⒋発症

「勇人さん、いつになったら私とキスしてくれるんですか?」

 土曜日の朝、いつもより少しゆっくりと目を覚ました俺は、同じベッドに横たわりながら頰を膨らませる風邪菌と目があった。

「いや、しねーよ?」

 風邪菌との共同生活も早五日目。正直、初日にした勝負の約束のことなんて、ほとんど頭から抜け落ちかけていた。

 なんでですかー! と抗議の声を上げる風邪菌に、そう言われてもなあ、と思う俺。

 確かに、風邪菌は可愛らしい容姿をしている。性格だって悪くない。むしろ、素直で明るくて、人間として(いや、人間じゃないけど)魅力的だと思う。だが。

「なんつーか、妹って感じなんだよなあ……」

 そうなのだ。風邪菌は確かに可愛らしい女の子なのだが、別にそういう対象ではないのである。

 初めの頃こそドキドキするような瞬間がないでもなかったが、四日間も四六時中べったりだと、一緒にいるのが当たり前になってくるというか。

 キスをしたら死ぬ、ってことを差し引いても、どちらかというと妹、もしくは小動物的かわいさの風邪菌を、どうこうしようという気には今ひとつなれない。

「そもそもお前、勝負って言う割には、俺にアタックしてきてなくね?」

 ふと思って問いかけると、風邪菌はみるからにギクリとした。

 こういう、考えていることが全部言動に現れているのも、小動物的かわいさの要因な気がする。

「だって、……んですもん」

 桜色の唇を尖らせながら、風邪菌がなにやらつぶやいた。

「ん?」

「だから、誘惑の仕方なんて、知らないんですもん!」

 投げやりのように、風邪菌がいう。よく見ると、ちょっと涙目だった。

「しょうがないじゃないですか! 今まで私のことが見える人なんていなかったし、誘惑どころか誰かと会話するのすら初めてなんですから!」

 そう言って、ポカポカと俺の胸辺りを殴ってくる。加減しているのか全然痛くなかった。

「勇人さん! このままじゃ勝負が不公平です! 私に誘惑の仕方を教えてください!」

「誘惑の仕方、ねえ」

 正直、風邪菌の理論は全く意味が分からなかった。不公平もクソもないと思う。

 俺としては、このまま風邪菌とゆるゆるとした共同生活を続けられれば、それに越したことはないのだが。

 とはいえ、せっかくの休日だ。このまま駄々っ子のようになってしまった風邪菌を放置して、自室でだらだらするというのも忍びないし……。

 そうだ、と思い立って俺は言う。

「じゃあさ、漫画喫茶でも行かね?」




 一人分の料金を支払い、漫画喫茶の個室に入る。ここなら、一日時間が潰せるし、小声でなら風邪菌と話すことも可能だろう。

「なるほど、少女漫画ですか」

 俺が適当に持ってきた少女漫画の山を見て、風邪菌がつぶやく。

 誘惑の仕方なんて俺にもわからないし、第一、万が一にでも本当に誘惑されたら死んでしまう。そういうわけで俺は、少女漫画は恋愛の基本書だぞ、なんてうそぶいて、風邪菌と一緒に漫画喫茶に来たのだった。

