終幕.蒼玉ヘジテイト

「お前さぁ……本当に何ともないの?」


 珍妙な……というよりも、化け物を見るような目を向けて男は言った。彼の前では(趣味の悪い)真っ赤なパーカーワンピースを着た女がくるくると杖を回している。身体つきもすっかり女性のそれになり、顔立ちに昔のあどけなさの面影は無い。愛嬌と呼べるものは元から無かったため、そう悲観することでもないのだろうが。


「何がかね。主語が無いようだが」

「その身体だよ」


 男の──秋人の返しに対してミズキは「ふむ」と自身の身体を見下ろした。

 表面上おかしなところなど何も無い。健康体そのものだ。そしても。定期的に健診を受けているが異常は見られない。内臓の一つや二つ無くなっていてもおかしくはないと思っていたのに。あるいは、増えるとか。


 まるで壊れた時計のように若返っては歳を取り、歳を取っては若返っていく。今はちょうど若返る直前の周期だ。この歳頃を境にして彼女は普通の人間が歳を重ねるのと同じペースで一年ずつ若返る。


「何を今更。すこぶる好調だ。知っているではないか」

「……有り得ないから聞いてるんだって。何回目だ?」


 そうだ。このやり取りは何もこれが初めてではない。今までに何度も繰り返してきたし、その度にミズキは肩を竦める。

 だが、そもそもの話。こんな意味の分からない現象が現実に起こって良いはずがないのだ。


「だからそのというのがどういう意味かを教え給えと昔から何度も言っている。君は言葉を濁し過ぎる」

「まぁなぁ。俺もそれは自覚してる」


 秋人は懐から取り出した煙草に火を点ける。この組織、火災報知器とか無いらしいので室内だろうと気にしない。あと、女子供の前では吸わないがミズキの前でも気にしない。そういう生き物だし。

 ……と、現実逃避も程々にして、彼はもう一度ミズキに視線をやる。大きく吐いた息は煙を吐き出す為か、ただ溜息の為か。


「絶対、ブチ切れてると思うんだけどなぁ……」

「だから! それを! 詳しく教えろと言っているのだ!」

「ヤダよ。俺がうっかり喋ったせいでお前が目の前で即死したらトラウマになるもん。一生夢に見るわ」


 この【世界】には制約があまりにも多い。そういったしがらみからはすっかり解放されている自分とは違い、他の存在はどの程度縛られているのかが彼には分からない。

 その上で底意地の悪いルールばかりが用意されていることだけはよく知っている。冗談めかして言いはしたが、本当にいきなり目の前の女の首が捥げる可能性だってある。秋人が知るこの【世界】というのはそういうものだった。最悪も最悪の想定ではあれど可能性はゼロではないのだ。

 誰の目にも見えない地雷原に突き落とすような真似は避けたい。


「ふん、そんなもの。取り縋って泣けばよいではないか。それとも出来ないとでも?」

「泣かないわけないだろ。付き合いの長さ舐めんな」


 拗ねたように口を尖らせたミズキを一蹴する。彼女は驚いたように動きを止めた後、悪戯っぽく笑った。


「何だ、泣いてくれるのかい。それは惜しいな。私がこうなっていなかったらもっと昔に現実になっていただろうに」


 機嫌良く鼻歌混じりにミズキは言う。またくるくると杖を回しながら。子供の頃は大き過ぎるように見えた魔導具が、今やすっかり小さく見える。


「どうせ私が死んだらここを出ていくつもりだったんだろう? アテが外れたね」

「そうだよ。俺の人生は想定外のことしか起きないんだ。気の毒がってくれ」


 何が可笑しいのかけらけらと笑うミズキに、また溜息を吐く。

 彼女の言う通りだ。初めは利害の一致から始まった関係だった。都合が良いから残っただけだった。

 それ故にいつまでもというわけにはいかない。彼には目的があったし、少女の人生は有限だった。

 目的を達成しても、しなくても。がタイムリミットだと思っていた。毎日顔を合わせていれば嫌でも情が湧く。そんな少女をこの場所に置き去りにするのは違うような気がして、ならばせめて彼女がこの世を去るまではと。


