第3話
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今日の分の飛行機は全て埋まっていた。何とか見つけた定期船の空きも、深夜一時に北地区を出港する。今すぐ島から逃げ出すことは不可能で、神の悪意を感じる。
俺たちは命の危機から遠ざかることだけを考えて逃げてきた。その結果アパートに戻ってくることになってしまった。ここに来れば安全なんてことはない。それでも、生存本能のみが働いた思考は強ち間違いとも言えない。ここは西地区の工業地帯のすぐ近くだ。いざとなれば隠れるところはたくさんあるし、人目にもつかない。中地区ではかなり人に見られてしまっていたけれど、西地区に入ってからは、駅以外では数人としかすれ違わなかった。ひとまずは身を隠せたと思う。
「う……ひっく、う、うぅ……」
リョウタ君は泣いていた。ずっと泣いていた。部屋の隅で膝を抱える彼の隣には、生気を失った表情で虚空を見るリョウコさんがいる。
タカハシさんは帰ってきていない。あの状況を考えれば、きっと……。考えたくはなかった。けれど、だとするならば、どうしても大きな疑問がつきまとう。
何故、あの鬼狩りはリョウタ君を襲ったのか。
西の空に太陽が落ちた。夜がやってくる。ここからは吸血鬼の時間だ。あの鬼狩りも、多少は警戒して動きが鈍るだろう。
「お兄ちゃん……」
妹は憔悴した様子でちゃぶ台に上半身を預けている。帰ってくるまでに何度もこけたから、膝や手には裂傷がいくつもできている。吸血鬼には驚異的な回復力を持つ者もいるけれど、妹にその能力はない。カットバンや包帯が無く、消毒液を垂らすだけと言う不十分な応急処置しかできなかった。
「大丈夫だ。お兄ちゃんに任せておけ」
強がりだったし、妹もそれはわかっている。けれどこの言葉を使うしかない。
船のチケットをネットで買ったあと、俺はずっとあの鬼狩りについて調べていた。
鬼狩りとは、吸血鬼を殺すことを生業とする人間のことだ。彼らは自らの肉体に特殊金属〈十字銀〉を埋め込み、身体能力を格段に向上させている。
弱点以外で唯一、吸血鬼に有効な攻撃手段となり得るのが〈十字銀〉だ。〈十字銀〉は、吸血鬼の回復力や生命力を減衰させる力を持つ。
「あった……」
三時間もしらみつぶしに検索すれば、顔くらいしか情報はなくとも見つけられるものだ。
「山田一志やまだかずし〈銀正〉……。〈十字銀〉の適応率五十二%」
〈十字銀〉は人間の身体に埋め込むことで力を発揮する。けれど、〈十字銀〉と身体が馴染まない者の方が圧倒的に多い。〈十字銀〉に適応でき、鬼狩りとしての素質を有する者は、十万人に一人と言われている。
〈十字銀〉の適応率二十%から四十%未満が見習いの〈銀士〉。
適応率四十%から七十%未満が〈銀正〉。
そして、適応率七十%以上が〈銀羅〉。
〈銀正〉は中級吸血鬼から上級の一部と同じ戦闘力だと思って良い。少なくとも人間の領域は軽々と超越した存在だ。これだけで俺の手に負える相手ではないことがわかる。けれど、驚くべきは次の情報だった。
「総討伐数、百十三!? たった四年間で!?」
多過ぎる数字に思わず大声を出した。ひと月に二人以上のペースで吸血鬼を狩っており、全て中級以上の吸血鬼だ。本格的に歯の根が合わない。
どうしようもない現実にぶち当たって、打開策を俺以外の要素に求めてしまう。調べている間に何度も考えたのは、俺と妹がどこまで見られていて、どんな風に捉えられているかだった。
あの鬼狩りはリョウタ君を殺そうとしていた。そこをタカハシさんが守った。討伐対象を助けた吸血鬼は同罪になる。だからタカハシは帰ってきていない。
けれど、俺と妹はどうだ? 俺と妹は人間としての戸籍を持つ。人間が討伐対象を助けた場合、罪にはなるが、死刑になったりはしない。状況によっては無罪になることもある。もし鬼狩りが俺と妹を人間として扱うならば、命の危険は少ない。
「あ……」
ここまでは何度も考えていたけれど、「そこから」は意図的に止めていた。そのはずなのに、消しても消しても湧き上がってくる。
リョウタ君を鬼狩りに差し出す。そうすれば、俺や妹は助かるのではないか?
