第5話



 ♢



 血を吸われるのには慣れていたはずなのに、心は怯えていた。栄養摂取のための吸血でなく、遠慮がちな食事でなく、俺の存在そのものを破壊する行為だったからだ。


「……っ!」


 けれど、だからこそ奮い立たねばならない。

 覚悟を決めよう。妹を守るために、己の全てを捨て去ろう。


「あ、ああ"!!」


 鋼の牙で頸動脈が掻き切られる。俺たちを中心に再び衝撃波が生まれた。鼓動が脳内で木霊した。肉体に解読不明な何かが起き始める。

 肝臓が修復されていった。大腸が押し戻されていった。肋骨が伸びてきた。筋肉が形成され、皮膚が生まれてきた。

 本来あるべきパーツが形作られていく。


「るがあ"あ"あ"あ"っ!!!!」


 けれど、そこから始まったのは残酷なまでの破壊だった。

 眼球が溶けていく。指が落ちていく。心臓が霧散していく。

 脳が書き換えられていく。脊髄が置き換えられていく。

 血管が爆発し、筋肉が張り裂け、肌が崩れる。俺の身体だったものがゼロになるまで破壊され尽くされる。

 激痛と呼ぶには生易し過ぎる痛みに、意識が狂いそうだ。存在が消し飛びそうだ。

 俺は勘違いをしていた。吸血鬼になるのではなかった。生まれ変わるわけではなかった。そうじゃない。俺が、誕生しているのだ。人間だった月野ハツカは世界から排斥され、新しい俺が地上に振り落とされる。

 新しい俺とは、俺ではない。幸せを享受しのうのうと暮らしていた人間ではない。


 吸血鬼と言う名の吸血鬼ばけものだ。





 ♢


 ♢




 


「がう"う"!! あがあ"!!」


 衝撃波は収まっていたけれど、妹はまだ俺の腕の中で激しく暴れる。血を求めて喉笛に咬みつこうとしてくる。


「大丈夫。眠っててくれ」


 妹の両頬に手を添えて。狂気に染まり切った瞳を、至近距離で見つめて、手を握って。一瞬俺と目が合った妹は、ネジが外れたように力を失った。前向きに倒れいく身体を受け止める。


「ごめんな」


 妹の制服は生温い液体で重くなっていた。白い生地も、赤いスカーフも、見るも無残な血の色に変色していた。

 血で汚れた妹の唇を拭う。

 妹を両手で抱いたまま、夜空を仰いだ。溜まっていた雲が全て散って、夏の大三角が現れていた。

 まるで血が足りていない気がする。そのせいでどうにも心臓の音が大きい。けれど、それ以外は身体におかしな点はなかった。


「はは! ハハハハハ!!」


 腹這いになった山田が、大笑いする。実に楽しそうで、酒に酔ったのかと思うくらいだ。


「災厄の化身が私の目前で息をするか!」


 山田の左腕は肩口から消失している。鋭利な刃物で切断されたような直線的な傷口。おびただしい出血を止めようともせず、山田はゆらゆらと立ち上がる。遮光眼鏡が割れたせいで、目の周りには小さな切り傷がいくつもできていた。


 ここから俺がどうすべきかは決まっている。妹をそっと寝かせ、穴を上る。道一つ挟んだ距離で山田と向かい合った。

 山田は残された右腕で、十字架だったものをアスファルトに引きずっている。十字の部分が折れて、ただの打棒に成り下がっていた。片腕を失ったことでバランスも崩しており、傾いた歩き方しかできていない。

 しかし、それでも山田の戦意は一ミリも挫けていなかった。爛々と輝く眼光がそれを物語っている。


 俺たちには、闘うこと以外の選択肢が残されていなかった。


 蘇った右手の指を開け閉めする。身体は文句なしに元通りだった。けれど、失った血は戻ってきていないらしい。頭はくらくらするし、足が痙攣する。そして、途轍もなく喉が渇いていた。吸血鬼の本能がどうしようもなく血を求めているのを自覚する。


「俺は、あなたを殺す」


 口に出してみると、何故か腹底が昂ぶってくる。これが吸血鬼の破壊衝動か。ふつふつと湧き上がってくるどろりとした感情が、俄かに熱を持ち始めていた。そしてそれとは対照的に、熱い夜風が狂おしいほど心地良い。太陽の消えた暗闇が俺の心身を癒して、頭を冴えさせる。


