銀と妹と殺戮の吸血鬼

夏目りほ

第1話




 ♢



 築三十年の木造アパートの一室。安物のクーラーが頼りなく微風をそよがせていた。けれど、そんなものでどうにかなるほど今年の夏は甘くないらしい。

 小さな1DKの部屋で兄妹二人、ぐったりと冷蔵庫にもたれかかっていた。


「お兄ちゃん……暑いんやけど……」


「そうか。お兄ちゃんもだ……」


 俺のTシャツを勝手に着ている妹は、額に玉の汗を浮かべている。投げ出された長い脚を見て、お願いだからズボンかスカートを穿いてくれと思う。


「お昼はそうめんにしよう。冷たいし良いだろ?」


 暑い中茹でるのは億劫だったけれど、そうめんなら食欲が失せていても食べられる。しかも俺が用意してあげるというお得な提案だ。だと言うのに、妹はすぱりと拒否してきた。


「嫌や。昨日もそうめん。一昨日おとといもそうめん。その前の日もそうめん。四日連続そうめんって、うち、そのうち麺類に進化してしまうやん」


「それは進化なのか?」


「先生のところで食べよ? たまには良いやん」


「う〜ん」


 先日インターネットの工事をしたため、家計がちょっと苦しいのだ。暑さを建前に貰い物のそうめんでしのぐつもりだったけれど、妹は飽きてしまったらしい。

 しばらく迷った結果、昼食は先生のお店で食べることにした。もともと伺う予定はあったから、そのついでだ。

 支度を始めようかと立ち上がりかけ、その前に、妹に向かって手を広げた。


「ほら」


「……」


「出かける前に。吸っておかないともたないぞ」


「……嫌や」


「またそんなこと言って」


 そっぽを向く妹の両肩に手を置く。二人の汗と汗が重なって水滴となる。


「……嫌。嫌や」


「ダメ」


 腕の中でぐずる妹を、強引に引き寄せる。不思議と汗の匂いがしなかった。妹はしばらく俺を睨んでいたが、とうとう観念したように目をそらした。

 熱っぽい吐息とともに妹の唇が近づいてくる。

 ちり、と言う小さな痛みが首筋で生まれ、その直後、後頭部に甘い痺れを感じる。

 妹の尖った犬歯が、俺の首筋に突き立てられていた。牙を通して吸い上げられた血が妹の喉を潤していく。嫌だとは言いつつも本能には抗えないようで、一度吸い始めると止まらない。

 妹は自分の本性が嫌いらしい。中学三年生で思春期真っ盛りの妹だからこそなのかもしれない。抵抗するかのように、俺との間に両手で壁を作っていた。

 吸血が終わった。けれど、首筋から牙を抜いた妹は、まだ俺から離れようとしなかった。どうしたのかと首を傾げると、


「お兄ちゃん」


 妹が俺の服の裾を掴んだ。気まずそうに斜め下を向いている。


「ごめんな……」


 赤く濡れた唇から零れた謝罪に、胸が苦しくなった。目を瞑りそうになる。


「うちのせいで、いっぱい苦労しとるよな。ほんまに、ごめんなさい」


 唐突だったけれど、妹の中に燻っていた感情だったに違いない。

 妹は、時折こうして俺に謝る。その度に鈍い痛みが胸に去来する。それを少しでも和らげるため、俺は妹を抱きしめた。


「大丈夫。お兄ちゃんに任せとけ」


「……うん」


 また、お決まりの一言を返した。俺達は互いの痛みを中和するために少しだけ抱き合った。

 弱い吸血鬼は、肩身の狭い息苦しい思いをしながら生きていくしかない。俺たち兄妹は、そんな世界で助け合って生きてきた。けれど、妹はどうしても負い目を感じてしまう。それを和らげてあげることができない自分が、こんなにも歯痒い。


