⒉潜伏期間(1日目)

 確かに俺は昔から、必要以上に見えすぎちまう性質ではあった。

 修学旅行で滝に行けば、髪の長い青白い顔の半透明な女性が必ずいたし、隣の家のじいちゃんが亡くなったのは、大鎌を持った黒いマントの人影が隣の家に入ってくのをみたその日だった。

 しかし、だ。

 今まで風邪にかかったことは幾度もあるが、風邪菌を見たことなんて一度もない。

 だが、母親にはこいつが見えていなかった以上、この全裸美少女が人間以外の何物かである可能性も、否定できなかった。

 幸い、始業まであと一時間ある。俺は登校するまでの時間を目一杯使って、目の前の自称風邪菌に話を訊いてみた。

 曰く、自分は風邪菌であり、ターゲット、すなわち俺を感染させるためにやってきた。

 曰く、通常の風邪は、風邪をひいた人間との接触、飛沫感染によってかかる。

 曰く、自分はその感染の元となる、「風邪をひいた人間」を最初に作り出すための存在である。

 彼女から聞き出した話をザックリまとめると、だいたいこんな感じだった。

 因みに、彼女のような病原体たちの姿は、通常人間に見えることはないらしい。声が聞こえるのも触ることができるのも、俺だけなんだそうな。

 だから、まさか自分を見ているものがいるなんて思っておらず、うっかり全裸ですごしてしまっていた、とのこと。

 正直意味がわからないが、家では下着姿で過ごす、という人もいるわけだし、そんなもんなんだろうか。

 いまは、というか、衝撃の自己紹介の直後から、彼女は白いワンピースに身を包んでいる。瞬きをした瞬間に服装が変わっていたので、どういう原理だかはまるで分からない。

 朝の限られた時間で分かったのはそのくらいだったので、俺はさらに疑問点を解消すべく、通学中のいまの時間を使って質問を重ねる。

「さっき感染させにきた、って言ってたけど。さ、具体的にはどうやって感染させるんだ?」

 通学時間帯の割に、人気の少ない路地を、風邪菌とともに進む。

 傍目にはこいつの姿は見えないはずなので、もしこの状況を見ている人がいたとしたら、俺が一人で話しているように映るのだろう。駅とは反対方向の、ちょっと不便な場所に学校があって助かった。

「それはですね、その……」

 先ほどまで、何やら嬉しそうに、そしてちょっと自慢げに俺の疑問に答えてくれていた風邪菌が、初めて言い淀んだ。

 そして、初めて会った今朝のように頬を赤く染め、ちらちらとこちらを見ている。

 そして、蚊の泣くような声でつぶやいた。

「口腔感染、です」

「こーくーかんせん?」

 とっさに変換ができず、おうむ返しをする俺。

「ええっとですね。その、つまり、ちゅーです。ちゅーによって感染するんです」

 こうくうかんせん、って、口腔感染か!

 つまり、この美少女の風邪菌は、俺とキスをするために、俺の部屋に忍び込んできたということ……?

 ファーストキスが人間ではなく風邪菌というのは、かなり悲しいものがあるが、一方で、風邪をひくなんていう軽い代償で、こんな美少女とキスができるなら、悪くないんじゃないか、と思ってしまう自分もいる。

