蒼の××①

 死ぬのが怖い、とミズキは言った。

 だが、彼は今まで彼女の行動をずっと見てきたからこそ思う。


 御影水城の行動は、死を恐れる者の動きではない。


 紅葉の代までは続いていた食事の毒味役の制度を「面倒だから」の一言で廃止した。


 致死の毒を盛られれば死ぬくせに?


 彼女は護衛を置くのを嫌がる。行動を制限されたくないと言って。


 暗殺を防ぐ術など持たないくせに?


 単独で組織の外へと出掛けてしまう。心配のし過ぎだ、口煩いと周りの声を切り捨てて。


 そうした結果、今回、片腕を失ったのに?


 死ぬのが怖い人間は、死を何なのか理解している人間は、こんな挙動にはならない。


 それは例えば──今のように。


「ああ、なるほど。君、あれを返してほしいのだね」


 驚くほど緊張感の無い声で、ミズキはそんなことを宣った。

 やめろ、刺激するなと。そう言い掛けて秋人が口を噤んだのは、ミズキを床に押し付けた体勢のままの青年──否、が先程までより明らかに殺気立ったからだ。


 この部屋に入った瞬間のことを思い出す。

 人を見て、ただ一目見ただけで、抑え切れないほどの嫌悪を覚えたのは──彼にとって初めてのことだった。


 そのことに驚いて思考を止める前に、左手は銃を抜いていた。


 見た目は、ただの青年だった。ただの、と言うには少々特異な色彩を持つが……そちらに関しては瑣末なこと。


 その上で彼を見て、本当にだと感じる人間が果たしてどの程度存在するのだろうか。今になって、報告係が必要以上に怯えていた理由を理解する。アルビノだからとか、そういう問題ではない。理由を付けるのにもっとも手っ取り早いのが容姿であっただけなのだろう。

 を見て、平気な顔でいられる奴は心底狂っている。自分が普通の人間ではないと正しく自覚している秋人でさえ──六大陸の王という本物の怪物をその目で見たことがある秋人でさえそう感じるのだ。彼が突然騒ぎ出したのも極度の緊張感に耐えられなくなったからだろう。可哀想なことをしたと思う。付き添わせた自分の落ち度だ。


 少なくとも、並みの人間であれば──否、生存本能を正しく備える生物でさえあれば、彼を目にしただけで息を殺すだろう。

 どうか、視界に入らぬように。どうか、意識に留まることのないように。どうか、どうか、自分の存在が彼の気を損ねることだけはあってくれるなと。


 あるいは、勇気と無謀を履き違えた者であれば過剰に敵愾心を向けるのかもしれない。

 だが敵対するだとか、そのような次元の話ですらない。

 生かしておく価値すらないと、そう認識されれば、そこで詰み。


 そんな化け物が、青年の皮を被ってそこに居た。


 部屋には魔術封じの結界が張られている。解除されたり壊れた形跡も無い。つまり、先の彼の動きは魔術に起因したものではないということになる。


 何が引き金になるかなど分からない。彼の動きを目で追えた者など秋人を含めてこの場にいない。止められる者は誰もいないのだ。彼が殺すと決めたのならば、そんな裁定を下したのならば、ミズキは死ぬ。


 ……だと言うのに。


「ふ、ふふ……そん、なに怖い顔を……しなくても。処分、は、していな……とも。わ、たしが、保管している」


 首を締められているはずの当のミズキは、苦しそうにしながらも何故かヘラヘラ笑っていた。


 これが命がかかっている奴の態度だろうか? なんて女だ。


 ……などと秋人が思わず辟易したところで、責められる者など誰もいないだろう。

 赤い瞳は奇妙なまでに爛々と輝いていて、高揚しているのが見て取れる。

 相手を宥めようとわざと明るく振舞っているとか、そういうわけでもない。その手の腹芸こそ得意だがおかしなスイッチが入った時の彼女にそういった計算は出来ない。

 その時その瞬間に望んだもの以外の全てがどうでも良くなるからだ。そう──己の命さえも。


 御影水城という女は、こういった点が異様で、異端で──殊更に不気味だった。彼女の表面しか見ていない人間は何故気付かないのかが秋人には疑問でならない。一目で、分かるだろうに。あれは異常だ。女の形をしただけの何か別のものだ。

