第4話



 ♢



 死んだ。


 誰がどう見ても死んだ。断面から赤い血をごぽごぽ溢れ流しながら、死んだ。死体が倒れる直前、右手の指がぴくぴくと動いていたけれど、それももう止まっている。アスファルトの上に、一つの首と二つの胴体が転がっていた。


「っ〜〜〜〜〜〜!!!!」


 妹が声にならない叫びをあげる。俺の耳元で叫んでいるはずなのに、何故か鼓膜が揺れている気がしない。俺は死体から流れる血が道端の排水溝へと伸びていくのを傍観していた。

 夜空には雲が覆い被さっていて、星も月も見えない。街灯は山田ばかりを照らしていた。


「次だ」


 山田は十字架を肩に乗せて、トントンとリズムを取っている。死体を横に蹴り飛ばして向かってくる。


「つ、つ、次って、なんだよ」


 次ってなんだ。

 じゃあ、前とはなんだったんだ。

 そんなのわかりきっているじゃないか。

 前はリョウタ君で、次は俺たちだ。


「いや……いや……!」


 リョウコさんは首を振る。失禁した彼女の尻の下には、小さな水溜りがあった。


「見苦しい」


 山田の片眉が引き攣る。十字架を雲に向けた。最も広い打面がリョウコさんを見下ろす。


「いやぁ!!!!」


 リョウコさんがこちらに這いずってくる。顔は涙と鼻水で、目を背けたくなるほど汚れていた。


「助けーー」


 潰された。自転車に轢き殺されたカエルのように、腕と脚だけを残して、リョウコさんの身体は血痕になった。アスファルトには頭部と胴体がくっきりわかる血の地上絵があった。リョウコさんの最期の瞳が、俺の脳裏に焼き付く。


「……」


 山田は無感情に俺たちを見た。先程まで命が存在したことも、それを潰したことも意識していない。

 無言で進む。革靴の足音がどんどん近づいてくる。


「ま、待て! 待てよ! 俺たちは人間だ!」


 一歩後ずさる。背中の妹は震えながら抱きついてきている。その微振動は俺の心臓にまで伝わってくる。


「戸籍もある! 学校にも通った!」


 人間と吸血鬼を見分ける手段。一つは血を吸うか否か。一か月血を与えないで監禁すれば自ずと判明する。

 そしてもう一つは、〈十字銀〉を傷口に付着させること。一般人ならばそのまま剥がれ落ち、鬼狩りの素養がある者なら血管に溶け込んでいく。

 そして、吸血鬼なら紫色に腫れ爛れる。つまり、吸血鬼が力を振るわない限り、適正な検査をしなければ正体はわからないのだ。また、〈十字銀〉は希少なものだから、吸血鬼一人を炙り出すためだけには使えない。だからこそ妹は学校の健康診断もパスしてきた。


「信じてくれ! 俺たちは人間だ!」


 唾を飛ばして喚く。しかし何を言っても山田は止まろうとしない。後ずさりを続けた結果、工場の錆びたフェンス際まで追い込まれていた。

 俺の背中を掴む妹の力が強くなる。首筋に冷たいものが伝った。激しい恐怖に号泣する妹の涙だった。


「お前たちの母親、月野ミツカの戸籍は確かに本物だった。どれだけ遡っても怪しい点は見受けられない」


 いきなり母さんの名前が出た。いつもなら心が温かくなる名前なのに、今は身体が冷えていく。


「また、病死という死因も医者が保証した。だが」


 だが。


「父親の月野ハジメ。今は海外のどこかで暮らしているそうだ。その戸籍に妙な違和感があった」


 俺たちは公園で少し顔を見られただけだ。あれからまだ三時間ちょっとしか経っていない。そのはずなのに、徹底的に調べあげられていた。


「お前たちの父親は、偽造戸籍だ」


 威圧するような声に、冷静さを失った。


「妹は吸血鬼じゃないっ!!!!」


 妹は守らなければという思考が、この言葉を口走らせた。俺は人間だから、あえて人間であることを証明する必要がないと思った。だから、妹が吸血鬼ではないと嘘をついた。でもそれは、