 状況はとてもわかりやすい。俺と妹は山田に顔を覚えられてしまっている。それどころか、〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉として覚醒したところを目撃された。このままこの鬼狩りを生かして返せば、もっと恐ろしい鬼狩りが群れを成して押し寄せてくる。〈銀正〉や〈銀羅〉の更に上、日本に五人しかいない最強の鬼狩り、〈獅皇銀羅しおうぎんら〉に命を狙われることになる。

 そんな事態になれば、命がいくつあっても足りない。〈獅皇銀羅〉は世界の理を軽々と越え、〈不死〉の能力を持つ〈爵位級アッパー〉すら殺してしまう。絶対に、山田はここで殺さないといけない。

 俺に与えられたのは、この世界の残酷な取捨選択だけだった。


 自分が死ぬか、相手が死ぬか。

 自分が殺されるか、それとも、相手を殺すか。


 俺は妹を、ナノカを護ると心に誓った。絶対に破れない不滅の誓い。ナノカのために、鬼狩りを殺すのだ。

 いや、違う。


「俺は、俺のためにあなたを殺します」


 目を閉じた俺は、薄汚い建前を振り払った。ナノカのためではない。ナノカと共に生きていきたい俺自身のために、俺は他者の命を奪うのだ。


 誰かの未来を奪い盗ることを決めた瞬間、俺の身体が光を放ち始めた。淡い黄色の光が雷電のように周囲を爆ぜる。

 【ブラッド】を感じる。【ブラッド】とは、一人の吸血鬼に一つだけ与えられる特別な力。吸血鬼が吸血鬼たる力の所以。

 俺だけが持つ唯一無二の【ブラッド】が精神に直接語りかけてくる。


「俺の【ブラッド】。力を貸してくれ」


 失った血液百ミリリットルにつき身体能力が三倍になる。上限がどこまであるのかは不明だけれど、ただひたすらに自身を強化するだけの【ブラッド】だ。

 現在俺が流した血は約七百ミリリットル。即ち二十一倍。


「ちょっと塩っぱいけど」


 自然と苦笑いしてしまった。お世辞にも強力な【ブラッド】とは言えない。けれど、俺はこの力で妹を護らなければならない。

 膝を曲げて拳を握る。靴底がアスファルトを踏み抜いた。雷電が激しさを増していく。


「存在悪が。すぐにお前たちも死体に変えてやる」


 打棒が俺の鼻先に向けて掲げられた。妹によって削られた打棒の先端は槍のように鋭い。〈十字銀〉の巨大な杭は、俺の心臓を容易く貫くだろう。手負いだからと言って一切の油断が許されない。


 遠くの工場が倒壊した。


 突進したのは俺だった。上体を下げた低い姿勢を可能な限り維持しながら疾駆する。山田の得物は依然として大きい。懐に潜り込んでしまえば何とかなると判断した動きだ。

 打棒が俺の脳天めがけて振り下ろされる。一般人なら意識を保つことすら不可能なはずの重傷だが、鬼狩りである山田には関係ないらしい。動きに鈍さや衰えはみられない。

 俺の脚力は現在二十一倍だ。中学時代五十メートルを六秒ジャストで走っていた俺は、今なら約零点三秒で走破できる。十メートル程度あった山田との距離を詰めるのに零点一秒もかからない。

 明らかに人間離れした化け物スタッツなのだが、山田は目で追ってきていた。コンマ何秒の世界でも、しっかりと俺と睨み合う。


 俺は下から。山田は上から。


 右拳に力を込めた。左足はすでに踏み込んでいる。左腕を失った山田は、左半身を防御することができない。脇腹、鳩尾、心臓。あらゆる急所がガラ空きだった。

 パンチ力なんてものを測ったことはないが、今の俺が殴れば人体を容易に貫通させられる確信があった。ならひと思いに心臓を叩けば良い。時間をかければ人が集まってくる。人に見られればそれだけリスクが高まる。