タカハシさん親子に脅されていたと言えば良い。もしくは、親子が吸血鬼だとは知らずに接していたと言うか。上手くやれば誤魔化しきれるかもしれない。そもそも、あの時リョウタ君の手を引かなければ、こんな事態には陥っていなかった。
「い、や……それは……」
頭の中で徐々に構築されていく計画を止める。そんなことは考えてはいけない。人として、そんなことは思いついてはいけない。
けれど……!
「え、リョウタ君!? リョウタ君!!」
妹の声で現実に引き戻された。見ると、なんと玄関からリョウタ君が出て行こうとしていた。
「リョウタ!? どこに行くの!?」
「な、何やって!! 戻って!!」
何をしている? どこに行くつもりだ?
急いで追いかけるが、リョウタ君は外に飛び出してしまった。アパートから離れていく。
「お兄ちゃん!」
「ナノカはここで待ってろ! くそっ!」
暗くなった通りは街灯が灯り始めている。リョウタ君は工場や資材置き場がある方へ走っていく。リョウコさんと二人で追いかけるけれど、追いつけない。子供の走る速さじゃない。まるで、別の誰かに操られているみたいだ。
「リョウタ君!」
角を曲がり、少し大きい道へと出て行く。そこからしばらく行けば、ちょっとした住宅地になる。人通りが増え見つかりやすくなってしまう。焦りと動揺で滝のように発汗する。リョウタ君を追って角を曲がると、
「これは僥倖だ」
死神がそこにいた。
「何故出てきたのかは知らないが、おかげで仕事が早く片付く」
左右に工場のある道の中央。山田が立っていた。黒いスーツの背に、重そうなチェロケースを背負っている。
妖しく光る遮光眼鏡。奥の瞳が見えた気がした。
「卑しい吸血鬼。児童に対する吸血行為の現行犯で駆逐する」
「待って!!」
遭遇は最悪の事態だった。俺は硬直してしまったけれど、リョウコさんは声を張り上げた。震える声は必死に恐怖と戦っている。
「その子は下級吸血鬼よ! 人の血を吸ったりなんかしていない! 何か勘違いをしていませんか!?」
「していない」
「な、何を根拠に!?」
「話す必要はない」
鬼狩り山田はリョウコさんと対話しようとはしない。無感情な話し方でリョウタ君に近づいていく。
リョウタ君の手を引くべきだった。走って逃げるべきだった。けれど、やっぱり身体は動かない。
「お兄ちゃん!」
「ナノカっ!? 何で来た!?」
それに、妹の悲鳴を聞いてしまった。これで守るべき対象が移り変わる。
道の中央に立つ山田とリョウタ君。少し離れてリョウコさんと俺がいて、曲がり角の所で妹が半身を出している。山田は街灯の下に暗い影を作っていた。
「お父さんは……?」
凍えるような絶望の中、震える小さな声がした。
「お父さんは……どこ?」
無表情だった山田の眉が動いた。リョウタ君の手前で立ち止まる。
「あぁ。あの吸血鬼はお前の父親か」
「……そうだよ。ねぇ、お父さんは? お父さんはどこ?」
「仕事からは逸脱するが、少しなら構わないか」
一言呟いた山田は、背中のチェロケースをアスファルトに立てる。そしてファスナーをゆっくりと下ろしていった。
「あ……」
「う、そ……だろ……?」
チェロケースから出てきたのは、真紅に変色したポロシャツを着た胴体だった。半袖から見える腕には赤い線が描かれて、指先で固まっている。
ごろん、とチェロケースから何かが転がり出た。一度回転したそれは、綺麗に俺たちの方に瞳を向けてくる。
血の気を失くして青白くなった、タカハシさんの首だった。
「吸血鬼は驚異的な再生力を持つ場合がある。それを警戒して一定時間様子を見ていた。数時間経っても復活の兆しはない。ちゃんと死んでいるな」
