第12話




 ♢




 夏の雨は窓ガラスを打ち付ける。海風の強い〈銀華〉の中でも、海岸沿いにある喫茶ホリは特に風が強い。もしかしたら波飛沫まで届いているかもしれない。


 そんなことをぼんやりと考えながら、俺はベッドに頬を預けていた。右手は妹の左手をずっと握っていたけれど、今のところ握り返される様子はない。

 これからどうするのかを考える必要があるし、〈命と嘘の舞踏会ライフ・ライ・ダンスパーティー〉についてホリ先生と話し合わないといけない。やるべきことが山積している。けれど、その全てがどうでも良くなってしまっていた。

 一時停止した心は動き出す気配がなく、もう何をどうやって動き出せば良いかすらもわからなかった。


「参っているね」


 背後から聞こえた声が、先生のものだと理解するのに七秒要した。そして、「だから何なのだ」と、別にどうでも良いと思い直す。先生に顔を見せることはしなかった。


「参って当然だ。動けないのが普通だ。君たちはそれだけの傷を心に受けたからね」


 耳には入っていたけれど、頭には入ってこなかった。何か言ってるな、程度の認識をしただけだ。


「だけど、それじゃあ困る。君たちが投げ出された場所は、一般常識なんて通用しない。常軌を逸した非常識がまかり通っているんだ」


 何を言っている?


「だから、少しだけズルをするよ」


 何となくだけれど、室内の湿度が上がった気がした。


 そうすると、徐々に先生の声が聞こえるようになってきた。加速度的に頭が鮮明になっていき、今まで何を言われていたのかまでを思い出す。暗闇の底から心が急速浮上していくような感覚。泥のように落ち込んでいた自分が偽りだったと思えるほど、心が奮い立っていく。理由が不明で、何とも不思議な精神の活性化だった。

 けれど、理由なんてどうでもいい。

 妹の手は離さないまま、俺は振り返った。見上げるそこには、ホリ先生がいた。長い亜麻色の髪に、目鼻立ちのスッキリした美貌。細い体格には不釣り合いな豊かな双房は、組まれた両腕に乗っかっている。いつも俺たち兄妹を気遣って、助けてくれた先生が、変わらず俺を見てくれている。


「勇気を出して。君ならそれができるだろう? 妹のためなら、なんだって怖くなかったはずだろう? 月野ハツカは、そういうお兄ちゃんじゃないのかい?」


 その言葉は、俺が忘れていた事実を思い出させた。

 そうだ。俺はいつだってそうだったじゃないか。これまでは、何があっても、必死になって駆け回ってきた。

 これまでは? なら、これからもじゃないのか? 妹のためなら。ナノカのためなら。今も苦しげな寝汗をかくナノカのためならば、俺は。


 俺は!



「先生、お話したいことがあります」


 深呼吸の後に出した強い声は、空元気などではなかった。


「うん。力になるよ」


 俺を見て、先生は嬉しそうに微笑んでくれた。力強く優しい返答に、胸がいっぱいになる。先生がきっと、俺たちを助けてくれる。俺が妹のためにもう一度立ち上がる手助けを、してくれるんだ。





 ♢


 ♢





 部屋の端っこから運んできた椅子に先生が座る。俺が絶対に妹の手を離さないせいで、他の部屋に移動できないのだ。けれど、いつまた妹が目覚めるかもわからない。もしものことに備えるには、誰かがこの部屋に常駐する必要がある。

 先生は木でできた丸いテーブルに肘をつき、眉間を指でつまんでいる。時折苛立たしげに横髪を指で梳かす。


「〈命と嘘の舞踏会ライフ・ライ・ダンスパーティー〉がもう動いてくるなんて……。頭が痛いなんてものじゃないな」


 俺はアパートで起こった事のあらましを先生に話していた。話を訊き進めるごとに先生の表情が百面相のように変化するので、途中からそっちばかりに気を取られていた。


「ですが、〈命と嘘の舞踏会やつら〉のおかげで延命できてるのも事実です」


「それはそうだが、最善とは程遠いよ。最悪の中ではマシな方ってだけだ。それに、寄越された男がタチが悪い。テン・シナリス、そいつは〈禁喜卿〉だ」


「〈禁喜卿〉?」


「〈十三鬼のお友達クラウンナイツ〉。〈命と嘘の舞踏会ライフ・ライ・ダンスパーティー〉最高幹部の一人だよ。快楽主義者で個人主義者。自分が楽しいかどうかだけが行動原理で行動目的という、とにかく場を引っ掻き回すことが趣味のいけ好かない男だ」


