二章
第6話
♢
テムズ川河畔に座するウェストミンスター宮殿。中世後期を王室の住まいとして過ごしたこの世界遺産は、今ではイギリス王室議会制度の誇り高き聖域である。あまりの荘厳な美しさに世界中から観光客が訪れる建築物は、今日も我が物顔でロンドンの象徴としての務めを果たしていた。
しかし、そんな栄えある宮殿も、今宵は得体の知れない底気味悪さを纏っていた。立ち込める霧が巨人の吐く溜息のごとく街を包み、佇む時計塔ビッグベンは横たわる宮殿の墓標に見える。どんなに華やかにライトで照らし出されていても、歪みと不吉さが内内から漏れ出していた。
かつんかつんと足音が反響する。セント・スティーブンス・ホールの彫刻たちは、足音の主を静かに見下ろしている。高い天井のステンドガラスは月明りを床に落としていた。昼間は観光客でごった返していたホールも、夜になれば寂しさだけが息をしている。
歩く主が辿り着いたのは貴族院だった。ロイヤルブルーのカーペット。赤い革張りの椅子。ただ会議をするだけの空間にしてはあまりにも贅を凝らした場所だ。しかし、今は夜。侃侃諤諤の議論を行う議員たちの姿はない。どんなに煌びやかな装飾も、鑑賞してくれる人間がいないなら無意味である。当然灯はつけられておらず、議会場には闇が広がっている。
「(皆さま。今宵は急なお呼び立てにも関わらずお集まり下さり、誠に有難うございます)」
声の主は咳混じりの小声で言った。か細く弱々しい少女の声は何故かやけに大きく響いた。無人のはずの議会場だと言うのに、誰に語りかけたのか。
「(なに! 集まらざるを得ない理由があったではないか! そう畏まらないでいただきたい!)」
しかし、それに答えた者がいた。喧しい声を出す暑苦しい巨漢の男。議会の最前列の椅子二人分に尻をのせていた。
「(半分も集まってないじゃん。馬鹿じゃないの?)」
部屋の隅で体育座りをしていた青年が続ける。長い前髪が顔色の悪さを隠していたが、陰鬱な気配までは消しきれていない。
彼の発言に、最初に礼を言った少女が残念そうに俯いた。少女の髪はプラチナ色。透けるような肌も手伝ってあまりに儚げな印象を受ける。
「@EはT○%ス?W¥」
するとここで、人類の言語とは掛け離れた音を口にする者が現れた。その者は頭部全てを血で汚れた包帯で巻いており、男か女かもわからない。
「(うむ! 相変わらず〈死星卿〉は何を喋っているのかわからんな!)」
何が面白いのか、巨漢が豪快な笑顔で膝を叩く。
「(早く本題に移れと言っておる)」
すると、不遜にもエリザベス女王の席に腰掛ける老人が溜息を吐いた。少女が頷き、また咳をしながら話し始める。
「(皆さまお気づきかとは思いますが、つい数時間前、日本の人工島で〈あのお方〉が目を覚まされました)」
「(素晴らしい!)」
「(五月蝿いな……)」
拍手する巨漢に青年が舌打ちする。
「(それで、我らはどうする?)」
老人が鋭い声音で放った問いに、少女は戸惑い逡巡した後、頼りなく言う。
「(おそらく……〈あのお方〉はまだ十全ではありません。ですので、今後しばらくは静観します)」
「N?$ひ!P○A%やす&!!」
包帯が叫んだ。
「(それじゃあ他に先を越されるって言ってまーす)」
若々しい声が聞こえてきた。スマートフォンを近距離で眺める少女だった。茶髪を二つの団子に結った髪型にブレザーの制服姿。日本の高校生だった。
「(ごもっともなご意見です。ですので、既に〈禁喜卿〉が監視と保護に向かっております)」
「(何故あの男が!?)」
「(たまたま日本にいたんだってー。先月ウチも会ったからホントー)」
女子高生がスマートフォンから目を離さずに手を挙げる。青白い光が彼女の顔を照らす。八重歯が特徴的な子供っぽい顔つきだった。
「(大丈夫なの? あいつかなり胡散臭いよ)」
「K@6○か%シやJ」
空気が荒れてきた。老人も口に出すことはしないが、苦々しげに唇を噛んでいる。〈禁喜卿〉の名前に皆信用が置けないらしい。だが、
「(全てはお母さまのご意思なのです。然るべき対応も既に〈禁喜卿〉が打ってくれています)」
沈黙が流れた。不満の気配はまだ残っていたが、それても全員が承諾の意を示した。
少女はホッと一息をつく。
「(それでは)」
持っていたティーカップを少女が掲げた。他の者も倣う。
「(序章の終わりと快楽の始動に)」
全員がカップの中身を飲み干す。人肌に温められた赤い液体だった。
直後。六人の男女は、ロンドンの霧となって消えた。数分間の邂逅は、誰に知られることなく終了した。
ビッグベンの長針と短針が十二を指し示している。
♢
♢
木の丸椅子に座ってかれこれ十二時間。背もたれを頼らないままの姿勢は、俺の腰に鈍い痛みを生んでいた。膝の上に置いた両手を見つめる。昨晩石鹸をすり減らせて洗い上げたけれど、まだ血の匂いが残っていた。
カーテンは室内を守るように閉め切られていて、電球の灯で照らされていた。部屋の中央には、大きなベッド。そしてそこには、俺の妹が寝かしつけられていた。
「眠っていないのかい?」
小さなノックで先生が部屋に入ってきた。ここの家主は先生だけれど、眠る妹に配慮してくれたのだ。
「君が起きていたってナノカくんが目覚める訳じゃない。少し休むべきだ」
「眠れないんです」