 ある程度まともな価値観があればすぐに看破できる。もっとも、この組織にはミズキに心酔してしまっている者が多く、彼らの目は気の毒なほど曇っているのだが。


 しかし、だからであろうか。


 


 彼はぎょっとしたように身を引いて、思わずとでも言うようにミズキから手を離した。地面にひっくり返っている虫を見つけて、死んでいるものと思って覗き込んだら突然暴れ出した──そんなリアクションだった。

 だとしても事態は何も好転していない。ミズキの命は相変わらず風前の灯だし、彼の目的が分からない以上──ミズキは何故か訳知り顔だが──穏便に済ませる方法が思い浮かばない。……が、それで済むのならばミズキはミズキではないのだ。


「ゲホッごほっ! 全く、なんてことをするのかね。まぁ良い、私は寛大だ。多少の無礼は許そうではないか。して、青年よ。何をそんなに不貞腐れているのかね。もしや申し訳ないと思ったのか? 私の腕を奪ったから? そんなことは気にする必要は無いとも。私は心が広いことで有名なのだ。君がどうしてもと言うのなら謝罪を受け入れても構わないが、そのようなことよりこの先の未来について話そうではないか。君が魔術師でなければどうやってうちに所属させるか頭を悩ませたところだが魔術師というのだから話は早い。我が“銀の星”は魔術師の為の──」


 何事も無かったかのように、ミズキは床に仰向けに転がったまま一人で捲し立て始めた。室内にいる全員、いよいよドン引きである。つい先刻までは青年に恐怖の視線を向けていた構成員達も完全に見ちゃいけない人を見る目をミズキへと向けている。


 青年の方も同じだ。先程までは仇敵でも睨み付けるかのようだったというのに、今やその瞳には若干の怯えの色が見える。


 秋人はそっと息を吐いた。いくら見てくれは普通の人間の女と言えど、ちょっとああいうところが本当についていけない。なんと言うか、首と胴体が離れても何事もなく喋り出しそうなところが。


「うん? 何かね妙な顔をして。ああ、もしやあの押収品を返してほしいのかい?」


 さっき地雷でタップダンスしたくせにまだやるかコイツ。


 その押収品とやらが何かは知らないが、青年がさっきから過剰に反応するのはそれに起因している。そんなことは言わずもがなだというのに、ミズキは平然と同じ過ちを繰り返す。特に過ちだと思っていないからだ。


「そうは言ってもね。私としては返してやる義理も無い気がするのだが」


 もはや敷き詰めた地雷の上を目隠しで歩くような蛮行に、構成員達が「もう勘弁してくれ」と両手を合わせて祈り始めていた。秋人だって今すぐこの女を見捨てて立ち去りたいくらいだ。


 怪物の赤い眼が、じっとミズキを見つめている。選別するかのようにして。

 ややあって、青年の形をしたそれは、囁くように言葉を紡いだ。


「……義理? お前を殺せば、それで済むのに?」


 一切の抑揚が無い声。ただ機械的に文章を読み上げたかのような、そんな色の無い声。それは返事を求める為の言葉ではなかった。これと比べれば、被告人の罪状を読み上げる裁判官の方が余程感情に溢れているに違いない。

 彼は端から、語る言葉など持たないのだろう。


 そして、彼の言う通りだ。だから秋人もは諦めた。取引というのは力関係がある程度拮抗していなければ成立しない。相手の顔色を窺いながら何かを差し出すというのであれば、それは献上にしかならない。