 テン・シナリスとの会話を振り返る。言われてみれば、あいつはずっとそんな感じだった。けれど、俺を揶揄うように楽しむ瞳が、酷く冷めていたことも同時に思い出す。世界から一線を退いた立ち位置で観察しているような、そんな瞳をしていた。

 いや、俺の印象なんて重要ではない。先生がそう認識しているのならば、それが真実なのだろう。実際、あいつは俺で遊んでいた。


「しかし妙だな。いくら〈命と嘘の舞踏会ダンパ〉とは言え、初動が早すぎる。〈禁喜卿〉がナノカくんの覚醒当時どこにいたのかは知らないが、口ぶりからして、朝には君たちのアパートに来ていただろう。〈銀華〉への渡航手段が限られていることも考えると、あまりに異常だ」


 テン・シナリスは、聞き込みにきた刑事をあしらったと言っていた。昨晩には事が発覚したとして、刑事たちは遅くても朝一番に周囲に聞き込みを始めたはずだ。だとしたなら、発覚から調査までは長く見積もっても十時間もない。

 早すぎる、というのは、至極当然の結論だった。

 また、先生でさえ〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉がどこで覚醒したのかわかっていなかった。それをピンポイントで発見できるとはどういう理屈か。


 じっくり論立てて考えてみれば、テン・シナリスの不気味さが浮かび上がってくる。あの薄ら笑いの奥に、絶対に何かを隠している。


「だが、もし一つだけ良い点を挙げるとすれば、君の【ブラッド】が判明したことだな。その、強さは別として」


「はい……」


 言葉を濁す先生。やっぱり弱いのだ。


「判断材料は依然として不足しているが、そこは順を追って見つけていこう。時間はないが、焦っても仕方ないからね」


 時間とは、ナノカが〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉の力を真に覚醒させるまでだ。〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉がこの世界にどれほどの影響を与えるのかがわからないし、〈命と嘘の舞踏会ライフ・ライ・ダンスパーティー〉がそれをどう利用しようとしているのかも見えてこない。来たる巨大な災厄を予測し、回避する。妹が幸せになれる方法を、これから探していく。いきたい。


 例えどんな惨劇と苦痛があったとしても、妹を守る。


「なら、真っ先にどうにかしないといけないのは、妹の心です、ね」


「そうなるね」


 俺も先生も唇を噛んだ。妹の絶望は想像を絶する。何とかしてあげなくてはと心が叫ぶ。けれど、どんな方法を取れば良いのかが思いつかない。「方法」なんて具体的な行動があるとも思えない。

 妹は優しい女の子だ。けれど、映画やコミックの主人公のように、優しさだけで何かを成し遂げられるような子ではない。普通の女の子が持つ、平凡な優しさだ。道に咲いている花を愛でるのではなく、ただ踏まないように歩幅を調整する。そんな優しさなのだ。その他にも、少し面倒くさがりだったり、頑張り屋だったり、外では猫かぶりだったり。全てが凡庸で平均的な、どこにでもいる女の子。それが俺の妹だ。ささやかな特徴を挙げるとすれば、世界一可愛いってくらいだ。


「そうだ。少し話は逸れるが、これを君に」


「何ですか? ノートパソコン?」


 黒塗りの薄いノートパソコンを手渡される。俺が持っているパソコンの半分以下の重さだった。あれは中古品を譲ってもらったやつだったから仕方ないと言えばそうなのだけれど。


