菫の花が望んだものと、一欠片の後悔①
あいしているわ。
いとしいこ。
♦︎
その地獄のような光景は今でも夢に見る。
壁も床も、人も。何もかもが真っ赤に染まって。吐き気をもよおすほどの強烈な血の匂いに口元を抑える。
あまりの恐ろしさに私はその場から逃げ出した。私はここから離れられないのだと思っていた。あの人達に愛してもらうにはずっとここで耐えなくてはいけないのだと信じていた。
だけど村の中にはもう誰もいなくて、私を引き留めてくれる人も──そんな人はきっと初めからいなかったのだけれど──怒鳴り付ける人すらも、いなくなってしまって。
泣きながら村を飛び出して、森の中を走り抜ける。
嫌だ。あそこにいるのは嫌。もう怖いのも痛いのも嫌。誰も愛してくれないのは、誰にも愛されないまま死ぬのは嫌!
元々ボロボロだった服が木々に引っかかって余計にみすぼらしくなる。手も足も傷だらけで、目の前もだんだん霞んでくる。
ああ、ここで終わりなのかな……なんてことを考えた、そんな時だった。
『──ああ、本当に……憐れで愚かな可愛い子』
その、声が。
『お逃げ。あちらへ。そしてどうか……どうか幸せに──……』
神様の声が、聴こえたのは。
♦︎
走り疲れて意識を失った先で、幸運にも私は人に見つけてもらったようだ。泥まみれで、ボロボロで、汚かっただろうに……。
実際、私を連れ帰るかという点で意見が割れたのだと随分と後になってから知らされた。
当然、よね。
だって、私、何の役にも立たない落ちこぼれなんだもの……。
私がこんなだから、全部いけなかったんだわ。
だけど。
とある方の一言で、私は保護される運びとなったのだとか。……こんな私に慈悲を与えてくださるのだもの。きっと、素晴らしい御方なんだわ。
彼女は私に住む場所を与え、着る物も食べ物も施してくださった。体力がすっかり回復した頃、数人の大人に連れられて御挨拶に伺った時、嬉しそうに笑っておられた彼の方をよく覚えている。
私はこんな事をして頂いたとして、返せるものが何もない。これ以上は頂けない、すぐに出て行くと──そう正直に話すと、彼女は肩を竦めただけだ。
『ふむ、もう随分と元気そうではないか。なに、この場所は君のような者も多くいる。気兼ねすることはないよ』
熟れた果実みたいな真っ赤な目。綺麗だと感じたのは、彼の方が向けてくださる感情がとても温かなものだったからだろう。
『ようこそ、魔術師の楽園へ。私の名は御影水城。少女よ、私に君の名前を教えてくれるかい?』
──居場所が欲しかった。それこそ、神様にお願いしてしまうくらいに。
誰かに手を述べてほしかった。その手を掴んで、縋りたかった。
嗚咽が溢れて、満足に言葉にならない。それでもしっかりと聞き取ってくださった水城様は、優しい笑みを浮かべて私を見た。
『そうか、ヴァイオレットというのか。良い名前だね。君に良く似合う』
欲張りな悪い子でごめんなさい。神様、あんなに恐ろしいことをしておいて、まだ欲してしまう私をどうか許さないでください。
『……全く、泣くのはおよし。これまで辛い思いをしたんだね。もう大丈夫だとも』
幸せになりたい、だなんて。そんな身の程知らずな願いは抱きませんから。
「こ……っ、これから、よろ……く、お願いします……! 水城様……っ」
せめて、残る人生を、この方の為に使っていきたい。
♦︎
「魔術師の為の、組織……?」
教えられたことをそのまま反芻すると、目の前の方は表情を変えずに頷いた。ぱらぱらと資料のようなものをめくりつつ、私の顔と手元の紙を交互に眺めている。
「これからの生活について聞いておくように」とのことでその後別室に通されて、複数人の大人達に囲まれている。
魔術、と聞くだけで心臓が縮んだ気がした。
思わずぎゅっと拳を握り込んでしまう。
「魔術は今や過去の遺物となってしまった。超常の現象を、異端と捉える愚か者も多い。この“銀の星”は逸れの魔術師を保護する名目で水城様が運営されている」
「近年は魔術師狩りも活発になってきているからな」と辟易したようにどなたかが呟いた。
そうなんだ……知らなかった。
水城様、やっぱり凄い御方なんだわ。
「ここに残る以上、君は末端の構成員として登録される。寝室だが、複数人の共同部屋になる。食事は食堂に行けば好きな時間に食べられるから、それも含めて自由にすると良い。日々の生活において上層部が下位の構成員に干渉することもない。人数が多過ぎて管理出来ないからな」
「基本は共用の場所以外は行かないように」と告げられる。というのも広過ぎて人があまり立ち入らない場所が多く、迷い込んでしまったらそのままもう二度と……なんてケースが考えられるからだそう。実際にそんなことがあったのですか、とは聞けなかった。
目の前の方は空気を変える為かわざとらしく咳払いをする。
「ほとんど水城様の道楽というか、慈善事業でな。はっきり言ってこの組織の運営はかなり厳しい。一定の年齢に達している者には様々な仕事をしてもらうことになっている。ただ、君は見たところ十に満たない年頃のようだが──」
「あっ、いえっ、今年で十三です!」
「なに?」
何を言っているのか、という怪訝な目が一斉に向けられる。そ、そうよね……私、身長すごく低いもの。
「す、すいません……嘘ではないんです……背が伸びなくて……」
皆さんが沈黙してしまって心が痛い。こんなことならもっと早くに言っておくべきだったかしら。
「君は……まずよく食べてよく寝るべきだな。本来は十三歳以上の者には任務が与えられるが、まぁ水城様には話を通しておこう」
「え? いいえ、そんな! 私ちゃんと働けます!」
具体的に何をするかは分からないけれど、精一杯頑張ってみせる。そんなの、申し訳なくて耐えられないもの……!
