第2話



 妹の奇妙な体調不良の原因は分からずじまいだった。もうしばらく様子を見るしかない。けれど、甘いパンケーキをふた皿たいらげた妹を見て、ひとまず笑みが溢れる。


「あ、そうそう」


 雑談をしていたホリ先生が突然口調を変えた。切れ長の目に影が生まれる。


「近頃、〈鬼狩り殺し〉が頻発してる」


「〈鬼狩り殺し〉……? なんですかそれは」


 あまりに物騒なフレーズに全員の手が止まる。


「言葉の通りさ。誰の仕業かはわからないが、今月だけで三人の鬼狩りが殺されている。全員〈銀正〉の鬼狩りだ」


 〈銀正〉の鬼狩り。〈十字銀〉適応率四十%以上の連中だ。下級吸血鬼が百人束になったって勝てない。それが三人も殺されている。俺と妹、タカハシさん親娘は怯えた顔を見せ合った。


「本当なんですか? 俺、鬼狩り関連のニュースは注意して見てますけど、そんなのどこにも載ってなかったですよ」


 吸血鬼や鬼狩りに関する情報は妹の安全と直結する。毎日目をさらにして調べているつもりだ。


「鬼狩りにとっては不名誉なことだからね。だから一刻も早く〈鬼狩り殺し〉を殺すために、優秀な鬼狩りが本土から送られてきている。君たちがその余波を食らわないよう、十分注意をしてくれ」


 ごくりと生唾を飲んだ。どこの誰だかは知らないけれど、何て怖ろしいことをしてくれるのか。おそらくは中級以上の吸血鬼の仕業だろう。教えてくれたのが食後で良かった。先にこんなことを聞かされていれば、不安で食事している暇なんてなかった。





 ♢


 ♢





 東京湾から南西七十キロの太平洋沖に浮かぶ海上都市〈銀華〉。超希少金属である〈十字銀〉の採掘を目的に、国家予算の二割を投資してつくられた人工島だ。完成以来、〈十字銀〉産業や吸血鬼研究が発達し、人口が爆発的に増加した。現在では百二十万人が暮らす大都市となっている。

 俺たちは、吸血鬼と戦うためにつくられた島で生きている。





 ♢


 ♢





 妹の体調不良だけでも頭が痛いのに、嫌な話を聞かされた。しばらくは外出を控えた方が良いかもしれない。喫茶ホリを出てからも、俺の思考はそればかりに割かれていた。


「お兄ちゃん、どないしたん? なんか怖い顔して黙っとるけど」


「あ、いや」


 隣を歩いている妹に上目遣いで覗き込まれた。心配そうな顔に思わず手を振ってこたえる。


「ぼーっとしてただけだよ。気にしないで」


「そう? なら良えけど」


 体調の異変が一番怖いのは妹自身だ。俺が暗い顔をしていたら余計に不安がらせてしまう。


「熱中症は怖いですよ。良ければこれを」


 リョウコさんが水筒を渡してくれた。ご厚意に甘えてコップに水を注ぐ。小さな氷がからんと落ちてきた。


「今日も暑いもんね。僕も水筒持ってきてるよ!」


「リョウタ君は賢いね」


 前を行くリョウタ君が笑う。二か月ぶりのお父さんのお休みが嬉しいのだろう。今日は三人で買い物だそうだ。

 俺たちが住む西地区は工業地帯だから、お店なんてほとんどない。ちょうど俺と妹も用事があったから、五人で連れ立って中地区へとやって来ていた。

 東西南北と中地区の五つに分かれた〈銀華〉は、それぞれをいくつかのモノレールでつないでいる。これの料金がそこそこ高いせいで、俺たちのような者はそうそう地区を跨ぐこともない。リョウタ君が中地区に来るのは三度目だそうで、期待と興奮でずっとそわそわしていた。


 商業施設が集中している華やかな中地区は、どんな道でも人通りが多い。行き交う人波は途切れを知らず、肩をぶつけないように注意が必要だった。

 そんな雑多な人混みの中で、ナノカは周囲の注目を一身に浴びていた。それもそのはず、俺の妹は、他者と比べようがないほど美しい容姿をしていた。ぷくりと赤い唇に、すっと通った鼻梁。陶器のような肌が清廉な雰囲気を感じさせるが、大きな瞳には人懐っこい愛嬌がある。セミロングの黒髪は滑らかすぎて陽の光に輝いている。