「山田という鬼狩りについて調べてみた」


「山田を……」


 パソコンを開くと、新聞の記事が拡大されていた。日付は今から四年前の十月。全国紙だ。

 その一面が、とある記事で埋まっていた。


「岐阜八人殺害事件……」


「覚えていないかい? 吸血鬼が山中の民家二つ、合わせて八人を殺害した事件だ」


「かなり大騒ぎになったので覚えてます。確か、犯人が下級吸血鬼だった事件ですよね」


 吸血鬼による殺人や犯罪など珍しくはない。それを一つ一つ記事にしていたら、新聞の厚みが倍になる。だから、ニュースなどで取り上げられるのは名のある上級吸血鬼や〈銀羅〉の戦闘についてばかりだ。そう言った現実がまるでバトルコミックのように扱われる。そちらの方が人気があるのだろう。

 けれど、この事件は違った。

 この事件は、日本人の認識を大きく変えた。力を持たず、危険度が低いと思われていた下級吸血鬼が起こした大量殺人。それは吸血鬼というものをどこか別次元の話だと思っていた一般人に強い動揺を生んだのだ。


 犯人である下級吸血鬼の半生についても焦点が当てられ、大きな社会問題となった。事件の犯人の男はずっと真面目な社会人だった。けれど、不況や吸血鬼排斥により職を失い、貧困を極めた結果、国から血液が買い取れなくなった。極限の空腹と喉の渇きから、男はまともな思考ができなくなり、犯行に及んだ。

 こうした原因から、ある主張が人間社会に生まれた。同じような事件を起こさせないために、下級吸血鬼に対する待遇を改善すべきだという主張だ。国が売る血液の値段を下げたり、下級吸血鬼の権利を確立する。下級吸血鬼の持つ不満を軽減しようというものだ。

 けれど、当然これに真っ向から反対する主張も出た。吸血鬼の危険性をもっと真剣に考え、人間社会から徹底的に排除する。今のような中途半端な共存を断ち切るべきだという主張。


 どちらも一理ある。下級吸血鬼に対する待遇がもっと違っていたならば、この事件は起きていなかった。けれど、上級吸血鬼という恐るべき者たちと同族である下級吸血鬼を援助するなんてできない。吸血鬼全体の力が底上げされれば、人間社会は崩壊する。


 これらの議論は、最終的にどっちつかずなまま風化した。だから四年前と今も、社会制度は一切変わらない。当時の俺は、これからもっと下級吸血鬼が弾圧されるのではと怯えていたけれど、良くも悪くもそうはならなかった。


「殺されたのは篠原家の父母と娘。隣の川崎家の祖母、父母、娘、息子。それは凄惨な現場だったそうだ。遺体のほとんどに殺しを楽しんでいたような痕があり、篠原家の父親以外は、みんな生きたまま血を吸われていた」


「そうでしたね……。それで、この事件が山田とどう関わってくるんですか?」


「いや、どうやら、この事件の捜査を担当したのが山田らしい。それまでは裏方の調査型だった山田が、初めて戦闘員として吸血鬼を追ったんだ」


「そうか、四年前……」


 山田が吸血鬼退治を始めたのは四年前だったことを思い出す。また、それまでは調査型を勤めていたと聞いて納得した。昨晩、山田は半日も経たずして俺たち家族について調べあげていた。あの調査力はかつて裏方を担当していたからだったのか。


「山田が犯人を倒したってことですか?」


「あぁ、いや。それはね……おっと」


 ここでヤカンの音が聞こえてきた。湯を沸かしていたのだろう、それを止めに先生が席を立つ。

 ここで思い出した。そういえば、俺はこの事件がどう解決したのかを知らない。ニュースや新聞は下級吸血鬼への社会制度問答ばかりを取り上げるようになり、俺もその行方だけを気にしていた。パソコンを借りて少し調べてみても、何も情報が出てこない。犯人がどうなったのか。まだ見つかっていないなんてことはないだろう。これだけ情報が出ているのだから。けれど、討伐された、というはっきりとした記事がない。ひたすらクリックとスクロールを繰り返していると、


「あ……」


 岐阜八人殺害事件の、第一発見者が出てきた。発見したのは、篠原龍之介しのはらりゅうのすけ

 被害家族である川崎家は全員殺されたけれど、篠原家の長男である彼は事件で唯一生き残った。新聞配達の人が早朝に訪れた時、この少年が家の前で立ち尽くしていたらしい。




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