「ああ、良い良い。慣れてきたら組織内の雑用でもしてくれれば構わない。我々を人でなしにしないでくれ。というか、働かせたら怒られる……」
「でもっ」
「子供拾うの好きだからなあの人」
「秋人様も良い顔しないだろうしなぁ」
何度も「いいえやります」と繰り返したけれど、皆様はハイハイと軽くあしらうばかり。
ああ、やっぱり私が役立たずの無能だからいけないのかしら。きっとそんなオーラが滲み出てしまっているんだわ。私、私が……。
「お、おい、どうした? 何で泣くんだ」
「誰のせいだ? こいつか!?」
「いや、お前だろ! 怖かったのか? 違うぞ、水城様の『子供を拾う』っていうのは何も取って食おうって意味じゃ──」
「馬鹿! 余計なこと言うなって!」
目の前が滲んでよく見えない。我慢しようとごしごしと目元をぬぐっても涙が溢れてくるばかりで嫌になる。
駄目よ。皆様、良い方ばかりだもの。だったら余計にお伝えしなきゃ。
しゃくり上げながらも、声を絞り出す。
「みっ、皆さんも魔術師……なんですよね……?」
「ここにいる者は
心臓が軋む。動悸が激しくなって、耳鳴りが止まない。
魔力。魔術師。そう、私は魔術師として生まれ落ちた。
「私……わたしは……」
……全部、私がいけなかったの。私の出来が悪いから。私の努力が足りなかったから、私が悪い子だったから。
きっとそう。だから私には、何かを恨む権利は無い。
「魔術が、使えないんです。何一つとして」
……空気が凍り付いたのが分かった。
魔術師が、魔術を使えないだなんてあり得ない。そんなの、とんだ欠陥品だ。
この方達も、水城様も、初めからそれを知っていたのなら私のことなんて捨て置いただろう。私はそれくらい、異常な存在だから。
「後天性の病気とか、そんなのじゃ、ありません。生まれた時からずっと……誰にでも出来るような基本魔術さえ使えません。魔力回路はあっても、あるだけなんです」
私は魔術師として生まれ落ちた。ただ、それだけ。魔力を作る機能はある。魔術師としての絶対条件だけなら。
みんなが当たり前に出来るようなことすら出来ないで、ずっとずっと落ちこぼれ。
初めはお母様やお父様も慰めてくれた。大丈夫、少し人より遅れているだけだと。色々な先生も呼んでくれて、私だってたくさん勉強して……。
『我が家門の恥晒しが。お前など生まれてこなければ良かったのだ』
……お父様達をあんな風にしてしまったのは私。私さえいなければ、何もおかしくならなかった。
長い長い沈黙の末、目の前の方がゆっくりと口を開いた。慎重に、言葉を選ぶようにして。
「我々は……正直、君のような存在を魔術師として認めて良いのか分からない。済まない」
罵声を浴びせられるものと思っていたから、思わず瞬きを繰り返してしまう。周りを見渡してみると、ただ困惑の気配だけが残されていた。敵意や憎悪はなく、「どうしたら良いのか分からない」といったような。
「だが、水城様はそのような些細なことは気になさらないだろう。彼の方は適当……否、懐が深い方だ」
「些細って、そんなの、」
些細だなんて。そんなはずない。
そうだったらどんなに良かったか。
──だって、それはずっと前から欲しかった言葉。
そして、いつしか欲しがることすらやめてしまったもの。
「とにかく、あまり気に病まないように。しかし道理で細っこいはずだ。全く、水城様が知ったら怒り狂うぞ」
「報告係は平等にくじ引きで決めないか?」
「……何が平等だ。お前確率を操作する魔術使えるだろ」
どなたかの大きな手が、私の頭を撫でる。もう心配ないとでも言うように。
……今日で泣くのは終わりにしよう。
私は償いの為にも生きなくちゃいけないから。
私という存在は死んだら地獄に落ちるに決まっているけれど、せめて。
今くらいは、湧き上がる温かな思いに触れていても良いでしょうか?
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