「ほら。着替えてこい」


「……うん」


 妹は小声で返事をすると、壁にかけているセーラー服を手に取った。白と青の色合いに、赤いスカーフ。夏らしい爽やかな装いだ。


「なぁ、なんで制服?」


 夏休み中なのに制服を着る理由がわからなくて問うてみた。


「え、これが一番楽やし……」


 お洒落が生きがいな思春期とは思えない返答をされた。私服を持っていないわけでもあるまいに、何故そう淡白なのか。無駄づかいする性格ではないのは助かるけれど、もう少し欲張りでも良いと思う。

 アパートの外は、肌の弱い人なら外出は控える日差しだ。妹がしっかり日焼け止めを塗っているかを見ておく。けれど、それだけで対策できることが問題だった。




 ♢


 ♢





「お、美人兄妹。来たね」


「やめて下さいよ。妹はともかく、俺はそんなんじゃありません」


「君が言うと嫌味にしか聞こえないねぇ」


 喫茶ホリに入ると、先生が嬉しそうに手を振ってきた。クーラーの効いた店内は、外との気温が違いすぎて鼻がむず痒くなる。

 古本が壁にぎっしりと並ぶ店内には、丸卓と椅子が三セットだけ。ここは小さな古本喫茶だった。カウンターの奥に座る髪の長い大人っぽい女性が身を乗り出してくる。この人が俺の先生、ホリ先生だ。


 喫茶ホリはコーヒーの美味さと珍しい古本がウリだけれど、ホリ先生を目当てにやってくるお客さんも少なくない。とても綺麗な人だった。


「それで、ナノカくんの調子は?」


「はい。ほらナノカ」


「わかっとるよ……」


 先生にカウンター席を勧められた。店内に他の客はいない。今なら周りを気にしなくて良い。


「十字架が、今までは見るだけで吐きそうになってたんですけど、最近は触れるんです」


「ほう」


「あと、日光も。今日も日焼け止めを塗っただけで、全然平気なんです」


 自宅からは三十分近くかかると言うのに、妹は日傘をさしてこなかった。


「それと……」


「それと?」


「その……血が、凄く飲みたい、です……」


 自らを嫌悪するような声で妹は言った。妹にとって血は必要不可欠なものであるけれど、受け入れることはどうしても無理らしい。


「ふぅむ。吸血鬼にとって、弱点とは絶対だ。上級や下級に関わらず平等であり、克服できるものではない。悪化することはあるが。だが、実際にそれが起こっている……」


 先生がぶつぶつと独り言を漏らす。


「あの、色々調べても全然わからないんです。妹はどこかおかしいんでしょうか?」


「今日は血を与えたかい?」


「はい」


「いつも君が血をあげているんだろう? それがあまり良くないのかもしれないね」


 吸血鬼の父と人間の母を持つ俺たちは、何故か別々の種族として生を受けた。俺は人間で、妹は吸血鬼。先生が言うには、世界的にも例のない超希少な事例らしい。だが、そのおかげで妹は俺の血を飲むことで栄養を安全に摂取できている。ある意味では恵まれたことだった。


「近親相姦で産まれた子供は障害を持つ確率が高まる。君たちの食事はそれに近い。悪影響が出だしたのかもしれない」


「そんな……」


 近親相姦という生々しい単語に妹は過敏に反応している。白い頬が赤くなっていた。

 数日前から始まった妹の体調不良。弱点の緩和と吸血衝動の高まりという不可解なことが一気に起こっていた。先生はいざという時に頼れる唯一の人だ。けれど、そんな先生でもわからないらしい。店内がしんと静まる。すると、


「お、やっぱりここにいた」


 チリン、という小さな鈴の音がして、痩身の男性が店に入ってきた。若い女性と小学校低学年くらいの男の子を連れている。


「タカハシさん。どうしたんですか?」


「二人のアパートに行ったら留守だったから、ここじゃないかと思って。あ、先生。お邪魔します」


 人の良さそうな笑顔で頭を下げる。この男性はタカハシさんと言って、俺たちの境遇を知る数少ない知り合いだ。青いポロシャツの襟を汗びっしょりにしている。隣にいるのは娘のリョウコさんと息子のリョウタ君。十歳近く歳の離れた姉弟だ。


