第13話
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無し、無し、無し。赤、無し、無し、赤。
男は視界によぎる色を数えていた。吸血鬼研究の本場である〈銀華〉は、実は多くの吸血鬼が暮らしている。実験台に使われるとか、監視用とかではない。単純に労働力として、吸血鬼はこの人工島を選んでいた。〈銀華〉は〈十字銀〉の採掘現場として造られたが、当時は圧倒的に労働力が足りなかった。採掘作業は危険の伴う体力労働だ。多種多彩な業種が選び放題の現代で、これを選択する人間は少ない。必然的に、職にあぶれやすい吸血鬼が集まってくることになった。その名残は今も色濃く、採掘現場である西地区や、加工などを行う工業地帯の北地区に吸血鬼が多く暮らす。今も、すれ違う者の五人に一人は吸血鬼だった。
男は北地区のとある場所に向かっていた。履きくたびれたスニーカーの底をすり減らしながら走っている。中区の空港からモノレールまで転がるように走り、モノレールを降りてからも走り続けていた。脱水症状になりそうなほど汗をかいていたが、それでも足を止めることはしない。男は焦りを超えた恐怖で身体を支配されていた。
倉庫や工場が立ち並ぶ海沿いの地区にたどり着いた。道の向こうには大量の野次馬が集まり、報道がその様子をカメラに映している。光に集まる羽虫のようだと男は唾を吐いた。人混みはそこだけ蒸し暑さを跳ね上げている。
普段の男なら、こんな場所には寄り付かない。他人の不幸やプライバシーに恥ずかしげもなく踏み込んでくる輩など、見ているだけで気分が悪い。だが、男はそこに向かわざるを得なかった。どうしても確認しなければならないことがあるからだ。
「ご覧下さい。私の後ろにはすり鉢状の巨大な窪みがあります。深さは三メートル、直径は十メートルほどでしょうか。さらにその奥では、工場や倉庫が倒壊しており、暴風に吹き飛ばされたような壊れ方で、昨晩ここで一体何が…………」
カメラに向かって喋るスーツの女。身振り手振りで現場の状況を伝えている。だが、一部はブルーシートで囲われ、中が見えないようにされている。男は立ち入り禁止のテープを下からくぐった。
「あ、ちょっと!」
「……」
制止にきた警官に、右手をかざす。手の中には、免許証ほどのカードが入っていた。
「や、失礼しました」
カードに記された顔写真と名前、そして男の顔を確認して、警官は敬礼した。警官の目には、男を哀れむような色があった。男はそれに気づいていたが、振り切るように無視した。
ブルーシートを少しだけ上げ、中に入った。まず目に入ってきたのは、腐臭を漂わせるいくつかの肉片だった。ほとんどが元が何だったのかすらわからないが、一つだけ、人間の手首が綺麗に残っていた。
「死体は四つだ。痕がほとんど残ってないから、もうちょっと調べる必要があるがな」
男の背後から、眼鏡をかけた小太りの中年が話しかけた。二人には親子ほどの外見の差があった。
「三つは吸血鬼。一つは人間だ。んで、何でホトケさんがこんななっちまってんのかと言うと、ほれ」
中年が奥を指差す。そこには、白い打棒が転がっていた。十数人の警官が捜査をしている中、それだけが時間が止まったかのように放置されていた。
「あれは〈十字銀〉だ。今のところ、吸血鬼三人に襲われた鬼狩りが、最後の抵抗で自爆したってのが妥当な線だな」
普通の鬼狩りは、自身の〈十字銀〉の適応率を超える〈
「鬼狩りは、自爆行為を良しとしない」
男は絞り出すような声で呟く。中年警官との会話というより、自らに言い聞かせているかのようだった。
「自爆行為は、残った証拠を消し去り、後後の調査を遅延させる。師匠はいつもそう言っていた」
「あんたを呼んだのは、確認のためだ」
中年は興味無さげにそれだけ言うと、別の警官のところへ行ってしまった。
