第11話
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家族の温かい幸せを見せつけられ、激しく嫉妬し憎悪した男は、笑っていた。今この瞬間から、自らを縛る鎖を全て引きちぎると心に決めたからだ。
二階建ての家は、広い庭を持っていた。芝生が植えられ、石畳が敷かれ、造り主がかなり凝った設計をしたことがうかがえる。
だが、そんなこと男にはわからない。贅沢などしたことがない男は、自分の所有物をより良くするためにお金を使うという発想が欠落していた。だから男の関心は庭になど向かない。
だが、ふと庭の隅に目が行った。そこに犬がいたからだ。その犬は栗毛の可愛いらしい小型犬で、男を円らな瞳で見つめている。夜中の侵入者である男に対しても吠えたりしなかった。むしろ短い尻尾を振って歓迎してくれている。
犬の首輪にペロという名前が彫られているのが見えた。それは、男が公園で暮らしていた頃、同じく公園を寝ぐらにしていた野良犬につけた名前と同じだった。あの「ペロ」はいつのまにかいなくなってしまっていたが、こんなところにいたのかと男は驚く。当然このペロは過去の「ペロ」とは別のものだ。だが、男はそれすら理解できていない。
男は犬を撫でてみる。かつての「ペロ」は触らせてくれなどしなかったが、今は気持ち良さそうに頬を擦り付けてくれる。顎の下や首回りを何度も撫でて、男の心は一気に癒された。
待っててくれ。そう言うと、男は玄関へと向かう。鍵は開いていない。インターホンを鳴らそうかと思ったが、やめた。灯が漏れる窓の中から、家族の声が聞こえてきたからだ。
男はこっそりと家の中を覗く。父親と母親、そして、女の子。三人は楽しそうにテーブルを囲んでいた。そして、テーブルの上には大きなホールケーキがある。白いクリームの上に沢山の苺が乗っかっている豪華なものだった。
なんて美味そうなんだ。男が生唾を呑み込む。その視線は女の子の細い首筋に向けられていた。もう感情の昂りが抑えられない。沸騰するヤカンになった気分で男は脚を上げた。
男の靴底が大きな窓ガラスを蹴り割る。何かを壊すのは初めてのことだったが、非常に快感だった。
家族は突然の破砕音に悲鳴をあげる。そこから男が姿を見せると、さらに声を大きくした。
テーブルにはケーキ。右手には大きなテレビに、奥はオープンキッチン。左側には緑色の四人がけソファまであった。幸せがあちこちで具現化されており、見ているだけで心が温かくなりそうだった。
父親が何かを叫んでいる。母親や娘に向けて言っているみたいだ。ここで男に生まれたのは不快感。せっかくこうして登場したのに、何故自分を見ないのか。思いつくままにテーブルを蹴り上げた。ケーキや食器が天井にまで跳ね、音を立てて落下する。母親と娘がまた悲鳴。
女たちの悲鳴を楽しんでいると、父親が飛びかかってきた。必死の形相で男にタックルしてくる。強い力だった。家族を守るために闘う者の、逞しい勇気の力だった。だが。
男はしがみついてくる父親を突き飛ばした。力ならば、吸血鬼である男の方が断然上だから、大して本気を出さずとも思い通りになった。そんなことは理屈でわかっていたが、いざ体感してみると嬉しいものだった。この広い二階建ての家の中で、最も力の強い者は自分。この空間での神は自分なのだ。
諦めない父親は再び突進してくる。その行動は男の心に二度目の不快感を生んだ。神である自分に逆らうなど不敬に過ぎる。男は父親の襟元を捻り、片手で宙に吊った。父親は空中でジタバタするが、男の力には敵わない。何か訳の分からない言葉を叫び、泡を吹き始めた。少し腕が疲れたので投げ飛ばした。オープンキッチンの下の壁に激突した父親は、口から胃液を吐き出す。
その腹を思いっきり蹴った。後ろに大きく振り上げて力のこもった爪先が、父親の腹を破壊する。父親の背後の壁に鮮血が散った。僅か一撃で、父親の腹に大穴が空いたのだ。
ズルズルと父親が崩れ落ちていく。痛みに涙と鼻水を流すその姿はとても無様で、男は非常に胸のすく思いだった。
男はもう父親に興味がない。ソファの前でうずくまる母娘へと足を向けよう、として、右足に違和感を感じた。見てみると、父親の右手が男のズボンを掴んでいた。全身が総毛立った。自分をダシに格好いいことをされたからだ。これではまるで、いつも男を見下して良いように扱ってきた奴らと変わらない。それでは男の立場が逆戻りだ。
憤怒の奇声を上げながら、父親の腕を踏み砕いた。もう二度とこんなことはさせないよう、念入りに何度も踏む。すると、父親が動かなくなった。腹が立つから顔面を蹴ってやろうかと思ったが、流石に可哀想なのでやめた。男は優しいからだ。
また母娘へと向き直る。その途中、割れ散ったガラスに男の顔が写っているのが見えた。天使のような安らかな微笑みを浮かべていて、やはり己は正しかったのだと確信する。すると、腹に衝撃を感じた。母親が飛びかかってきたのだ。やはり夫婦だ。やることが似ている。今もさっきまで父親がやっていたように、娘に逃げろと叫んでいる。
これはこれで感動的なシーンなのかもしれない。だが、こんな短時間に二回も見せられたら欠伸が出る。それに、また自分をダシにされた気分にもなった。本当に娘の命を想うのならば、その手を取って逃げるべきなのだ。絶対に勝てない相手に立ち向かってどうする。どう考えても頭が悪い。こんな、自分よりもずっと頭の悪い人間が幸せな生活をしていたと思うと、男は爆発しそうなほどの怒りを覚えた。