 すれ違う全ての人が、妹の美しさに見惚れて振り返り、立ち止まる者すらいる。男性はもちろん、女性でさえも妹に目を奪われ、頬を染めていた。

 しかも外見だでなく性格まで愛らしいのだから、向かうところ敵なしだ。妹は俺の宝物であり、唯一の自慢だった。

 けれど、妹は周囲の視線に気づいていない。並ぶ店々を楽しげに見学し、時折リョウタ君と話をして笑っている。妹の神々しさに周囲がスペースを空けているから、妹だけが歩きやすそうだった。けれど、


「あっ」


「む」


 ちゃんと前を見ず歩いていた妹が、黒スーツの男とぶつかった。


「すみません!」


「いや、こちらこそ」


 男は立ち止まることなく目礼をして、すぐに人混みに紛れていった。背中に担いだチェロケースの先が折れ曲がっているのが見えた。中身が入っていないらしい。


「大丈夫か? あんまりキョロキョロするなよ」


「うん。気をつける」


 それこそあの男が鬼狩りだったらと思うとぞっとする。人間と吸血鬼を見分ける方法は限られているけれど、それでも心配だ。今日はネガティブな想像ばかりしてしまう。悪いイメージを消し去るように頭を振っていると、


「あの、申し訳ない。ちょっとトイレに行ってきて良いかな。アイスコーヒーがあたったらしいんだ」


 タカハシさんが青い顔をしていた。道の向こうの公園を指差している。敷地内では夏休みを満喫する子供たちが元気よく駆け回っていた。それとは対照的なちょっと情け無い姿に、自然と顔がほころんだ。


「もうお父さん!」


 姉弟は恥ずかしそうに眉根を寄せる。何気ない一コマだったけれど、不思議と親子の仲の良さが伝わってきた。


「構いませんよ。じゃあ俺たち待ってますね」


「そ、それじゃ!」


 タカハシさんは小走りでトイレまで行ってしまった。後ろ姿を四人で見送る。


「うちらはベンチで待ってようか」


 俺たちは木陰のベンチに向かう。リョウタ君とリョウコさん、俺、妹の順に座る。日陰と言っても暑さは変わらず、歩くのをやめたことで汗がどっと噴き出してくる。

 リョウコさんとリョウタ君はお行儀よくハンカチで汗を拭っている。リョウコさんのノースリーブの肩が直に当たってちょっと恥ずかしい。そんな心情を読まれたのか、妹がじっとりとした視線を送ってくる。

 そんな中でも気になるのは、妹が制服の襟元を掴んでパタパタしていることだ。はしたないから頭を小突いてやめさせた。さらに睨んでくるが、口笛を吹いて知らん顔をする。


「ねぇ、ハツカお兄ちゃんにナノカお姉ちゃん」


「ん?」


「僕、来年から学校に通えるんだ」


 思わぬ嬉しい報告に妹と二人で喜ぼうとして、


「なんで僕たち吸血鬼は、普通に学校に通えないの?」


 リョウタ君の質問で言葉を失った。


「ちょっとリョウタ!」


 リョウコさんが慌ててたしなめた。けれど、疎外感を多分に含んだ疑問は俺たちの胸に否応無く突き刺さる。


 吸血鬼は、義務教育も無償教育も受けられない。と言うより、人間が当たり前に持つ権利のほとんどを所持していない。それは憲法でそう定められている。人が吸血鬼を殺しても、殺人罪は適応されない。人を襲ったことのない吸血鬼を意味なく殺した場合でも、傷害罪程度にしか裁かれないのだ。罪のない吸血鬼が人間の腹いせにリンチされることなんて珍しくもなかった。

 タカハシさんは〈十字銀〉の加工工場で働き、リョウコさんはそこの事務所に勤めている。〈銀華〉には公立校がないせいで、二人のお給料ではリョウタ君を学校に通わせてあげられないのだ。


 こんなにも下級吸血鬼が抑圧され、虐げられている原因は上級吸血鬼にある。奴らには常識や平和の概念がない。簡単に人を殺し、欲望のままに血を啜る。奴らの惨虐で身勝手な行いのせいで、殆どの人は吸血鬼を酷く嫌悪している。だから、下級吸血鬼は人よりも下のカーストに位置付けられてきた。

