スレッド・ザ・ニードル
南紀和沙
スレッド・ザ・ニードル
―壱―
少女が走っていた。
シャッター街に、街灯だけがやけに明るい。
明滅する灯りの下、少女の影が大きく地面で動いた。長い髪の少女だった。夏にも関わらず、長袖の制服と黒いタイツで全身を固めている。
少女は崩れかけた喫茶店の角を曲がり、足を止めた。
「はー……」
大きく息をつく。ため息に似たそれは、夜空に融けた。
星を失った空だった。指し示すものがない夜だった。
「
少女の背後から声がかかった。羽利、と呼ばれて少女は振り向いた。
「
羽利は、すぐ背後にいた者に答える。
「志久様、すこし休みましょう」
「私はいいけどね、羽利」
羽利が志久様と呼んだ者もまた少女のような姿をしていた。
志久は異形であった。すらりと長い手足は、その先が空中に
「あなた、ドジったでしょ」
「言わないでくださいよ」
「フォークス翁が
「まさか取り込まれるなんて思わなかったんですよ!」
志久が羽利を責める。羽利はわずかに笑ったが、困っているようだった。
「天才が実験体に喰われるなんて、あり得ないですよ……」
「フォークス翁は天才だった。だけどあのヤバさは天災級。いずれこうなったでしょうね」
「なんで言ってくれなかったんですか!」
「わかってると思ったのよ!」
羽利と志久はぎゃあぎゃあと言い争う。
「生意気じゃない、羽利。じゃあ、あなたのほかを探してもいいのよ?」
「志久様……むぅ」
――バチッ!
街灯が弾けるように消えた。
二人は押し黙る。
低い猛獣の声がする。腹を空かせた肉食の獣が、獲物を探すときのうなり声だ。
(……来たわよ)
(……はい)
二人は静かに喫茶店の影から通りを確認する。
チカチカと点滅する街灯の下、獣の足音が響く。アスファルトの上を、泥にまみれたような重い足が踏みしめている。
(実験体、ナンバー〇七七)
(鬼の細胞を持つ者)
(私を一度殺した者)
少女たちの心が、ざわめきたつ。かの鬼とは、かつて相討ちになって果てた。しかし少女たちだけはこの世に縫い止められた。生き
(まさかこうして蘇るとはね)
鬼の魂は消滅したが、肉がわずかにこの世に残った。それが凶科学者の手に渡り、実験体として培養された。
(なんて不細工な)
鬼は再び、体のようなものを得た。醜悪な、腐った虎のような姿が見える。
――オルルルルル。
うなり声がする。
(ああ……)
緊張感と高揚感が
(上から行く?)
(はい!)
志久がしゅるりと伸び上がった。煙のように伸びた体が、傾いた電柱にからみつく。
「ハッ!」
羽利が動いた。志久の融けた足をつかみ、崩れた喫茶店の壁を蹴る。小柄な体が一歩、二歩、三歩、
――ガアアアアアアアッ!
鬼が気づいた。吼え声を上げる。暗い眼に二人の少女を映す。
「志久様、気づかれました」
「まぁ、あっちにとっても私らは
羽利は屋根の上を走り出す。志久が滑るようにして続く。シャッター街の上を、飛び跳ねながら走る。
羽利が走りながら両手を広げた。指と指の間に、長い鉄串のようなもの――否、針が握られる。三〇センチはありそうな長針を、羽利は現出させていた。
「縫い止めます!」
「よぉし! 針の付喪神の力、見せてやろうじゃない!」
付喪神――すなわち、
「羽利、放て!」
「ハッ!!」
羽利の手から、長針が飛んだ。高所から放たれた太く長い針が、鬼を貫く。皮膚が削れ、外れた針は地面に突き立つ。
――ギイイイイイイッ!
鬼の口から苦悶の声が漏れた。
――ガアアッ!
