同時に、スケッチブックとボールペンが俺の背中にぶつけられた。俺の態度は、妹からしてみれば冷たいものに映ったのだろう。けれど、怒るという感情を見つけてくれただけでも、話をした意味があったと思う。

 二つの会話手段を拾って、棚の上に置いた。俺が本気でいなくなろうとしていることに、妹が気づいた。心細さに震える妹を置いて部屋から出る。


 閉じた扉に背を預けて息を吐いた。これで良かったなんてはずはない。それがわかっているから、また戻ってこようと思う。





 ♢


 ♢





 またアパートにテン・シナリスがいるかと身構えていたけれど、部屋にはいなかった。あれから姿を見ていない。目の届くところにいて欲しい気持ちと、二度と顔を合わせたくない気持ちが半々だ。あいつのおかげか、緊張感を保つことはできているけれど、これが一生続くかもしれないと思うと胃もたれしてくる。

 アパートは特に変わった点はなかった。築三十年にふさわしいボロさと狭さ。ただ一つ変化を挙げるとするならば、テン・シナリスが使った食器がきちんと洗われていたことだ。俺が洗った記憶はないから、あいつが洗ったのだろう。意外と律儀なところがある。だからと言って印象が好転することなんて有り得ないけれど。


「ふぅ。こんなものかな」


 アパートに戻ってきたのは、またいくつか荷物を取りにくるためだ。部屋の隅の本棚から引っ張り出してきた分厚いアルバムを、しっかりとカバンに詰め込む。外は雨が降っているから、ビニール袋に入れることも忘れない。最近のスーパーはビニール袋すら料金を取るため、我が家はエコバッグ派だ。そのせいでちょうど良い雨避けがなくて困った。貧乏というのは、こういう些細でどうでも良いようなところに発現するらしい。必要最低限のものはあるのだけれど、こういう緊急事態に使える小物がなかったりする。

 カバンはそこそこの重さになってしまった。青い花柄のこのカバンは、妹が家庭科の授業で作ったものだ。ちょっと不器用な妹が作ったから、持ち手のところが歪んでいたり、縫い付けが甘かったりする。どうしても上手に縫えないと泣きつかれたことを思い出した。


 今になって思えば、何でもかんでも俺が手伝い過ぎた。妹の好きにやらせることが多かったけれど、結局帳尻合わせをするのは俺だった気がする。だから、さっきのような大きな決断を投げっぱなしにしたのは初めてだ。いつも相談に乗ってきたし、俺のできるアドバイスをしてきた。


「そろそろ兄ばなれの時期なのかな」


 こういう時よくあるのが、実は兄が妹ばなれできていないというパターンだ。そして俺もその例に漏れないだろう。妹が俺の手を離れていくのは寂しいし、不安だ。恐怖と言い換えても良いかもしれない。いつか、妹のそばにいてやれなくなる日が来るのだろうか。それは妹が兄ばなれを望むからか、それとも、俺がそばにいられなくなるからか。どちらにせよ、今の状況を鑑みて想像をすると、マイナスなことしか浮かんでこない。

 バックを肩にかけて立ち上がった。頭を小さく横に振る。きっと将来を考えることは意味がない。〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉という俺と妹の身に余る事態に巻き込まれている。これからのことを予想なんてできないのだ。


 だから、妹と共に生きていきたいという希望だけを信じて、歩いていこう。それしかないのだから。

 もしかしたら二度と帰ってこないかもしれない我が家を出た。ホームシックになるのはもうしばらく先だろう。雨足は勢いを増し、跳ねる水滴がズボンの裾を濡らす。喫茶ホリの制服のスラックスは夏用で、沁みてくる水が少し冷たかった。


 海沿いの道を進む。海が荒れてきたらしく、時折波しぶきが俺の半身に飛びかかる。海ぎわまでは五メートル近く離れて歩いているのだけれど、大自然には五メートルなんて意味がないみたいだ。暗い海の向こうを見やる。底が見えない深海の中に、地球よりも大きな怪物が潜んでいる気がした。


 服が濡れているという理由とは違う寒気が、背筋を震わせた。そして、


「……」


 腹部に熱を感じた。じわじわと広がっていく熱さを不審に思い、確認する。

 俺の腹から、金属が生えていた。身体の感覚を探っていると、金属が背中から突き入れられ、腹を抜けている。ワイシャツの前を斬り裂く金属は、俺の血で濡れていた。


「あ、がっ!? はぁぁ!?」


 激痛が腹部を中心に爆発し、唇から血が溢れた。ヒューヒューという空っ風のような呼吸音が耳に響く。


「皆殺しだ」


 背後から怨憎滴る歯ぎしりが聞こえてきた。




 ♢

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