 そして、そんな下級吸血鬼の生活ですら、ギリギリで保たれているに過ぎない。極一部の良識ある吸血鬼派閥、秩序オルダー派の折衝で生きていることを許されている。


 けれど、生きていられるだけで満足しろ、なんて言えるわけもない。俺たちだって、幸せを願うだけの知性があるのだから。


「いつか、〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉が僕らを助けてくれるのかな」


 リョウタ君が口にしたのは、大昔に存在した吸血鬼の王の名前だった。万物万象の王だった〈殲血の女王ブラッド・クイーン〉は、吸血鬼の理想郷を作りあげたと言われている。そんなものは本当かどうかもわからないおとぎ話で、本気にしている者なんていない。けれど、信じたいと思ってしまうような状況だった。


 俺と妹は、黙ったままだ。そんな俺たちをどう思ったのか、リョウタ君はベンチを離れる。そして、公園で遊んでいた子供の元へ歩いていった。リョウタ君は水筒の水を子供に飲ませてあげている。


「あの、ごめんなさいね。気にしないで」


「いえ、すみません」


 意味もなく謝ってしまった。気まずい沈黙が、木陰に落ちる。

 妹は学校に通えている。俺の血を飲んでいるから、渇きに飢えることもない。下級吸血鬼の中ではあり得ないほど恵まれている。そんな自らを恥じるように、妹は下唇を噛んでいた。


「別に、悪いことなんてない」


「けど……」


 俯く妹の頭を撫でた。


「ん……?」


 その時、どこか見覚えのある男が視界に入った。折れたチェロケースを担いだスーツの男だ。そいつは公園の外から子供たちをじっと観察している。変質者か? あの男が何かする前に何とかしないと、と言う平和ボケした思考が生まれたその時。


 一瞬で背筋が凍りついた。男の肉体から跳ね上がった激烈な殺意を身体が感じ取ったからだ。まるで心臓を素手で握られているかのような恐怖。脚が硬直し唇がわなわな震える。

 男の感情が目に見える色となって溢れ出ていた。赤と黒の泥が混ざり合ったような醜く気色の悪い色。

 男は無音で公園に入ってくる。その足が止まったのは、リョウタ君の前だった。俺は動けない。動いてはならない。


 一秒後、男は巨大な白亜の十字架を振りかぶっていた。ラテン十字の下部分を持ち、上部を空に向けて構えている。男の身体よりも大きな十字架がどこから現れたのかとか、いつ現れたのかとか、それらは一切視界に映らなかった。ただ、振りかぶった一瞬だけが目に入った。十字架が青白く発光。そして、


「あ、がっ!!」


 赤黒い血液が近くの砂場に飛び散った。

 男の十字架は、先端を地面に深々とめり込ませて停止していた。左端にはべっとりと血がこびりつき、何か肉片のようなものが辺りに撒き散らされている。


「っ〜〜!! りょ、君たち!!」


 叫び声がした方に目が行く。左耳の位置から血を流すタカハシさんが転がっていた。腕の中には、事態を理解し切れていない表情のリョウタ君がいる。


「逃げてくれっ!! この子をっ!! ど、どこでも良い!!」


 震える叫声が自分に向けられているのだとは気づけなかった。景色が白と黒に反転して、ベンチに座る俺たちは何が起こっているのかすらわからない。身体が固まっていた。けれど、


「午後三時をお知らせします。午後三時をお知らせします」


 ゴーン! という古くさい振り子時計の音が頭上で弾けた。奇しくも俺たちの真後ろにあるポールの上に、時計が設置されていた。音に反応した身体が動き出す。


「リョ……! きみ!!」


 何故タカハシさんが俺の名前を呼ばなかったのか。何とかそこまで頭が回る。こちらに走ってきたタカハシさんからリョウタ君を受け取ると、全速力で飛び出した。抱えることなんてできないから、ほとんど引き回すようにして走る。


「おに……ちゃ! 待って!」


 俺の右手はナノカの手首、左手はリョウタ君の手を握りしめていた。まずは利き腕の右手が妹と繋がっていることだけを確認する。すでに頭の中で優先順位ができあがっていた。リョウコさんがついて来ているかなんて考えてもいなかった。

 振り返らない。振り返ってはいけない。あそこにいるのは鬼狩りだ。正真正銘の死神だ。

 乱雑な思考が複数の疑問符を生み出していく。


 どこまで見られた? 


 顔は? 


 声は? 


 名前は?


 俺たちの情報はどこまで伝わっている?


 これからどうすれば良い!?


 逃げ出した俺は混乱状態の中で一つだけ具体的な案を得ていた。ぐちゃぐちゃになった脳内で湧き出した悪魔のように効果的な一案。


 リョウタ君を差し出せば、妹は助かるのではないか?




 ♢

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