万年筆、それは受け継がれていく人生の伴侶(万年筆擬人化)
大惨事苦労
第1話 理性全滅! 万年筆は生物だった!
『そう、そのまま、ゆっくり私に触れて……』
20XX年のある夏の一日。時刻は日本時間PM15時34分22秒。
世間一般での基準に比べてあまりにも遅すぎるとは思うが、その日、俺は初めて女性の身体に触れることとなった。
過剰に乱れた呼吸を悟られまいとどうにか息を整え、その華奢な身体に、俺は震える右手でそっと触れた。
『あ――……んっ、あ……そう、そこだ……』
想像だにしなかったなめらかな手触りに、戦慄が迸る。
背筋を走り抜けた衝撃に、どうにもならないかと思えた呼吸の乱れが一周回って収まってしまうほどの心地よさだった。
『そう、落ち着いて、そのまま筆(ソレ)をおろして――』
“女”が、下から熱っぽく、艶然とした声で甘く囁いてくる。
――女、女……女、だよな、うん。
そんな自己暗示的な雑念が、手先を僅かに狂わせた。すかさず、彼女が非難の声をあげる。
『あ……ちょ、フミノリ……ダメだ、その手つきは』
「……すみません。慣れていないもので」
気を取り直す。直そうとするが、何分このようなコトは初体験なのでいまいち勘所が掴めない。
だいいち、やるぞという気持ちになっている所で『ヒン』だの『アン』だのあざとい声をあげることこそ一番の妨害ではなかろうか。
経験の少なさやら、気恥ずかしさやら、理不尽な状況に釈然としていないことやらが相まって、やはり俺はまた力加減を誤ったらしい。
『――ひぁんっ……!? ば、馬鹿もの……!』
二度目の我が粗相に堪忍袋の緒が切れたのか、手の中に納まっていた”彼女”が震え始め――物理法則というか、自然の理とか、リアルを完全に無視したメタモルフォーゼを引き起こす。
――変形しやがった。
こちらの正気度をガリガリと激しく削る容赦なきトランスフォーメイション――俺は、比喩でもなんでもなく、急速に生暖かく、人肌の柔らかさを得ていく”彼女”を、2割ぐらいの恐怖と8割ぐらいの「どーにでもなぁれ」という感情で眺めることしか出来なかった。
変身……変形? 心底どっちでもいいが、そういった工程が謎の発光現象と共に、きわめて雑に完了し、”彼女”はその真の姿(?)を顕現させた。
――もうどーにでもなぁれ。
ボロアパートの6畳一間で思考を手放そうとしている俺の目の前に、”豪奢”の2字をそのまま具現化して、それでは派手に過ぎると”可憐”という概念をも追加で身に着けたような、黒いドレス姿の美女が居る。
彼女は自身の豊かな胸の前で腕を組み、偉そうにふんぞり返って俺を見下ろしている。安物かつ年代物のちゃぶ台の上から。しかも土足で。
出来ればただちにそのポジションから下りてほしい。ほしいのだが、この圧倒的な美と怪奇現象を前にして、咄嗟に抗議に出られるほど俺は怖いもの知らずではないのであるからして、取り敢えず静観しながら自己防衛モードを発動させる。
どうにでもなれどうにでもなれどうにでもなれ。
魔法の言葉よ我が精神の均衡を保ちたまへ。どうにでもなぁれ☆彡
どんな怪現象も少しはウェルカムな状態になってくると、改めて彼女の非現実的なまでの美しさに目を奪われてしまう。
緩やかに波打つ彼女の艶やかな髪は、あまり日当たりの良くない我が家に差し込む昼下がりの陽光を受けただけでも、息をのむほど深く美しい黄金の輝きを放ち、その隙間から覗くサファイアブルーの瞳は、怜悧さと苛烈さとを完璧に共存させている。
それら眩い輝きに対し、身にまとう漆黒のドレスが与えるものは、奥ゆかしさにも似た控えめな印象だ。派手さを抑えるばかりか、透き通るような素肌の美しさを見事に際立たせ、おまけに目立ち過ぎぬ程度に配された白い花びらのような刺繍が可愛らしくもある。
商店街の隅っこのボロアパートに降臨した女神――
きっと、彼女にじっと見つめられでもしたら、更に優しく微笑みかけられでもしたならば、あらゆる男性は容易く虜にされてしまうことだろう。
だが、俺は――うっかり見惚れかけたものの――そうはならない。というのも、彼女の表情に満ちる、明らかな憤懣のせいだ。惚れさそうとか一切思っていなさそうである。燃え滾った怒りのオーラの矛先は、間違いなくこちらに向けられていた。
「……まったく――」
せっかくの端整かつ優美な眉根の曲線を吊り上がらせ、神妙な面持ちで正座したまま動けない俺を、仁王立ちのまま睨みつけてくる黄金女神。ちゃぶ台の上から、土足で。
汚れはなさそうだが、せめて靴は脱いで頂きたい。頂きたくて、俺は意を決して口を開いた。
「……あの、トランスフォーム早々申し訳ないのですが、日本の家では靴を脱――」
「まっったく、キミという男はっ……!」
「ヒェッ」
こちらの覚悟を一蹴するかのように、彼女はダンっと右足をちゃぶ台の上に叩きつけ、身を乗り出してくる。突然の威嚇に変な悲鳴が出てしまったが是非もなし。こわい。あと、ここは二階だからそういうのはやめてほしい。
踏み込みの瞬間、肉感的でなまめかしい太腿がチラリと覗き、不覚にも男心が擽られてしまったが、当初抱いた女神的な印象は既に完全崩壊していた。
「フミノリくん! キミは……キミはぜんっぜん私の扱い方がなっちゃあいない! キミは……キミは……」
ビシィと美しい指が眼前に叩きつけられる。そのポーズはちょっとかわいいが、総合的に考えるとやっぱりこわいので落ち着いて頂きたい。
ちなみにフミノリというのは俺の名前だ。教えた覚えはないが、理由あって最初からご存知のようだった。それに関しては、あとで回想しよう。
「キミは、こういうことするの、ひょっとして初めてか!?」
「……はい、初体験でした」
触ったことなかったしね、”万年筆”。
しゃべったり喘いだり変形したりするなんて、すごいや。
もうどうにかなってしまえ。
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