垂れていた頭を上げた。眠る妹の横顔に視線を注ぐ。けれどまたすぐに視線を落とした。揺れる手のひらを凝視する。
「身体が逸って、頭が冴えて、目を瞑っても色んなことを思い出して……」
タカハシさんの首、リョウタ君の胴体、リョウコさんの顔、俺の内臓。見たくもなかった光景が何度もフラッシュバックして意識を苛む。
それだけじゃない。どうしても受け入れられない事実を知って、動揺が抜けきっていなかった。
「昨晩は勢いで行動できたけれど、改めて考えてみると、怖ろしいことばかりでした」
どんなに言葉にして確認しても、俺自身意味がわからなかった。
「妹が〈
昨晩見せた圧倒的な破壊。あれを引き起こしたのが妹だなんて、どんなに考えても信じられなかった。
おとぎ話の中の存在、〈
「昨晩、君たちが血みどろで転がりこんできた時、私も全てを悟ったよ。何せ、あまりにも衝撃的な力だったからね」
山田が起こした自爆は、十字銀適応率を超過した発動によるものだった。十字銀を身体に埋め込む鬼狩りは、適応率を超える使用をすると肉体が爆散する。それを利用したのだ。
背後から襲う爆発から俺は間一髪で逃げることができた。風圧で二、三メートル飛ばされてしまったけれど、妹だけは守り抜いた。
なんとか生き残ったあと、救いを求めて先生のお店に駆け込んだ。もう先生しか頼れる人がいなかったからだ。
「世界中の吸血鬼が〈
世界中の吸血鬼、という言葉が重くのしかかってくる。頬が軽く痙攣を起こしているのを自覚した。
「吸血鬼たちの〈
吸血鬼の約九割を占める〈
それとも、名実ともに人間側の最強戦力である〈
最悪だった。平時では思い描くことすら不可能なほど最悪の事態だった。
泣き出しそうな顔で震える俺を、先生は苦しげに見ていた。こんな状況、一個人ではどうしようもない。何が起こるかわからない絶望感が心の重石となる。
「妹が起きたら、島を出ます」
「それは……!」
「これ以上先生に迷惑をかけられません。何とか隠れて暮らしていこうと思います」
唯一の救いは、〈
眠る妹は綺麗だった。長い睫毛は、閉じられた妹の瞳が美しいことを確信させてくれる。
寝息は静かで、目元こそ腫れていたけれど、安らかそうな寝顔だった。あんなことがあったとは気づいていないのかもしれない。このまま一生夢の中に居られたらどんなに良いか。
すぐにでも逃走の説明をしたい気持ちと、いつまでも平和な夢に浸っていて欲しい気持ちが交差する。けれど、そんな心の揺れ動きを神が嫌ったのか、妹がゆっくりと瞳を開く。
天井を見上げた視線は、左右に揺れ、とうとう俺の顔を見つけた。
「おにい……!!」
「待って」
涙目で飛び起きてくる妹を手で制した。逆の手でぐっと口をふさぐ。俺の行動に、妹は混乱してジタバタする。
「落ち着いて」
昨晩先生と話し合って出した結論があった。何を置いても、それを一番最初に伝えないといけない。
「昨晩のことは覚えてる?」
先生が綺麗に洗ってくれた妹の額に、汗が噴き出してきた。顔色も急激に悪くなる。そして、妹の喉を逆流してきたものがあった。
「う」
もしかしたら、こうなるかもしれない。そう思って準備していた風呂桶を差し出す。妹はそれに盛大に嘔吐した。色々な食べ物がぐちゃぐちゃに溶け合ったものが桶にぶち撒けられる。一気に吐き出した後も、妹は繰り返し嘔吐した。
叫び出したくなるほど胸が痛む光景だった。桶に吐瀉物が溜まり重くなることが途方もなく息苦しい。過呼吸になりそうなのを何とか堪えた。
「大丈夫?」
もう嘔吐するものも残っていないようだった。喉を焼く胃液に咳き込んでいる。華奢な背中をさすって、落ち着くまで辛抱強く待った。
「う、うぅ……」
まだ顔色は悪かったけれど、ひとまず嘔吐は止まった。必要なくなった桶を床に置く。しなければいけない話の邪魔になるからだ。こんな状態の妹に、ここからさらなる苦痛を強いることになる。けれど、それを伝えるのは俺であるべきだ。
「ナノカは、〈
妹が声で肯定しようとするのを無理やり止めた。
「〈
自分が〈
「【
〈鬼聲〉は物理干渉をしないという常識は、〈
「ナノカは、これから一言も喋らないでくれ」
こんな言い方しか思いつかなかった。もっと他にあっただろうに。
妹は固まっている。
「喋るだけで人や吸血鬼が死ぬ可能性すらあるんだ。それに、喋って何かしらの力が発揮されたら、俺たちがこの島にいることがバレる。それだけは何があっても避けたい」
本当は、〈鬼眼〉があるため目を開くことすら危険だった。けれど、そこまで制限する気にはなれなかった。
「ごめん。本当に、ごめんなさい。俺、ナノカのお兄ちゃんなのに、何もしてあげられない……!」
妹と話をすることで、我慢の糸が切れた。自然に溢れてくる涙を止めることができなかった。熱い涙ではなく、心臓を凍らせるような冷たい涙だった。頬を伝って顎に溜まり、ぼとぼとと床に落ちていく。
「ごめん……!!」
「あ……う、うぅ!」
妹は己の指を噛みながら、泣いていた。俺の言ったことをもう理解して、嗚咽すら抑えようとしてくれているのだ。強く噛みつき過ぎて、指から血が垂れる。声を出すことすら許されない哀哭が部屋に響いていた。
俺たちの涙が枯れることはなく、眠ってしまったと気づくまで止まらなかった。
♢
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