「ハツカお兄ちゃん、ナノカお姉ちゃん、こんにちわ!」


「こんにちは、リョウタくん」


 茹だるような暑さの中でも、リョウタ君は元気いっぱいだ。小走りにカウンターに駆け寄ってくる。


「久しぶり、ハツカ君。元気してたかな?」


 リョウコさんがストレートロングの髪をかきあげる。至近距離でにこりと微笑まれた。この人は美人ではないけれど、独特な色気がある。涼しげな水色の花柄のロングワンピースがよく似合っていた。

 

「お兄ちゃん? なんかデレデレしとらん?」


「してないよ」


 身に覚えのない罪で睨まれた。妹は俺が女の人と話をすると少しアタリがきつくなる癖があった。


「それで、今日はハツカ君にこれを」


 タカハシさんが俺に茶封筒を両手で差し出してきた。けれど、中身がわかっているから受けとれない。


「あの、本当に結構ですから」


「いや、もらってくれ。少なくて申し訳ないけど、本当に感謝してるんだ」


「けど……」


「ナノカちゃんを大学に行かせてあげたいんだってね。少しでも足しになれば良いと思ってるの」


 リョウコさんがそう言った。ナノカは中学三年生。今年は高校受験だ。二つ歳上の俺が中卒で働いているから、学費は十分貯まっている。ただ、大学に行かせてあげられるにはまだ足りない。茶封筒の中はお金だ。これは、俺の血を譲ってあげたお礼なのだ。


「いつもありがとう。国が売っている血液の三分の一の値段くらいしか払えなくて申し訳ない」


 吸血鬼と人間が共存する現代。いや、共存ではない。〈爵位級アッパー〉に代表される上位吸血鬼は、吸血衝動と破壊衝動のままに人間を襲う。そしてそれと闘う〈鬼狩り〉。世界中で血生臭い残酷な殺し合いが繰り広げられていた。


 けれど、下級吸血鬼に人を襲う力なんてない。人を襲った時点で駆逐対象とみなされ、即座に鬼狩りに殺される。

 吸血鬼に対する武器〈十字銀〉を身体に宿す彼らは、慈悲も容赦もなく吸血鬼を殺す。弱い下級吸血鬼は抵抗なんて不可能だ。だから、生きるために必要な血液を国から買い取ることで何とか生活している。


 吸血鬼一人が必要とする血液の目安は、ひと月に二百ミリリットル。それが国から約七万円で売られていた。存在だけで忌避され、まともな仕事に就くことが難しい吸血鬼には、あまりに重い負担だ。


 タカハシさん親子は下級吸血鬼である。俺とナノカの体質を知るこの親子に、俺は血を分け与えていた。逆にタカハシさんは、食べ物や生活用品を譲ってくれる。俺たちのような弱い吸血鬼は、こうして助け合って暮らしていた。

 

「まぁ、みんな座りたまえ。昼食はまだだろう? 何か頼むと良い。安くしとくよ」


 この世界は、弱い吸血鬼には厳し過ぎる。それでも、慎ましい幸せを何とか守って生きてきた。俺や妹だけでなく、みんな身を寄せ合うようにして助け合っている。そんな大切な日々を確認するかのように、俺たちはカウンターに座った。


 その全てが崩壊するのは、二時間後だ。





 ♢


 ♢





 アスファルトが溶けそうな強烈な日差し。蝉の鳴き声すら気怠げな真夏の正午。男が一人、空港の正面出入り口から姿を現した。右手で大きなキャリーケースを運びつつ、二の腕に黒スーツの上着を抱えている。顎から汗が滴り落ちた。男は青い空を見上げる。

 遮光眼鏡の奥の瞳は、鋭かった。


「私だ」


 ズボンのポケットが揺れた。ケータイを取り出して耳に当てる。


「あぁ。今着いたところだ。ホテルに荷物を預けてから、仕事に移る。あぁ。あぁ」


 短いやり取りをしてすぐに電話を切った。近くのタクシー乗り場を探して歩き始める。

 男の背中に担がれているチェロケースが、くたびれたように折れ曲がっていた。




 ♢

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