 ここでふと気づいた。これだけ長々と思考を巡らせていると言うのに、世界の時間はほとんど動いていない。

 睨み合っている視線を外した。山田の傷口から撒き散らされる血液を確認する。その一滴一滴が、空中に散布され飛び回っている。その全てを認識し、数えることができた。


「……そうか」


 呟く時間すら俺には許されていた。

 俺は身体能力だけが二十一倍になっていると思っていた。だがどうやらそれだけではないらしい。


 眼球は世界をコマ送りで捉える。

 鼓膜は眠る妹の息遣いをさらう。

 鼻孔はタカハシ一家の屍が放つ腐臭を拾う。


 俺は俺の持つありとあらゆる性能を二十一倍にまで高めていた。跳ね上げられた思考速度は、現状に対する客観的な考察を幾通りも生み出してみせる。


 打棒が俺の脳天に迫る。驚くべきことに、山田の動きの方が俺より速かった。そうさせたのは山田の経験だ。俺が左から攻めてくるのを読み、打棒を最も効率よく振るえる体勢を取っていた。

 俺の右拳と打棒の打面がぶつかり合った。左足を勢いよく踏み込み過ぎていたため、回避はできないと判断し、武器破壊に移行したのだ。数十トンを超える衝撃に拳の骨から上腕の骨までが粉砕される。


 この攻防で大きな発見があった。今は見る影もないとは言え、この武器は十字架だ。ただの超質量武器としても十分高威力だが、その本質は吸血鬼の弱点を突くことにあるだろう。吸血鬼の回復力や生命力を激減させる〈十字銀〉で作られた十字架。十字架が弱点の吸血鬼に対してなら一撃必殺級の武器だと言える。


 俺にそれは効かなかった。十字架は俺の弱点ではないのだ。

 だが、何度も言うが〈十字銀〉は吸血鬼の回復力を減衰させる。ぐしゃぐしゃになった俺の右腕が再生しない。緩やかに回復しているのはわかるのだが、次の打ち合いには間に合わない。


 武器と拳が衝突したエネルギーは凄まじかった。俺は足首までアスファルトに沈み、山田の身体は浮遊する。この一瞬有利になったのは俺だった。

 アスファルトを蹴りつけ、使い物にならなくなった右拳を捨て、左拳を握る。

 山田が打棒で身を守る。空中では避けることができない。盾を作る以外になかった。


 防御は予想できていた。拳が纏う雷電の光が増幅。構わず盾ごと打ち抜く。


 〈十字銀〉は硬度も靭性も地上最高レベルを誇る。最も硬く最も割れにくい、最高級の素材だ。だが、例えそれを盾にしても、支える腕力が耐えれなければ意味がない。


 俺の腕力は、山田の腕力を軽々と上回っていた。攻撃は打棒で防がれたが、衝撃は防ぎ切れなかった。打棒は構えていた山田の腕の骨を粉砕し、胸板に激突。肋骨を破壊しながら後方に吹き飛ばした。


 受け身を取ることもなく山田は落ちる。人間が鳴らしてはいけない音を立ててアスファルトを舐めることになった。


「ハァ……! ハァ……!」


 荒い呼吸が治らない。時間だけなら一秒も経っていないだろう。だと言うのに、俺の精神的な疲労は筆舌に尽くしがたいものがあった。命のやり取り、殺し合いというものが生み出す魔力に、体力も気力も搾り取られていた。


「ふ……は……は!」


 上半身はぐちゃぐちゃのはずだけれど、山田はまだ息があった。脚を使って這いずりながら俺に近づいてくる。


「お前は……お前たちは、これ、から地獄、を、味わう」


 片膝をついて何とか立っている俺を、山田は嘲笑っていた。邪悪な膿で色濃く染まった瞳。


「殺し、てくだ、さいと……泣き喚く未来、が、きっとくる。私は、それを、地の底……から、眺めている、ぞ……!!」


 山田が囁きかける呪いの言葉に、身が凍るような恐怖を覚えた。この状況になっても、山田の眼光は死んでいない。それどころか、ますます業火に燃え上がる。


「ふ、はは! はははははは!!」


 視界の隅で、山田の打棒が膨れ上がっているのを捉えた。元の十字架に戻りながら、ぶくぶくと肥え太っていく。

 山田の思惑に気づいた時には走り出していた。全速力で妹の元へ駆け寄り抱え上げる。一刻も早くここから離れなければならない!


 その時、景色が白に包まれた。タカハシさんの死体を照らし、リョウタ君の身体が影をつくる。


 島を震わす大爆発が起きた。



 


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