 しかし、到着して早々、俺は自分の盲点に気づく。

 よく考えたら、風邪菌一人じゃ漫画読めねえじゃん。

 風邪菌が触れるのは俺だけ。つまり、漫画を自力で持ったりめくったりすることは不可能なのである。

 そんなわけで。

「いあや、それにしてもこの姿勢はねえよ」

「もう、デートの場所を漫画喫茶に決めたのは、勇人さんじゃないですか」

 俺は今、あぐらをかいて座っていた。

 そしてその上に、風邪菌が座っている。

 そう、俺たちは今、親が子に読み聞かせをするような姿勢で、少女漫画を読んでいた。

 こんな姿勢じゃ前が見えないんじゃないかと思っていたのだが、風邪菌が小柄だったため、意外なくらいすっぽりと俺のあしの上に収まっていた。

「ほら、早くページめくってくださいよ」

 読ませてもらってるというのに、風邪菌はなんだか偉そうに、俺に催促をする。

 そんな風邪菌に「はいはい」と適当な返事を返しつつ、俺は大して興味もない少女漫画のページを繰った。

「あの、勇人さん。ちょっとそこに立ってくれませんか」

 ふいに、風邪菌からそんな申し出がある。

「別にいいけど」

 一体何をするつもりだろう、と思いながら壁際に立つ俺。

 そんな俺の退路を潰すかのように、風邪菌が正面から両腕を壁についた。

 そして。

「俺のものになれよ」

 おそらく、風邪菌なりの精一杯のイケメンボイスなのであろう低い声でささやかれ、俺は思わず吹き出した。

 これはあれか。いわゆる壁ドンってやつか。

「あれ? ちょっと勇人さんっ、なに笑ってるんですか?」

 いけると思ったんだけどなぁ、と不思議がる風邪菌がおかしい。

「あのな、こういうのは普通、男が女にやるもんなんだよ」

 そう言って、俺はするりと風邪菌の元から抜け出すと、片腕だけを壁について、風邪菌に密着する。

「ほら、こんな風に、な」

 すると、俺の腕の中で顔を真っ赤に染めた風邪菌が目に入った。

 ってきり、「なるほど、そういうものなのですね」とか、「ちょっと、勇人さん。からかわないでくださいよ!」みたいな反応を想像していたので、なんだかこっちまで恥ずかしくなってしまう。

 あれ、俺いまもしかして、風邪菌にドキドキしてる……?

 そんなはずはない、と首を振って邪念を払う。

 うっかり風邪菌のことを好きになんてなったら、待っているのは死なのだ。

 しかし、意識すればするほど、桜色のぷるぷるとした唇に視線と意識が吸い寄せられてしまう。

 風邪菌も、この展開は予想外だったらしく、「ささ、誘惑の仕方の勉強に戻りましょう!」と漫画のそばにわたわたしながら駆け寄っていった。

 それから、いつもより少しぎこちないながらも、少女漫画を読み続ける俺たち。

 何冊ほど読んだ頃だろうか。ふいに風邪菌が、今更すぎる質問をしてきた。

「そういえば、勇人さん。今日は学校とかいうところには、行かないんですね」

 後ろにいる俺を振り仰ぐように見ながら、そんなことを言う風邪菌。

「そりゃあ、今日は土曜日だからな」

 最近は土曜日も授業を行う学校が多いみたいだが、俺の通う高校は土曜日に授業をやってはいなかった。

 よく思い返してみれば、こいつは学校のことを何一つ知らないんだよな。黒板すら知らなかったくらいだし。

「風邪菌は、学校に行ったりしないのか? その、病原菌学校、みたいな」

 自分でも何言ってるんだと思いつつ、なんの気なくそんなことを訊ねる。

 しかし、返ってきたのは予想だにしない返事だった。

「ないですよ、そんなの。っていうか、私以外の病原菌に、会ったこともありませんし」

「そうなのか?!」

 確かに今朝、風邪菌は、「誘惑どころか誰かと会話するのすら初めて」と言っていた。

 てっきり、人間と会話するのが初めて、という意味だと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。

 思わず目を向く俺に、風邪菌はえへへ、と笑いながら言った。

「だから私、いまとっても幸せなんです。初めて見つけてもらえて。学校に通って。誰かとお話しするのって、こんなに楽しいんですね」

 すごく満ち足りた、それでいて寂しげな、儚げな笑顔。

 そんな表情を見ていると、自然と心臓が、どくどくと早いペースで波打つ。

 今度こそ、確信した。

 俺はどうやら、風邪菌のことを好きになってしまったらしい。

 俺を殺そうとしている、人間ですらないやつのことを。

 気がつけば、俺は後ろから、風邪菌のことを抱きしめていた。

 これだけ密着しても、風邪菌には匂いも、体温も、それどころか重さすら存在しないのが、なんだか無性に悲しかった。

「あの、勇人さん……?」

 俺の並々ならぬ様子に、風邪菌がおろおろとする。

「あ、悪い」

 自分のしていることにようやく気付き、慌てて腕を放す。

「もう、いまさらになって、私の渾身の壁ドンが効いちゃいました?」

 そう言っていつものように笑う風邪菌に、俺は「ああ」と生返事をした。

 それからも俺たちは、フリータイムの時間が切れるまで、漫画を読んだり動画を見たりして過ごしたが、その内容は全く頭に入ってこなかった。

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