男は安心を取り戻したくて、同じ言葉を何度も呟く。師匠が教授してくれた鬼狩りの理念を確認することで、あの〈十字銀〉の持ち主が、見ず知らずの誰かであると思い込む。気高い鬼狩りであった師匠が、己の理念を曲げるはずなどない。そう信じて、放置された打棒を手に取った。
「あ……!」
遠くからでも見覚えがあった武器を、間近で確認して理解した。
「師匠……!!」
この白い武器は、かつて十字架だったものの残骸。男が師と仰いだ鬼狩り、山田一志のものだった。男の絶叫が夏空に爆発した。巨大な積乱雲が近づいてきていた。
♢
♢
気がつくと男は、人気のない埠頭の端に立っていた。時計を確認してみたが、何故か壊れていた。どれだけ時間が経っているのかわからない。記憶がない。事件現場からはそう離れてはいないようだ。
だが、そんなことはもうどうでも良かった。男の脳内は感情を一つだけを残して、その他は全て削ぎ落とされている。
また、失った。家族を失うのはこれで二度目。次こそは絶対に守り抜いてみせると生きてきたが、それは無残に塵となった。 これで本当に、男の近しい人間はこの世からいなくなってしまった。
虚無のような喪失感が男を襲う。心にぼこりと空いた大穴が、呼吸をするたびに微風の音を鳴らす。
「ハハハハハハハハハハ!!」
男の脳内で、ご機嫌な笑声が響いた。目の前にあるのは、腹を踏み抜かれた父親と、顔面を潰された母親。そして、喉笛を咬みちぎられた妹の姿だった。血の海となったリビングで、吸血鬼が一人笑っている。家族の血で真っ赤に染まりながら、吸血鬼は心から楽しそうに笑い、さらに妹の喉を舐る。
毎夜夢に見る光景が、とうとう目を覚ましている時にも見えるようになった。そしてリビングの隅には、男の師である山田が座っていた。山田がどんな最期を迎えたのかがわからないが、無傷なままの姿だった。
男は心身ともに疲れ果てていた。全てを無くし、亡くし、失くし、この世の中に留まるべき理由が見つからない。悍ましい笑い声すら受け入れてしまいそうになった。だが、
「殺せ」
記憶の中の父親がこちらに顔を向けて言った。
「殺せ。殺せ」
母親の首が曲がり、口だった穴から呪念がわきだす。
「奴らを殺せ」
妹が血の涙を流していた。そして、
「私の代わりに、奴らを殺せ!!」
山田が叫んだ。四人は止まることなく殺せと叫ぶ。四人の憎悪と屈辱がタールのような温度で男に流れ込んでくる。
「……そうだ」
男は立ち上がった。その表情には地獄の怨霊が宿っていた。
「殺すんだ。吸血鬼を、奴らを殺すんだ。俺から全てを奪った奴らを、皆殺しに!!」
空にかかった暗雲が、冷たい雨を落とし始める。雨足は勢いを増していき、男の視界を鈍らせていく。だが、男にはしっかりと見えていた。この世界から駆逐すべき赤。男が憎む赤が、薄暗い光景に際立っている。
男は灰色のパーカーのフードを目深に被った。雨に濡れた前髪が目にかかって邪魔だったからだ。そして、右手を前にかざす。
「
すると、手の中に鈍色の西洋剣が出現した。刃渡り約六十センチ。〈十字銀〉によって生み出された、男の唯一の武器だった。剣の切っ先をアスファルトに引きずりながら、男は進む。まずは人の多い場所に行く。吸血鬼は人に紛れている。紛れていれば自分たちが吸血鬼だとバレないと思っているからだ。
だが、そんなもの男には関係ない。何故なら、男には見えているから。醜く光る赤い羽が、男には見えているのだ。
「そうだ。まずはあそこだ……」
事件現場へと足が向かう。あそこには人が集まっていた。数人の吸血鬼がいたことも確認済みだ。
だが、神は男に微笑んだ。何と、こんな天気の中海辺を歩いている者がいたのだ。しかも、そいつは赤い羽を生やしている。汚れた作業服を着た吸血鬼が、疲れ切った表情で道を急いでいた。男がいる埠頭から三十メートルほど向こうの海辺。男は駆け出す。西洋剣を握る右手が歓喜に震えた。
「ぅおい!!」
「え」
吸血鬼は、視界の悪さで男の接近に気づいていなかった。その横面に西洋剣を振り下ろす。