男の指が母親の頭を鷲掴みにした。ぶちぶちと髪がちぎれる音をさせながら、母親の顔面を壁に叩きつけた。抹茶色の壁に血がへばりつく。もう一度。壁の破片と一緒に母親の歯が落ちた。まだ生きているようで、最後に渾身の力で叩きつけようとすると、
男の足に女の子が飛びついてきた。家族揃ってやることが同じなのかと呆れたが、そこから女の子が言った言葉に衝撃を受けた。
自分はどうなっても良いから、お父さんとお母さんを助けて欲しいと言ったのだ。こんな小さな、小学校低学年くらいの少女が見せた自己犠牲に、男の魂が震えた。
あぁ、良いものを見た。人間とはこうも美しいものなのか。男は母親から手を離し、女の子と目線を合わせるために膝立ちになった。女の子は男から目をそらしたりしない。美しい。本当に美しい。
この美しさは、後世に残すべきものだと、男は考えた。自分が見つけた宝物を、誰かに自慢したい気分だった。自慢、なんてものも初めてで、胸が踊る。この美しいものは自分のものなのだぞと強く世界に発信したい。
だが、同時に沸き起こる感情があった。自己顕示欲よりもっと強い、吸血鬼としての究極の欲望。吸血衝動だった。
さきほどから興奮と快感で忘れていたが、男は喉が渇いていたのだ。部屋の中には血が大量にあり、ここは吸血鬼の理想郷だ。だが、男は不思議と父親も母親も美味そうには見えなかった。むしろ汚らしいものとして見える。
男が美しいと思え、衝動を掻き立てるのはただ一人。目の前にいる女の子だけだ。
我慢などとうに捨てた。さきほどの自己顕示欲などとうに置き去りにし、男は衝動のままに女の子の喉笛にかぶりついた。細くも柔らかい肉を牙が引き裂き、血管に辿り着く。女の子が叫んだが、それも素敵なバックミュージックだった。
舌の上に温かい液体がのった。
この時の男が受けた衝撃は、言葉では言い表わせないほど絶大なものだった。舌を蕩かす甘み、喉を潤す爽快感。そして、腹の底に溜まる温かさが男の心身を漲らせる!
これが本当の血液。男が今まで飲んできたものなど、泥水のようなものだった。新鮮な血液は、まさに天上の湧き水に等しかった。
喉を鳴らして飲みまくる。吸って吸って吸いまくった。最初は女の子は手足を振り乱して暴れていたが、すぐに大人しくなり、最後には痙攣すらしなくなった。そんなことには構わず、男は吸血を続ける。だが、突然血の味が悪くなった。
飲み過ぎて飽きてしまったのかと思い、喉笛から牙を抜く。そして女の子の顔をのぞいてみて気がついた。女の子が事切れているのだ。女の子の血は、生き血ではなく死体の中に溜まった血に成り下がってしまったのだ。
これでは、もうあの極上の味を楽しめない。男がひどく落胆した時、がたりと物音がした。振り返ってみると、奥の階段の下に可愛らしい置き時計が落ちている。見たところ新品で、何故そんな場所に落ちているのかわからない。どうでも良いことだが、無性に気になった。
置き時計を拾いに行こうと立ち上がる。だが、うぅ、という呻き声が聞こえた。近くで倒れている母親がまだ生きていたのだ。この瞬間から男の脳は置き時計のことなど忘れ去った。夢中になって母親の首裏に飛びつく。一口吸っただけで、全身が痺れるような旨味が口内を駆け巡った。脳から幸せが肉汁のように溢れ出す。若々しい女の子と違い、そこそこの年齢の母親だ。血の味は落ちるのではと思ったが、まるでそんなことはない。女の子の血と母親の血、どちらも甲乙つけがたいほど美味かった。
男は母親の血もしっかりと堪能した。女の子よりも早く不味くなってしまったが、予想できたことなのでがっかりはしなかった。
母親が床に崩れ落ちた。同時に男は立ち上がり、部屋を見回してみる。
キッチンの下で父親が死んでいた。
男の足元で母親が死んでいた。
ソファのそばで女の子が死んでいた。
十畳程度の部屋は血の匂いが充満し、死体が放つ独特の薄暗さが立ち込めている。白いホイップクリームの上で苺の赤と血の赤が混ざり合っていた。目を逸らしたくなるような惨状の中で、場違いな紅白模様が際立っている。
男はこの光景を冷めた気持ちで見下ろしていた。興奮したり冷めたりと急激に気分を上下動させる理由は本人にはわからなかったが、わからないということすら自覚していない。ただ、自分が作り上げた光景を淡白に観察し、すぐにどうでも良いやと頭を切り替えた。
蹴り割った窓から外に出る。風のない夜はからりと乾燥していて、また喉が渇いてきた。もう一生分くらい生き血は飲んだが、まだまだ足りない。
男の目が隣の古民家へとシフトした。あそこでもきっと人間がいるだろう。人間がいるならば、生き血がある。
次は父親のようにすぐには殺さず、一人一人丁寧に血を吸おう。さっきは女性の血だけを飲んだが、男性の血にも興味があった。男は来たる快感を想像しながら、古民家へと向かった。
玄関が網戸になっている。
男は顔をくしゃくしゃにして笑った。
それから二時間後、赤く湿った服をまとった男は、山の中へと消えていった。
犬の遠吠えが夜空に響く。暗澹な夜に相応しい悲しげな声だった。
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家族三人の死体が転がる十畳の部屋に、少年が一人、二階から降りてきた。
少年が何か呟いた。
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