鬼はすぐさま飛び上がって、二人に迫ろうとする。
だが体が宙に浮くことはなかった。突然、何かに引きずられるように、地面に倒れ伏す。下半身が大地に吸いついたかのように動かない。両前足をばたつかせ、鬼は困惑の声を上げた。
「無駄よ。私の針は、あらゆるモノを縫い止める」
志久が誇らしげに言い放つ。
二人の能力――霊力で打ち出された針は、物理精神の区別なく対象を縫い止める。
「あーあ、やっぱ実験体は実験体ね。あんなのに喰われるなんて、天災科学者もしょせんはヒトってことかしら」
「志久様、とどめを刺します」
「ええ」
羽利がすっと右手を上げ、掌に霊力を籠めようと集中する。
オオォォォ……。
しかし鬼のうめき声に、一瞬虚を突かれる。
「……な!?」
鬼の肉体がずるりと融ける。肉が融け骨がのぞき、巨大な臓物が鎌首をもたげた。
「志久様! あいつ、別物に――!」
「羽利! 飛ぶわよ!!」
臓物と見えたのは、新しい獣だった。ヒトに似た大柄な体を起こし、古い肉体を放棄する。
次の瞬間、新たな獣は二人に肉薄していた。樹木のように太く筋肉質な腕を振り上げる。
「――ッ!!」
羽利の回避が間に合わない。咄嗟に志久が腕を跳ね上げる。獣の腕と、志久の腕がぶつかる。獣の鋭い爪を弾いたが、二人は後方へ吹き飛ばされる。
「きゃあああっ!」
「羽利! また来る!」
羽利が体勢を立て直す前に、二撃目が襲う。志久が今度は自分のスカートを振った。黒いプリーツスカートが、闘牛士の
「志久様! いったん退きます!」
「ああ!」
羽利がようやく姿勢を直し、屋根から飛ぶ。志久の体も羽利に引かれ、二人は宙へと躍る。
オオオオオオ……。
新たな鬼獣が、天に吼えた。
月のない空に、蒼い光のごとく立ち上る声だった。
―弐―
二人を乗せたトラックは、シャッター街を抜ける。そして広い空き地に入った。
空き地は古い工場を取り壊した跡地だった。今は仮設のテントがいくつか立っている。ライトがあたりを照らしていた。
人が行き交う。ある者は軍人のようであり、ある者は僧侶のようであり、ある者は巫女のようであった。機敏に立ち回る者もいれば、怪我をして動けない者もいる。統一感がない。
「ここが当面の対策本部か」
「志久様、大丈夫ですか?」
「そういう羽利こそ」
二人はトラックの荷台から降りた。大きな傷はないが、しくじったことに変わりはない。表情は明るくなかった。
周囲の者が、二人を見てざわめく。
「あれが噂の付喪神か」
「鬼を殺したという、あの?」
「応。残った鬼の細胞を、かのフォークス翁が貰い受けたと」
「フォークス!? 凶科学者フォークス・グロゥブか!」
二人は黙っていた。
テントのひとつから、女性が出てくる。白髪が混じった
老女が姿を見せた途端、噂話が止む。
羽利と志久も、姿勢を正した。
「
「ご苦労だったね」
「実験体ナンバー〇七七、仕留められませんでした。我々の不手際です。申し訳ありません」
「気にするでないよ。あれは元々、私たちの手抜かりだ」
白神と呼ばれた老女は、厳しい表情ながら、言葉は鷹揚だった。
「映像によると、ナンバー〇七七は
「はい。みずから肉体を融かし、我々の針から逃れました」
白神の問いに、羽利が答えた。
「変化後の姿は見たかい?」
「あれは……人に似ていると、思いました」
「人に似た獣か。取り込んだフォークスの影響かねぇ」
「翁の影響、ですか?」
「おそらくは」
白神が推察する。
「人間を取り込んだことで、人間に近くなるよう進化しているのさ」
「…………」
「そのうち、フォークス並の知能でもつけるかもねぇ」
「そ、そうなる前に討伐を!」
「ああ」
白神は二人の様子を見て、うなずいた。
「二人とも、すこし休みな」
「え……」
「あとは我々が――」
「お待ちください、白神先生」
今まで黙っていた志久が口を開く。
「あれは私たちの獲物です」
「志久様……」
志久の口振りは、求道の狩人のようだった。瞳の奥、胸の底に、怨敵に向ける炎がある。
「もう一度、奴を殺し尽くします」
「……できるのかい?」
白神が問う。
志久は羽利を見た。
「私の羽利となら」
「志久様……!」
羽利の表情が、わずかに明るくなる。
白神が今度は羽利に尋ねる。
「羽利、行けるかい?」
「はい!」
羽利ははっきり答えた。
「わかった。その意志、優先しようじゃないか」
二人は再び、あの獣と対峙することとなった。
―参―
シャッター街に、咀嚼音が響いていた。
実験体ナンバー〇七七が、何かを食べている。その手にこびりついた毛皮は、どうやら野良猫のものらしい。人に似た頭部は血で赤黒く染まり、その形をより鮮明にしていた。
遠くでトラックが止まる音がする。ナンバー〇七七は、降車する音に耳を澄ます。食事からは興味を失い、鼻を鳴らす。
地面を踏みしめる、羽利。
羽利に憑きまとう、志久。
二人の少女が、夜空の下、近づいてくる。
「志久様」
「なに、羽利?」
「よかったのですか?」
「なにが?」
「あの時、あなたを縫い止めたのは、よかったのでしょうか?」
「今更ね、羽利」
二人は立ち止まる。
「死んだ私をこの世に縫い止めてくれた。思い残しを片付ける機会をくれた」
「…………」
「そしてあなたは、私の体をも縫い止めてくれた」
二人を認めたナンバー〇七七が、吼えた。
――オオオオオオオオッ!