「つまり、お前は吸血鬼なんだな?」


 妹は吸血鬼じゃない。妹は。けれど、それは俺が吸血鬼だと宣言したようなものだった。

 俺が吸血鬼ならば、妹も吸血鬼以外になり得ない。吸血鬼ハーフダンピールが必ず吸血鬼になるという理屈から導き出される結論だった。

 俺たち兄妹が特殊な存在であることを忘れてしまった俺。兄妹どちらかが吸血鬼なら、どちらも吸血鬼なのだ。

 初めて山田が口角を上げた。十字架を水平に振り払う。血飛沫が跳ねる。


「お前たち二人が血液を買っていたという記録はない。あの子供と同じように、人間を襲っていたな」


 自分の愚鈍な発言が山田を確信させた。けれど、まだ不確かな証拠で、疑いが生じた程度でしかない。だと言うのに、言葉にならない声を発することしかできなかった。


「あ、あぁ……!」


 妹がフェンスを背にズルズルと座り込んでいく。つられて俺もへたり込んでしまった。

 もう、逃げ場もなければ逃げる足もない。


「安心しろ」


 山田が状況に矛盾したことを言った。


「私の十字銀【破槌の偶像】は重さ三百キログラム。適応者である私には三キログラム程度にしか感じないがな。要するに、一瞬で死ねる」


 三キロの金属で殴られたって、人は死ぬ。その百倍ならば、肉片すら残らなくなる。

 もう、背中の妹に「逃げろ」と言うことすらできなくなってしまっていた。極限の恐怖で一歩も動けない。見上げる山田が十字架を振り上げる。


 死ぬ。今から俺は死ぬ。回避できない絶対の運命だった。



 せめてナノカだけはーー



 そう思った時、フェンスが崩れた。


「あ…………」


 

 次の瞬間、右肩から脇腹にかけての部分がぶっ潰された。右腕は二の腕が消え失せ肘から先がアスファルトへ落ちた。脇から肋骨が突き出し、肝臓と大腸の一部が零れる。

 山田が十字架を叩きつけた結果だった。


「に、んげん!?」


 山田が驚愕の表情で呟く。フェンスが崩れたことで、狙いが逸れた。おかげで助かったけれど、俺は人生史上最悪の激痛を体感することになった。


「ぐ」


 血が流れ出したことを確認し、


「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"っ"!!!!!!」


 自分の状況を目視して絶叫した。脳が、視界が、真っ赤に染まる。首から上が動くから、左右に振って暴れ回る。脚をばたつかせて身をよじる。けれど肺も削られているから酸素が取り込めなくなる。


「ぅ…………」


 半身の欠けた右側へと倒れてゆく。悲鳴をあげることもできなくなったせいか、妙に頭がクリアになった。

 あぁ、今から死ぬんだなと自覚した。スローモーションで倒れながら俺が見たものは、俺の血で全身を真紅にした妹。その瞳が絶望と恐慌で見開かれていた。



 あぁ、どうか。どうかナノカだけは。俺はもういいから、ナノカだけは。



 その直後だった。

 


「ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"!!!!!!」


 妹の喉から、魔獣の咆哮と嵐の爆風が混ざり合ったような大絶叫が放たれた。天を目指した叫びは波紋となって拡散されていく。


「う"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"!!!!」


 喉を痛め口から血液を吐き散らすも、絶叫は止まらない。そしてそれは、妹を中心とした波動のようなものを生み出した。


「ぬぅうあぁっ!?」


 不可視の力で山田が吹き飛ばされる。すり鉢状にアスファルトが凹む。近くに建つ工場の総波型スレートの壁が圧壊し弾けて、斜めに倒れていく。

 俺の身体を抱きとめる妹からは、あり得ない超常的な力が吹き荒れていた。


「があ"あ"!! があ"あ"あ"!! ああ"あ"あ"!!」


 妹は血の涙を滂沱し、喀血し、耳孔から赤い液体を噴き出す。

 修羅の姿だった。絶望と瞋恚しんいで爆発する感情を世界に轟かせている。

 吹っ飛ばされた山田は、十数メートル向こうの地面に噛り付いていた。


「これはっ!! この力は!!!!」


 あり得ない事態を体感して、あり得ない事実を突きつけられて、山田の顔は土気色になっていた。


「〈伯爵アール〉級!? いや、もっと……もっと遥か上、〈王公グランド・デューク〉級か!?」


 上級吸血鬼の中でも、〈爵位級アッパー〉、その最上位である〈王公グランド・デューク〉。世界に七名しかいない最高最強最悪最恐の吸血鬼だ。しかし、これは、ここまでの力は。

 〈鬼聲きせい〉と呼ばれる上級吸血鬼の特殊能力がある。それは言葉で対象の精神に干渉するという強力無比な能力だ。生物は上級吸血鬼の言葉だけで精神状態や行動を操られることになる。それだけで十二分に怖ろしいけれど、妹の力はそれとは一線を画していた。

 妹の〈鬼聲きせい〉は物理干渉を引き起こしているのだ。それもただ叫ぶだけで。一切の指向性を持たない音声のはずなのに、辺りの物全てが破壊されていた。唯一除外されているのが、瀕死の状態で抱き抱えられている俺だけだ。


「まさか、まさか! 復活したと言うのかっ!! 再び世界に現れたのが、この吸血鬼だと言うのかっ!!」


 信じられない。信じたくない。信じられるわけがない。けれど、こんな超異常事態を説明できるような原因は他にない。


「ギィっ!!!!」


 妹の憎悪の一瞥で、白い十字架と山田の左腕が消し飛んだ。背後にあった工場に大穴が穿たれる。

 凄まじい力に、認めざるを得なかった。


「〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉……」


 二千五百年前に世界に存在したと言われる吸血鬼の王。万物万象を統べた神に等しい吸血鬼。

 〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉が、ここにいた。


「う"があ"あ"っ!! るぁあ"あ"あ!!」


 絶叫は収まらない。全てを憎むこえが地上の全てを薙ぎ払っていく。凹みがどんどん深くなっていき、アスファルトが壊れていく。

 妹の流した血が、俺の身体に降りかかる。真っ赤な温度が、体温を失っていく俺を温めていた。


「あぁ」


 妹の絶望が、伝わってくる。


 妹の恐怖が、雪崩れ込んでくる。


 俺たちの血と傷と死が、妹をここまで苦しめているのか。妹をここまで侵しているのか。


 その事実に俺は、潰れた右半身よりも心臓の方がずっと痛かった。

 俺のたった一人の妹。

 俺のたった一人の家族。

 俺の最愛の人。


 この手で守ると誓ったのに。


 絶対に幸せにすると誓ったのに。


 

 ひと時。嵐が凪いだ。




「ごめん」



 俺は、妹の身体をしがみついていた。残った片手を背中に回し、胸と胸をくっけた。互いの心音を心音で感じる距離で、妹の肩に顎を置く。


「ごめん。ごめんな」


 暴れる妹は、俺を見ようとはしない。傷口から内臓が落ちていく。痛みに意識が遠くなりかける。


「大丈夫だから」


 それでも絶対に手は離さない。妹と目が合うことはない。紅い目をした妹の牙が、本能のまま俺の首筋を咬み千切る。


「大丈夫。お兄ちゃんに任せとけ」


 血が貪られていく。俺の血が妹に流れ込み、妹の存在が俺へと流入してくる。


 吸血鬼に血を吸われた人間は、吸血鬼になる。


 吸血鬼にその意思があるならば、人間はいつだって吸血鬼になれる。


 俺は今から、破滅の吸血鬼の奴隷となる。




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