「ちなみに、風邪にかかるとどうなるんだ?」

 だから、返答次第では風邪にかかるのもやぶさかではないな、なんて思って訊いてみたのだが。

「三日三晩四十度を超える高熱にうなされて死にます」

「怖ッ!」

 美少女風邪菌とのキスの代償、重すぎんだろ……。

 さすがに、この歳で死にたくはない。俺は密かに、絶対に風邪を引かないと決意した。

「と、いうわけで。勇人さん、ちゅーしましょう。ちゅー!」

 まるで自身が風邪をひいているかのような赤い頰で、目をぐるぐるとさせながら迫ってくる風邪菌。

 こんな可愛い顔で迫られたら、思わず唇を捧げたくなってしまう。

 しかし、俺は先ほどの返答を思い出して、逡巡したのち、くるりと顔の向きを変えた。

 受け止めてくれる壁を失い、ギャグ漫画のように風邪菌がこける。

「うー……。ひどいじゃないですか。せっかく勇気を出してアタックしたのに……」

「いや、死にたくないから、俺」

 確かに、今のはまさしくアタックという感じだった。あのままの勢いで突っ込んできたら、歯とか唇とかが大変なことになっていた気がする。

 しばらくの間地面にへたり込んだままうーうー言っていた風邪菌だったが、急に立ち上がると、俺に向かってビシッと指をさし、言った。

「分かりました。では、勝負といきましょう」

 頭の上に疑問符を浮かべる俺をよそに、風邪菌は、熱い決意の炎を灯した瞳で続ける。

「これから一週間以内に、私はあなたの唇を奪います。キスしたいと思わせて、あなたを私に感染させてみせます」

 だから、覚悟してくださいね。そう言って、先制攻撃《ウィンク》を放ってくる風邪菌。

「一週間くらい、余裕で耐え切ってやんよ」

 正直、ここまでの攻撃だけで、すでに余裕なんて残っていなかったが、無理やり不敵な笑みを浮かべて俺はそう答えた。



 学校に近づくにつれ、同じ制服に身を包んだひとの姿が増えてくる。

 それでも構わず話しかけてくる風邪菌だったが、無視だ。さすがに、同じ学校の生徒たちの前で、激しい独り言を言うのはまずい。

「随分大きな門と庭ですね。豪邸みたいです!」

 今お前が見てるのは、豪邸じゃなくて校庭だけどな。

「勇人さん、見てください! 正面に緑色のスクリーンがありますよ。あれは一体なんなんでしょう」

 スクリーンではなく黒板だ。

「勇人さん勇人さん、どうして他の人たちは仲よさそうにお話ししてるのに、勇人さんはむすっとしたまま一人で座っているのですか?」

 ……うるせえ。

 入学早々声をかけたのが実は、人間じゃなくて幽霊で、クラスメイトには教室で虚空に向かって話しかけてたやばいやつだと思われて浮いてんだ、ばか。

 なんて、心のなかでツッコミを入れつつ無言を貫いていたのだが。

「そういえば、みなさん同じ格好をしていますね。……そうだっ」

 そう言ってくるりと風邪菌が回ると、いつの間にやら風邪菌は、この学校の背服に身を包んでいた。そして。

「どうですか? 似合ってますか? かわいいですか?」

 と、スカートの裾をちょこんとつまみながら、落ち着かなさそうに身体をゆらす。

「……かわいい」

 さっきまで無言を貫いていた俺だったが、思わず本音が口からこぼれた。

「やったー! じゃあ、キスしたくなりましたね? ささ、早く感染しましょう!」

「それはねえよ!」

 つい大きな声を上げてしまった俺に、何事かとクラスメイトがこちらを見る。

 ああもう、ただでさえ浮いてるってのに、またやっちまったじゃねえか。

 俺がイライラしながら風邪菌をキッと睨んだちょうどその時、後ろから声がかけられた。

「なんや、お前はん、また面白そうなことに巻き込まれとるんか」

 にやにやと、不自然な関西弁で声をかけてきたのは、後ろの席の翔太だった。

 いわゆる転勤族で、何度か関西に住んでたこともあるらしい翔太は、どこの方言ともつかないデタラメなイントネーションと言葉で話す、得体の知れないやつだ。

 自称天才発明家で、俺の色々と見えてしまう体質にも興味があるらしく、「勇人はんの角膜でメガネを作ったら、俺にも幽霊が見えるんやろか」なんて、サイコな発言をしてくる危険人物だった。

 とはいえ、自分の興味あることに一直線で、裏表のない性格は嫌いじゃなかったし、クラスで唯一俺に話しかけてくる男子ということもあって、休み時間にはよく雑談をする仲である。

「なあ、自称天才発明家の翔太さんよ。お前なら、風邪の菌を倒すワクチンなんかも作れるのか?」

「自称は余計や。そやなあ、できんこともないと思うで」

 なんとはなしに聞いてみたのだが、あっさりとそう返されて目を向く俺。

「まじで?!」

 隣で、風邪菌が顔を蒼白にして、ぶるぶると震えていた。

 っていうか、何気なく聞いてしまったが、それって下手したらノーベル賞もののすごいことなのではないだろうか。

 ノーベル賞は大袈裟にしても、どこかの製薬会社や研究所に売れば、大金を得られそうである。

 そう思って、本人に訊ねてみると、翔太は「これだから素人は」とでも言いたげな様子でため息をついた。

「あのな、勇人はん。風邪の特効薬が未だに開発されてないのって、なんでか知っとる?」

「んー、風邪よりももっと重い病気を治す研究を優先してるから、とか?」

 風邪というと、誰でも引くし、ちょっと寝ればすぐ治るイメージである。

「あのなあ、誰もがみんなお前はんみたいに健康なわけやないねんで。小さい子やお年寄り、他の病気を持ってる人が風邪を引いたら、簡単に死んでまうねん」

 確かに、これは俺の想像力が足りていなかった。

「んで、本題に戻すで。風邪の特効薬が未だ出来ていない理由は二つ。一つは、同じ風邪でも、原因となるウィルスの種類が多くて、特定するのが困難だからや」

 犯人がわからんことには、対処のしようもないやろ、と翔太は続けた。

 しかし、今回の件に関していれば、これはクリアしている。風邪菌は今朝、「アデノウィルス3型」だと、はっきり自分で名乗っていたのだ。

「二つ目の理由は、風邪の菌がえらい速さで進化するからや。一度風邪菌を倒すワクチンが作れても、すぐに奴らは進化して、そのワクチンを無効化してしまうねん」

 話を聞いた風邪菌は、さっきまでの怯えはどこへやら、腰に両手を当て、その豊満な胸を思う存分張っていた。えっへん、という声さえ聞こえてきそうである。

「せやから、特定の風邪菌を倒すワクチン自体は作れんこともない。けど、それを製薬会社なんかで量産化、市販するのは無理っちゅうわけや」

 つまり、翔太に薬を作ってもらえば、風邪菌を倒すことは可能……?

 そんなことを考えていると、風邪菌が「くわあーっ」と奇声をあげながら、俺と翔太の間に割り込んできた。

 そして、まだちょっと青白さの残る顔のまま、俺に向かって言う。

「勇人さん、勝負のこと、忘れたんですか?」

「うぐっ」

 そうだった。今朝、勝負を引き受けると言ってしまったばかりだった。

「一週間くらい、余裕で耐え切ってやんよ。って言ってたじゃないですか。まさか、ワクチンなんていうつまらない手で、勝負を無効にするつもりじゃないですよね? 余裕で耐え切れるなら、ワクチンなんていらないですもんね?」

 さらに、畳み掛けるように言ってくる風邪菌。

 確かに、一度引き受けた勝負を投げ出すなんて、男が廃る。

「当たり前だろ。一週間後を楽しみにしてるんだな」

 俺がそう言うと、風邪菌は心底ホッとした様子で、小さくガッツポーズをしていた。後ろで、翔太が「なんや! ここになんかおるんか! なあ!」とうるさかったが、タイミングよく予鈴が鳴り、会話はそこで途切れた。

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