⒍治癒、そして

そして七日目。

 風邪菌の身体は、昨日よりもさらに薄く透けていて、なんだか俺ですらも触れずに、貫通してしまいそうなほどだった。

 正直気が気じゃなくて、授業なんて聞いていられなかった。

 俺は、一限目の教師に体調がわるいという旨を告げると、こっそりと保健室とは反対の、屋上へと足を運んだ。

 うちの高校では、珍しいことに屋上が解放されている。

 昼休みなんかは人で賑わうが、授業中の今、ここにいるのは俺と、俺を追いかけてきた風邪菌だけだった。

 青空の下、大きく息を吸い込む。

 これから自分のすることを思うと、足が震えた。

 俺は、下手したら死ぬかもしれない。それに、そうじゃなくったって、初めてなんだし……。

 しかし、決めたことだ。俺は決意を固めると、風邪菌に向き直って、言った。

「この勝負、俺の負けだ。好きなんだ、お前のことが」

 え、という小さい声が聞こえた気がしたが、無視だ。

 今の風邪菌の表情を見たら決意が鈍ってしまうかもしれなくて、俺は目をつぶったまま、生まれて初めてのキスをした。

 柔らかなものが、唇に触れる。

 その唇は、微かに震えていた。

 それほどそうしていただろう。永遠のようにも思えたし、もしかしたら一瞬だったのかもしれない。

 俺たちの唇は離れ、そして。

 目の前には、いつかのようにぼろぼろと泣く風邪菌がいた。

「なんでですか?! なんで、だって、一週間は余裕だって」

 自分がキスをしたことでこうも大泣きされると、さすがにへこむ。

 しかし、風邪菌の言葉を聞いているうちに、風邪菌が泣いている理由に気づいた。

「だめなのに、しんじゃうのに、なんでこんなことするんですか……! しんでほしくないのに、だから、ずっとがまんしてたのに」

 思い返してみれば、風邪菌は俺より力が強かった。保健室で俺を組み伏せた時や、漫画喫茶での壁ドンの時、毎日の就寝中など、唇を強引に奪う機会はあったはずだ。

 それなのに、俺が今もこうして健康体でいるのは、風邪菌がいい子だったから。自分のせいで、俺が死んでしまうのが嫌だと、いつの間にかそう思っていたらしい。

 そんなことに今更気づいて、俺は思わず嬉しくなる。

「なに、笑ってるんですか。しんじゃうのに。そんなの絶対に嫌なのに!」

 大泣きする風邪菌の頭を撫で、俺は言った。

「考えたんだ。風邪菌が消えないで済む方法。ようはさ、一回感染しちゃえばいいんだろ?」

 言いながら俺は、謎の液体を飲んだ。

 正直人間が飲むものとは思えない味だったが、気合で飲みきった。

「勇人さん、それは?」

「これはな、翔太特製の、アデノウィルス3型専用風邪薬だよ」

 俺が考えた作戦というのがこれだった。

 風邪菌の消滅を防ぐには、誰かが感染しないといけない。

 だったら、風邪を一度引いて、死ぬ前に治せばいいんじゃないか。

 そこで翔太に頼んで、風邪薬を作ってもらったのである。ちなみに報酬は、俺の血液と髪の毛、爪の三点セットだった。なにに使うのかは考えたくない。

 俺がそう言うと、風邪菌は目に見えてほっとした。

「勇人さん、すごいです。それなら、誰も不幸にならない、文句無しのハッピーエンドじゃないですか」

 風邪菌が、俺に抱きついてくる。

 しばらくの間、授業中にもかかわらず俺と風邪菌はそうしていた。

 そして、一件落着したことだし、そろそろ教室に戻るかと思った俺の目に映ったのは、いよいよ消えようといている、風邪菌の姿だった。

「おい、嘘だろ」

 口から溢れた言葉は、屋上の風にのって霧散する。

「なあ、だってさっき、文句無しのハッピーエンドだって、」

 俺が続きを言うより早く、風邪菌が叫んだ。

「だって、しょうがないじゃないですか! 死んでほしくないと、思ちゃったんですから。好きに、なっちゃてたんですから……」

 風邪菌の本体はウィルスだ。薬を飲んでウィルスの増加を止めれば、風邪菌の消滅を防ぐことはできない。

 そのことに気づいていながら、風邪菌はあえてそれを隠した。

「このまま、消えるしかないと思ってたんです。十分楽しかったし、思い出だけを胸に、消えていくんだって。でも、勇人さんに、キス、してもらえて」

 好きな人からの愛の告白だというのに、こんなに悲しいことがあるのか。

