第6話










[ねぇ、あそこのお宅の旦那さん知ってる?]




近所に住むおばさんたちが飽きることなく、噂話を続けている。

大嫌いだ。




皮肉にも、そういった話の大部分が真実であるということが本当に嫌いだ。











あの公園で絵梨と再会したあの日から定期的に絵梨と高史と俺でまた会うようになった。

前みたいに図書館に行くことはなくなったが、いつもカフェに言ったり、ファミリーレストランに行って、ひたすら喋った。

テスト前には、ドリンクバーだけで居座って、一緒に勉強するのがお決まりになった。




絵梨に変わった様子はなかった。

ただしいて言えば、なんとなく笑顔がぎこちなくなったように見えなくもなかった。

だけど、そんなことどうでもよかった。

むしろ、気づかなければいいこと、知らなくてもいいことなんてたくさんある。

まだ幼い俺や高史は気づこうとも、知ろうともしなかった。

絵梨が目の前に存在してくれていれば。

ただ、それが全てだった。









物事の崩壊なんてのは、なんの前触れもなくやってくる。

それは、大学受験を約8カ月後に控えた絵梨と、初めての受験を控えた俺たちがファミレスで勉強していたときのことだ。










「おい」

「何よ、高史」

「なんだよ、これ」

「は?」

「この打撲、なんだよ」

「ちょっ・・・!離して!」

「絵梨!」

「・・・・・・転んだ」

「転んだ?ありえねぇだろ。こんな痣何回転んだらこんなことに」




高史がいきなり絵梨の腕を掴んだ。

絵梨の顔は今まで見たこともないほど歪んだ。




絵梨は夏でも長袖を来ていて、それを暑いからと今まで脱ぐこともなかった。

日焼け対策で着ているのかと思いきや、室内でもそのスタイルは崩さなかった。

お嬢様ではある意味常識的なことなのかもしれないと思っていた俺は深く気にも留めなかったのだが、高史は自分が汗っかきだから信じられないといった様子だった。

今日、絵梨がいつもと違ったのは、暑さに我慢できなかったのか、腕まくりをしたことだ。

腕全体を覆うんじゃないかというような勢いの生々しいどす黒い紫色の痣が姿を見せた。





呆気に取られていた俺は、どんどん声を荒げていく高史を止めることもできず、今すぐにでも消えてしまいそうな絵梨を守ることもできなかった。




「高史、やめて、こんなとこで」

「やめてって。こんなの・・・黙ってられるかよ」

「・・・いいから」

「よくねぇよ。・・・なぁ俺ら、そんな頼りない?・・・年下だから?なぁ」

「高史」

「裕太、お前もなんとか言えよ」

「・・・・・・ごめん」

「ごめんじゃ、わかんねぇよ。絵梨」

「ごめん。・・・帰るね」




そう小さな声で呟いた絵梨は、逃げるようにそのファミレスを飛び出した。

なんとなく、今までのことと、見た事実と、おばさんたちが近所で井戸端会議をしていた内容が脳内で一致してしまった俺は、どうしたらいいのかわからず黙り込んだ。

静かに、絵梨がうつむいて帰っていくのを見届けた高史は、苛々した様子でそのファミレスを何も言わず出て行った。

俺もそのあとに続いた。




その日またいつもと同じ夜が来た。

また俺はいつかと同じ時間に、あの公園に来た。

ここに来れば、また絵梨に会える気がして。

本格的に夏に向かっているこの季節は、独特の匂いがある。

ジリジリ俺を蝕むその空気は今は歯がゆさを助長するものでしかなかった。




「・・・裕太」

「絵梨!」




こんな日には、もうここには来ないかもしれないと思っていた俺は、絵梨が姿を現して心底安心した。

思わずあの時よりもすっかりボロくなってしまったベンチから立ち上がった。

絵梨に触れたがった手は宙を遊んで、スッと自分の太ももを何度か撫でた。




「ごめんね」

「何が?」

「心配かけて」

「・・・ううん。まぁ、心配はしてるけど」

「高史にも心配かけてるよね」

「・・・うん」

「・・・何・・・から話せばいいんだろう」

「・・・・・・」




絵梨と俺はそのベンチに座っていた。

俺はそのとき、自分から根掘り葉掘り聞くつもりはなく、絵梨が零していく全てを取りこぼすことのないようにとただそれだけだった。




「・・・わかってると思うけど、転んだんじゃないの」

「うん」

「・・・父さん」

「・・・・・・」

「父さんが。もういつからかなんて覚えてないけど」

「・・・そんな前から?」

「うん、そう。だから、ずっと長袖着ろって」

「・・・家出ないの?」

「出れないの」

「え?」

「今も、父さんの言いつけを破って出てきてる。本当は、学校が終わったらすぐに帰らないといけないの」

「え・・・?」

「でも、家にいつ帰ったって、やられるのは同じ。息苦しいから少しでも家にはいたくなくて。夜は結構この公園にいたりしたんだよね」

「・・・・・・」

「家を出るなんて、絶対にできない。このストレスの捌け口がどっかへ行くなんて・・・」

「絵梨」

「・・・ん?」

「絵梨、泣いていいよ」

「・・・・・・」

「それに、つらくて仕方がないなら、もう何も言わないで。言っているうちにどんどん実感が湧いて、現実を突きつけられて、惨めになって、雁字搦めになるくらいなら、今はもう少し楽な方を選んでいい」

「・・・」

「・・・辛かったね。絵梨」

「・・・うん」




そうして、絵梨は静かに泣いた。

俺も泣いた。

あぁどうして俺たちは、こんな星の元に生まれついたのだろう。




自分が情けなくて、恨めしいとまで思った。

絵梨は、ずっとここで、一人で怯えていたのに、俺は何も知らずにここへ来て、絵梨に慰められて。

慰めや、救いが一番必要だったのは、絵梨の方だったのに。




自分が想いを寄せていた人のことなのに、なに一つ知らなかった。




「俺、絵梨の家を見てさ、外観だけ見て、いいなって思ったんだ。そしたら絵梨が小さな声でそうでもないよって言ってたよね。・・・それが本音だったんだね」

「うん。お金があったって、中がこんなんじゃどうしようもないでしょ」

「・・・それもそうだね」




絵梨はまだ泣いていた。

これまでの全ての悲しみを流すように。



ただただ俺は流れていく涙を直視できずに、左半身でそれを感じながら、

それを止めて、慰めることができない自分に呆れていた。

何もすることができない自分の立場と名もないただの友達という肩書にまた嫌気が差した。




できたのは、精いっぱいの愛おしさと優しさを込めて、黄色のハンカチを差し出すことだった。

あぁ、このまま違う星の下でいれたらどれほど幸せだろうか。




絵梨はハンカチを見て、静かに笑って、ありがとうと言った。




そして、

「もっと早く気づけばよかった」




そう、また小さく呟いた。








青白い闇が俺たちを染める。

もう行かなければならない。

自分たちの星の元へ。










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