 そのはずだったというのに。


 秋人は知っている。

 目の前でまるで童女のように愉快そうに笑っている女が、ここに辿り着くまでにどれほど悍ましい真似をしてきたかを。


 この組織の、誰も立ち入れないような奥深く。そこで毎晩のようにどれほどの血が流れているかも。


 ミズキは、自分に隠そうという努力はしているのだろう。

 だが、不可能な話だ。気付かないままでいるには共に過ごした年月が長過ぎた。

 どれほど取り繕ったところでぼろは出る。まして、ミズキ自身に罪の意識などカケラも無いのだからなおのこと。


 そうして──


 彼は、放置することを選んだ。


 理由なら、ある。だがそれは繰り返される凶行を見過ごして良い免罪符にはならない。

 なんてことはない。結局のところ、彼は文字通り人でなしだというだけのことだ。


「私の人生とて想定外に見舞われてばかりだよ。一番の想定外は、君かもしれないが」


 赤い目が、男へと向けられている。

 熟れた果実のような両の目。挑むような強い光を宿す眼。

 そこに嗜虐の色が浮かぶことはない。隠すことを覚えてしまったから。


 多くのことが変わった。変わらない自分とは違って。

 恐怖と力で組織を押さえ付けようとしていたかつての幼い少女は、今や多くの部下達から慕われている──表向きは。

 ミズキは人の感情の機微に疎い。その一方で彼女は頭が良かった。どうすれば他者の信頼を得られるか。どう振る舞えば聖君のように見えるか。どうすれば──都合良く人間を支配出来るか。

 短い期間、周囲の反応を見ながらも彼女は驚異的なスピードでそれを学習していった。そして時間が経ち過ぎた今、幼少期のミズキのことを知る者はもう誰もいない。変化を間近で見続けていた秋人を除いて。


「ねぇ、秋人。我が理解者」

「お前の理解者になった覚えは無いよ」

「そう言わずに聞き給えよ」


 ふ、と笑ってミズキは杖先の魔導石を指で弄る。あれは仕込み杖だ。刃には神経毒が塗られている。

 花が綻ぶように微笑みながら、それでも女は猛毒を仕込んだ杖を手放さない。


 ミズキが変えてしまったものの一つに、『御影の人間は迷いの森から出られない』というものがある。長い時間をかけて、ミズキは部下達に迷いの森周辺にかけられた結界の仕組みを解析させた。どれほどの時間がかかったかは分からない。定命の者であれば無駄なことだと早々に匙を投げたはずだ。

 もうここは御影の直系を閉じ込める為の檻ではない。   


 だがきっと、それは老いることのなくなったミズキにとっても長過ぎる時間だったのだろう。ようやっと『自由』が目の前に差し出された時、彼女はすっかりそれへの興味を失ってしまっていた。

 気紛れに組織の管轄下の土地へ赴くこともあるがそれだけだ。

 残されたのはただの、彼女の為の生簀だけ。


「私はねぇ、本当の本当に死にたくないんだよ。君には分からないかもしれないけれど」


 ミズキは理解しているのだろうか、と男は思う。


 人は死に怯える生き物だ。死を恐れる生き物だ。その一方で、死は人に与えられた平等な安寧の権利でもある。


 安息の権利を失えば、人はやがて狂っていく。


 彼女が狂っているか否かと問われれば、間違いなく狂っている。彼女の所業は正気の人間が出来るそれではない。

 それでも彼女はまだ、生の恐怖を知らない。


「だって死んだら何も残らないじゃないか」

「生きていたって何も為せないのなら同じことだ。俺はその方がずっと怖い」


 ふぅん、と女はどうでも良さそうに生返事をした。随分前から、本当の意味では彼女に言葉は届かなくなっているように思う。


「この身体はある日突然手に入ったものだ。だからいつか突然失うかもしれない。私は、それが酷く恐ろしい」


 そんな理由で彼女は生きたまま人間を捌くような人体実験を続けている。

 ミズキはいずれ罰を受けるだろう。

 曖昧な予感ではない。これは確実で、確定事項だ。


 その時まで自分が彼女の側にいるのかは──彼には分からない。


 それでもいつか終わりはくる。この【世界】は永遠の安寧というものを許しはしないから。


 だから彼は、今日もこんな場所で燻っている。

 やがて訪れる裁きの時まで。

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