 俺は血の味が滲むまで、唇を噛みしめる。

「うれしかった。とってもっとっても、嬉しかったんです! だから、これは、誰も不幸にならない、文句無しのハッピーエンド、なんですよ」

 今ならまだ、間に合うかもしれない。

 もう薬はない。それに、風邪薬の効果は一度きりだと聞いた。同じ手は通用しない。

 それでも、今キスをすれば、風邪菌を助けることはできるはずだ。

 そう思って風邪菌に伸ばしたはずの手は、虚しくも空を切った。

「私、あなたに感謝しかしてないんですよ。私を見つけてくれて、一緒に、お話ししてくれて、学校に通ってくれて、漫画を読んでくれて、隣でテレビを見てくれて、キス、してくれて」

 触れないんじゃ、キスもできないんじゃ、もう感染する方法なんてないじゃないか。

 いやだ。いやだいやだいやだ。

「好きなんだ。消えないでくれ」

 まだ、まだきっと何か手が。

「この一週間、本当に楽しかったです。」

−−だから、今まで、ありがとうございました。

 そんな別れの言葉とともに、目の前から風邪菌の姿が掻き消える。


「ずっと、健康で、幸せでいてくださいね。病気になっちゃ(浮気しちゃ)だめですよ」


 遠くから、そんな声が聞こえてきて。

 それを最後に、風邪菌は本当に、俺の前から姿を消した。


 

  そして、八日目の朝がきた。

 一週間ぶりに風邪菌のいない朝だ。

 一緒に過ごしたのはたった一週間だというのに、なんだかずっと一緒に過ごしてきた家族がいなくなってしまったみたいで、胸が苦しい。

 胸に黒い穴が空いてしまったように、ぽっかりとしていて、しばらくは何者もこの穴を埋めることはできそうになかった。

……なんてのを想像してたんだが。

「えーっと、風邪菌、だよな?」

 目の前に、風邪菌がいた。

 布団に横たわる俺の上に、座っていて、奇しくも一週間前俺たちが出会った日の朝を想像させた。今日は服をきているが。

 思わず、なんでここにいるんだ? というニュアンスをにじませながら訊ねると、風邪菌は目をそらしながら、言い訳のようにつぶやく。

「はい、その……私にもちょっと、これは予想外の出来事というか」

 なんていうか、無性に気まずかった。

 いや、嬉しいんだよ?

 もちろん、とんでもなく嬉しいんだが、その、今生の別れだと思って散々泣いて、取り乱して、こっぱずかしいことも口走ったわけで。

 そんな相手と昨日の今日で顔を合わせたら、なんていうかこう、さすがに、つらい。

「これはつまり、その、どういうことなんだ?」

 感動の再会を果たしたはずの風邪菌に、状況の説明をぶん投げる。

 気まずいのは向こうも同じみたいで、その頰は赤く染まっていた。

「はい、そのですね。私は今、厳密には風邪菌じゃないんです。転職したというか……。風邪菌としての私は確かに昨日消滅しておりまして」

「転職……」

 それはどちらかというと、転生というのではないだろうか。

 思ったが、口に出すと話が逸れそうなので、黙って風邪菌(仮)の話を促す。

「ただですね、勇人さんを風邪以外の病に罹患させた功績が認められまして、その病が続いている間だけ、別の病原菌として存在することを許されたんです」

「病に罹患、って。俺は今、何の病気にも罹ってないぞ?」

 もしや、自分でも気づかない病気が潜んでいるのだろうか。

 不安になって、思わず自分の体をきょろきょろと見回す俺に、風邪菌は言った。

「もう、それを私に言わせるんですか? 恥ずかしいのに……」

 ここで今日、初めて、風邪菌と目があった。

 上気した頰と潤んだ瞳を見て、胸がどくんと波打つ。

 視線は自然と少し下がり、昨日重ね合わせた桜色の唇に吸い寄せられる。

 そして、その唇がかすかに上下し、囁いた。

「勇人さんが罹患したのは、」

——恋の病、ですよ。

 言葉の後半は、どちらからともなく唇が重ねられ、声にならなかった。

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恋の病にご用心? 秋来一年 @akiraikazutoshi

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