「あなたはどうなの?」
「それは……」
「ねぇ、私の付喪神?」
大地を鋭く蹴り上げる音がする。瞬きを三度する間に、人型の獣が肉薄する。筋肉を纏った全身が躍動する。太い腕を振り上げる。
二人はゆっくりと――体感で、ゆっくりと時間を感じながら、身をひねった。体のそばを、彫刻にも似た腕がすり抜けていく。
「ハァッ!!」
志久が両腕を合わせ、獣のわき腹に叩き込む。手先が融けているとはいえ、霊力を帯びた一撃は衝撃となる。
獣の半身が大きくへこみ、横へ大きく弾かれる。
「羽利! 頭だ!」
「はい!」
次の一撃を、羽利が繰り出す。手の中に針を呼び出し、獣の頭部へと
獣は大きくよろめいた。頭蓋を砕かれ、体液をまき散らす。
「やっ……」
「やってない!」
やった、と言い掛けた羽利を、志久が制する。
獣は体勢を立て直し、下段から拳を突き上げる。
「……っ!」
咄嗟に出た志久の左腕が、四散する。
二人は後方に飛ばされ、何度か回転して、シャッターに激突した。
「し……志久様!!」
「ギャーギャー騒がない」
「だって! 腕が!」
「元から無いようなもんよ」
志久は、獣を睨みつける。
「だって私は幽霊なんだもの!」
かつて二人は、この獣と対峙した。
人と、付喪神と、鬼として。
人であった志久は、付喪神の羽利を使役した。鬼に挑み、殺された。だが志久の魂は、羽利の能力によってこの世に縫い止められた。羽利もまた、志久の肉体にみずからを縫い止めた。
人の体を持つ付喪神と、付喪神にとり憑いた幽霊。
それが二人だ。
「あいつ、脳が頭部に無いわよ!」
「だったら……」
「吹き飛ばすわよ」
一歩、また一歩、獣が近づいてくる。
二人は立ち上がり、身構える。
「針刺すばかりの困難も、あなたとなら行けるわ、羽利」
「はい」
獣はもはや吼えなかった。砕かれた頭部にもかまわず、突進してくる。全身が猛獣の
「霊力全解放」
二人はすっと目を閉じた。
羽利が両手を前に出す。志久が融けた手を重ねる。
霊力を全身に巡らせる。細胞すべてが張り詰める。
迫り来る獣に向かって、無数の長い針が射出される。
首を、胸を、腹を、腕を、脚を、針が貫き削いでいく。散った血肉に、追い打ちをかけるように針が突き刺さる。
獣は止まらない。
針の貫通した体は血飛沫となる。だが前へ進む勢いを止めず、二人に降りかかった。
叩きつける血の雨が止むと、羽利の目元を拭う感触があった。
「志久様……」
「開けていいわよ、羽利」
羽利はゆっくり目を開ける。
獣の姿は消え、明滅する灯りに揺れるシャッター街だけが見えた。
「終わりましたか……」
「うん」
羽利の体に、志久が寄りかかってくる。
「どうされました?」
「疲れたに決まってるじゃない」
「帰らないと」
「あとで回収が来るわよ」
「そうですね」
二人はまた目を閉じた。
星のない夜だ。
指し示すもののない空だけが、喧噪を知らず澄み渡る。
「わたしもあなたとなら、どこまでも」
羽利が小さくつぶやいた。
フォークス翁が実験体に喰われた事件は幕を閉じた。研究所が爆発炎上したことだけが世間に公表された。翁は焼死したことになっている。実験体に喰われた挙句、二人の少女に退治されたことは伏せられた。
羽利と志久は、しばらく表舞台から消えていた。白神がそうしたことを、関係者だけが知っていた。
九十九の年を経た針――付喪神の羽利。
その主人にして現世に縫い止められた――幽霊の志久。
二人はまた、照らすもののない夜を走る。
身と魂が、世に必要とされなくなるまで。
星のない夜が、失われるまで。
―完―
スレッド・ザ・ニードル 南紀和沙 @nanayoduki
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