あまりのことに、これが現実だとは思えなかった。知っている人の、つい数時間前まで会話をしていた人の、生首が転がっている。目の前にある光景は、受け入れられない。一瞬脳機能が止まった感覚だった。
けれど。半開きになった両目が、口の端から垂れる血が、妙に硬そうな皮膚が、毒のように俺の心を侵してきて、
「う、あ、あ"あ"あ"あ"あ"!!」
口が勝手に叫び出していた。妹が崩れるように尻餅をつく。そして気を失った。
姉弟は、動かなかった。
「次はお前だ」
倒れた死体を跨いで、山田が迫る。俺は叫びの延長線上で唾を飛ばす。
「リョウタ君は!! 血を吸ってなんかないっ!!」
「吸っていた。公園で、この吸血鬼は子供の血を吸っていた」
「嘘だ!」
「そうだよ吸ってたよ!」
突然大声を出したのは、俺でも山田でもなく、リョウタ君だった。
「そうさ吸ってたさ! 僕の【
え、と馬鹿みたいな音が口から漏れてしまった。
「水筒に僕の血を混ぜてたんだ! それを子供に飲ませて血が出たところで、口で消毒するフリをして血を飲むんだよ!」
声を大にして両手を広げる。政治家の演説のようだった。
「ちょっとだけだよ! 別に痛みも感じない! ほんのちょっと血をもらうだけだ! それは悪いことなの!?」
悲鳴に似た問いに、山田は間髪いれずに答えた。
「悪だ」
「っ!! お金がないから欲しい物も買ってもらえない! ご飯だって食べられない! 僕とお父さんとお姉ちゃんが毎日仕事をしても、いつまで経ってもお金は増えない! こんな環境にいる僕が、たまに血を吸うのは悪いことなの!?」
「悪だ」
「どうして僕らはこんな辛い目に遭わないといけないの!? おかしいよ! ただ生きてるだけなのにっ!!」
気を取り戻したらしい妹が、いつのまにか俺の背中で震えていた。リョウコさんは唖然としてアスファルトに膝をついた。俺もリョウタ君の子供らしからぬ激昂に、驚愕と身体の震えを禁じえなかった。
「ただ普通に生きたいだけなのにっ!! それすらダメなの!? なら僕たちは何の為に生きてるの!?」
肩で息をするリョウタ君は、涙目で山田を睨みつけていた。それに対して山田は表情を動かすことなく黙している。そして静かに口が開かれた。
「悪だ」
実に淡々としていた。淡々と話しながら、リョウタ君に向かって歩いていく。
「望むことが悪だ。食べることが悪だ。金を稼ぐことが悪だ。現実を受け入れないことが悪だ」
語る声はどこまでも、冷ややかだった。
「お前たち吸血鬼は、生きていることが悪なのだ」
山田とリョウタ君との距離は、一歩分にまで縮まっていた。
「邪悪な思想だ。ここで狩る」
遮光眼鏡が街灯の光を反射した。
「〈
見えたのは、山田が巨大な十字架を振り上げている瞬間だった。何の予兆も予備動作もなく、二メートル近い十字架が現れ、細いステッキのように掲げられている。
そして。
しゅっと言う風の音が聞こえた。俺の頬に生暖かい液体が付着する。開けたままだった口に飛び込んできた鉄臭さで、それが血だと認識した。
「え……」
白い十字架は水平に振り抜かれていた。あれだけ大きな物が目の前で動いたというのに、その過程を見ることはなかった。ただ、今俺の目に映っているのは、首から上が消失した、リョウタ君の胴体だった。
胴体は一度首の根元から血を吹き上がらせると、左右にゆっくりと揺れる。最後には力なく後ろ向きに倒れていった。
赤い筋肉と白い脊椎の断面が俺の瞳を覗いている。
リョウタ君だったものが、大きめの肉片に成り果てていた。
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