 しかし、隻腕の女は何がおかしいのかくつくつと笑う。


 まるで。


 聞き分けのない子供に言い聞かせるうちに、思わず呆れて笑ってしまったかのように。


「あれはもう隠してあるよ。何処にあるかも知らないのにかい?」

「……死体から情報を読み取る魔術は存在する」

「隠した本人にしか開けられないような場所だったら?」

「壊せない物があるとでも?」

「そう。でも強引な真似をしたら中身も壊れてしまうかもね」


 束の間。

 青年は押し黙った。それは単純に言いくるめられたからかもしれないし、もっと別の理由があったのかもしれない。

 鼻唄でも歌い出しそうなほど上機嫌だったミズキは、そこでようやく顔を顰めてみせた。


「……そんなに大切な物なのかい? ではないか。魔導具ですら無かった。明らかに大量生産されて雑に配られているような代物だろう」


 この場には似つかわしくない単語に、秋人は眉を寄せる。とてもではないが青年が信心深いようには思えない。彼が敬虔な使徒だと言うのであれば、この世界はやはりどうしようもないほどに狂っている。


 青年はかくん、と首を傾げた。その様は何処かぎこちなく、秋人には人でなきものが人間の真似をしているようにしか見えなかった。


「……大切?」

「違うのかね?」


 だがその一方でいつの間にか二人が普通に会話をしていたことに、一体誰が気付いただろうか。


 ミズキが不思議そうに返すと、青年は視線を彷徨わせた。血を溶かし固めたようで──それでいてガーネットに似た輝きを持つ赤い眼が、行き場を失ったかのようにして。


「分か、らない」

「じゃあ何故、真っ先に何処へやったかと問うたのかね。無くしては困るものだったのだろう」

「分からない」

「それなのに返してほしいと?」

「……わからない」


 奇妙なことに。

 そう呟いて目を伏せた青年は、秋人にはまるで──迷子の子供のように見えた。突然見知らぬ場所に一人で放り出されたような、そんな途方に暮れている幼子を幻視した。


「ではこうしようではないか、青年よ」


 ミズキは微笑んで左手を伸ばす。青年の頬を撫でるようにして。彼が驚いたように身を引いた為に、実際にはその指先は空を切っただけだ。気を悪くした様子もなく、女は告げる。


「あれは私が預かっておこう。私は君からあれを無理矢理取り上げたわけでなく、ただだけだ。。君の中で答えが出たのならば、その時に返そう。あるいはそれこそ私を殺してでも奪い返すと良い」


 ……一方で。

 秋人は迷っていた。

 青年は明らかにミズキの言動に怯んでいる。大人しく聞いているように見えるのも、言葉の意味を咀嚼するのに時間がかかるからだろう。付き合いの長い秋人でさえ「何言ってんだこの女」以外の感想が出てこないのだ。彼の気が逸れているのは言うまでもないことである。


 故に、引き金を引くのであれば、それは今だ。


 腕には自信がある。そうでなくとも五メートルも離れていない以上、外すなどとはあり得ない。頭部に一発、それで終わる。


 だが、もしも気付かれたとしたら?


 賭けるものが己の命一つであればまだ良い。ここで終わるのはが、諦めもつく。しかし、失敗すれば高確率でミズキは殺されるだろう。最悪の場合、ミズキを銃弾の盾にされる可能性すらある。


 だから、引き金を引くという決定を下せない。

 ミズキの好きなようにさせることの方がよほど危険であると頭で理解しながらも、動けない。

 彼女は自分のしたいようにしているだけだ。他者の感情の機微が分かるような女ではないのだから。

 それが吉と出るか凶と出るかはいつだって結果を見るしかない。そしてその結果とやらは、存外、早くに訪れた。


「行く宛もないのだろう? ならば何を迷うことがあるというのだ。それに、言ったではないか。私は君のような者を待っていたと」


 白い怪物が、じっと女を見つめている。

 そこに初めのような憎悪の色はない。かと言って、取るに足らない虫ケラを見るようでもない。

 ただ、理解出来ない奇妙なものを眺めるような好奇の色だけが宿っていた。


「だから私のものになり給え、青年! そしてようこそ、我が組織──“銀の星”へ!」


『そしてようこそ。我らが組織──“銀の星”へ』


 その笑顔は、いつぞやと同じく。


 花が咲いたかのように綺麗で、それでいて何処か作り物めいていたように思う。

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