剣は吸血鬼の左肩を深く斬り裂いた。血が一気に噴射するが、それもすぐ雨に溶けていく。
「な、え、は!?」
何が起こっているのか、吸血鬼は理解できていない。愚かな声を出しながら尻餅をついた。
男は剣を逆手に持ち替え、吸血鬼の顔面に突き刺した。剣の切っ先が、眉間、鼻、唇を両断しながら、進み、後頭部を突き抜ける。吸血鬼の背後に脳漿混じりの鮮血が飛び散る。吸血鬼は一瞬男と目を合わせたが、最後まで自分の状況を理解できないまま絶命した。
男は剣を引き抜く。血と肉を引き連れてきたが、雨に当てて洗う。この吸血鬼は下級だったらしく、脳を破壊されただけで死んだ。脆弱だった。吸血鬼を殺した達成感よりも、こんな生物に家族を奪われた怒りが煮えくり立つ。
もっと、もっと。全ての吸血鬼を殺さなくてはならない。
男は再び駆け出す。前から傘を差した親子連れが歩いてきていた。しかし、羽はない。舌打ちしてすれ違う。男の狂気を表情から感じ取った親子は、傘を放り出して脇に逃げた。
現場までの道のり、すれ違うのは羽のない者だけ。その全員が男を見て道を開けた。後ずさり転げる者もいた。現場が見えてきた。そしてすぐに赤い羽を見つけた。四対の羽が野次馬に混ざって蠢いている。
男は剣を大上段に振りかぶりながら野次馬の群れに突進する。男を最初に見つけたのは、唯一現場に背中を向けてレポートしている報道記者だった。小さな悲鳴をあげた後、男を指差す。だが、報道のプロだと言うのに、それ以外の行動ができない。不審に思ったカメラマンが振り返って、男を発見。声を裏返らせて叫ぶ。
「逃げろぉ!!」
叫び声に反応した野次馬が男を視認し、弾かれたように逃げ出す。だが、それぞれが別の方向へ逃げようとするため、中にいる者は身動きが取れない。そして、赤い羽の生えた四人は、野次馬たちの中央にいた。混乱する人々に押されてただただ恐怖に頬を引攣らせている。
男は空に飛んだ。数十人の野次馬を全て飛び越え、中心、吸血鬼の顔面に片足で着地する。衝撃で吸血鬼の頸椎が折れ曲がり停止。男は吸血鬼の顔面を足場に再び跳躍。位置エネルギーを使って吸血鬼の頭から股間までを一気に切断。二つに割れた吸血鬼が血と内臓をぶちまける。
男はこれで満足などしない。素早く半転し、逃げようとする別の吸血鬼の前に回り込んだ。
「死ね」
剣を水平に振り切った。吸血鬼の右腕が、胴が、左腕が切断され、血を撒き散らす。こいつも下級だった。だが、下級でもこの程度の傷なら再生する可能性がある。返す剣で下半身から離れた左肩、肺、心臓、右脇を斬り裂く。溢れた内臓が雨にあたって湯気をあげる。
「な、何をしているっ!?」
「おい!!」
だが、ここで邪魔が入った。騒ぎに気づいた警官たちが飛び出してきたのだ。〈銀華〉の警官は常時発砲許可を得ている。銃で撃たれるのは流石に不味い。
男は背後に銃声を聞きながら、現場から離れた。あの一瞬で殺せたのは二人。半分も逃してしまった。そいつらは後で必ず殺すと心に誓い、次の吸血鬼を探して走る。
もっと人のいる場所に行くべきだった。そしてそれは即ち、行政の中心である中区のことだ。男は中区までの道のりを頭に描く。追っ手がかかるだろうから、できるだけ早く、見つからないようにモノレールに乗る必要がある。
男は先程の海岸線を目指した。少しだけ遠回りにはなるが、こちらの方が安全だと判断したのだ。すると、前方に少年を見つけた。
その少年は、羽が生えていた。羽があるのは吸血鬼の証。だが、その羽の色は初めて見る色だった。
今までの吸血鬼は、全て赤だった。奴らは血に飢えた化け物だから赤なのだと思っていた。だが、少年の羽は、闇のような黒だった。薄暗い夜の中でも目立つほどの黒。禍々しい羽だった。
「……殺す」
男は中区に行くことなど忘れた。目の前の吸血鬼を殺すことだけが、男の全てだった。
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