終幕.追想エゴイズム

 メイザースの言う通りにするようになってから私の組織は良い方向へと向かっていった。

 以前は構成員達もすれ違う度に身を竦ませていた。私はこの組織で最も偉いので仕方がないことだが、そうなってくると仕事に支障が出る。

 私に話しかけることすら畏れ多いという空気が蔓延すれば些細な失敗も隠すようになるだろう。それではいけない。私には【ミミルの知恵】があるとは言え、私の魔力は有限だ。いつもいつも全ての人員に行使するわけにはいかない。

 どんなくだらないことでも進んで私に述べるようになれば、扱い易くなる。


 観測者ではなく、“銀の星”の当主として。そのようにして努める私の姿を見せればこれまで御影に反発していた者達も納得するだろう。母やそれ以前の御影の当主達は何故か観測者であることに固執していたようだが、私はそういったことはどうでも良い。観測者としての仕事も訳の分からぬものばかりだ。何故世界各地で起きていることを事細かに記録しておかなければならないのか。誰が読むんだそんなの。


 そんなことをしていては他の業務など手に付かないだろう。一日中ずっと紙やペンと向き合わなくてはならない。少し前まではメイザースに手伝わせていたが、そのメイザースも隠居だなんだと言ってメイザース一族の当主の座を弟に譲ってしまった。仕方がないので秋人にやらせようと思う。あれはああ見えて仕事が早い。日頃から現場に出るのを嫌って外の任務には積極的でないし、書類仕事ばかりをさせている。八割くらいの仕事は秋人に振ることに決めた。


(母も椿も、観測者としての仕事がもっとも重大であるかのように考えていた。大層な理由があるものと思っていたが、こうした今になっても分からん)


 私が“こう”だから母も後継ぎは椿だと確信していたのだろう。私だってこんなことになるとは思ってもみなかった。

 興味の無いことをしなければならないのは地獄だ。素知らぬフリをして放り投げようかとも思ったが大人達が五月蝿いのでそれとなく手を抜くことで妥協している。決められたことをダラダラと続けることに固執する老害どもめ。いつかどうにかして完全に観測者の業務を廃止してやろうと思う。


(そうだ。私は観測者などになりたくなかった。だって──)


『だが覚えておくと良い。これは忠告だよ、御影 水城』


 ふいに、脳裏に子供の姿が過ぎる。

 口元を引き裂いて笑う子供。悪意とは何たるかを知って、それをひけらかすことを悦とする魔物のような。


 ……そうだ。何故忘れていたのだろう。あの時の私は子供の言葉を聞き流した。

 私は観測者になどならないから。そう、思っていたから。だから白昼夢か何かのようにすぐに忘れてしまった。


『もしも観測者としての使命も役割も踏み躙り私利私欲を満たす為に動くことがあるとすれば──』


 ああ……知っていたのか。


 あの子供は椿でなく、私が観測者になるのだと知っていた。分かっていたからこそ私の前に現れた。フードの下から覗く意地の悪い笑みがありありと思い出せる。あの子供は御影 百夜を自分が殺したかのように振る舞っていたが、何てことはない。


 御影 百夜の死も、御影 紅葉の死も、私が椿を追い落としたことも、何もかも。全て初めから決められていた定めだったということか。


「……はっ、まさしく死神ではないか」


 ふざけたことを。ならば私の終着点もまた、決められていると?

 死んでいった者達と同じように、よもやこの私までもが愚かだと?


 そんなはずはない。私の正しさは私が一番よく知っている。私がはずがない。ならば私に背く全ては誤り、私を否定する全てが間違いだ。

 故にあの神は間違っている。


 そうだ。それを、証明するには──。


「メイザース! 私の貴重な時間をお前にやろう!」


 メイザースの部屋の扉をガンガンと叩く。呼び付けてやっても良かったが彼奴は最近ほとんどの時間を寝て過ごしている。私はとても寛大なので、いつも仕方なしに自ら足を運んでやっているのである。


 メイザースであればきっと何か思い付くはずだ。何せ、奴は愚か者ではなかった。近頃、メイザースが私を見る目は奇妙だ。この前もこの私に向かって「孫のよう」などと無礼なことを宣っていた。ついに耄碌したのかもしれない。孫も何も、奴には子供がいないのだから。


 ……だが、まぁ。


 不快ではない。


 血を分けた本物の祖父はゴミにも劣る存在であったことを踏まえると、存外、メイザースであればその立場に収まることを許してやっても良い気がした。

 そうだ、ついでにその話もしてやろうと思っていたのに。全く、いつまで扉を叩いてやらねばならないのか!


「水城様? 如何されましたか」


 背後からかけられた声につられて振り返る。そこにいたのはメイザースではあるが、メイザースではなかった。メイザース一族の現当主、目の前の部屋の主人の弟だ。メイザースは如何にも狸ジジイといった雰囲気であるのに対して、この者はあまり印象に残らない風貌をしている。何のオーラも無い男である。メイザースとは歳が離れているので、まだ老人と言うほどでもない。


「む、良いところに現れたではないか。メイザースの無礼者め、私が来たというのにちっとも出てこないのだ」

「それはまた……部屋にはいるはずですが。妙ですね。近頃は水城様が来られるのをいつも楽しみに──」


 男は、はた、と動きを止めて扉をじっと見つめた。ややあって、その視線は私へと移る。


 そこに宿る感情の正体を知っている気がした。この数年で幾度となく私へ向けられてきたもの。故に、畏怖へと塗り替えてきたもの。


 それを人は、憐れみと呼ぶ。


「水城様。ここは私に任せ、一度お戻りください。兄も望まないでしょう」


 チリ、と脳の奥が焼けるような錯覚に陥る。目の前の扉が酷く得体の知れないもののように見える。


 馬鹿なことを。


 こんなものはただの鉄の塊だ。


『お前にはいつか、日が来るだろう。だけど観測者たるお前には、願うことも祈ることも許されない』


 水城様、と男が繰り返した。この男は誰に向かってものを言っているのだろう。私を誰だと思っている。


 観測者などではない。御影の現当主たる私に向かって、何を。


「……こじ開けろ」


 ややあって、そんな言葉が口から滑り落ちる。この煩わしい耳鳴りも、この扉を開ければ止まるはずだ。


「ですが、水城様」

「これは命令だ。それとも聞けないのか? 私がこの場で貴様を処刑したとて、誰が異議を唱えられる」


 そんな者はもはやこの組織に存在しない。私がそうした。騒ぎ立てる愚か者どもを、全てこの手で殺してきた。


 私の背後には屍が続いている。積み上げられた死体の上に、私は立っている。私が御影の当主であり続けるには必要なことだからだ。

 不当な手順で頂点に立ったのだから、を払い続けることでしかこの立場を維持出来ないからだ。


「……承知致しました」


 軽く頭を下げた男は、魔導具の杖を取り出して扉へと向けた。


 たった、それだけのことだ。


 ♦︎


 メイザースの葬儀はつつがなく行われた。念の為に遺体を調べたが、事件性は無い。発作を起こし、そのまま逝ったのだろうとのことだった。


「クソジジイめ。最期まで癪に障る」


 がらんとした室内に残された寝具を蹴り飛ばす。腹が立つほど片付いた部屋だった。部下達に整理するような物など何も無いと言われ、頭に来て私自らが赴いたが……事実、必要最低限のもの以外ほとんど置かれていない。

 いつ死ぬとも知れぬと、随分前から覚悟していたのだろう。──あるいは、朱雀院達が死んだ時に共に死ぬ覚悟でもしていたのかもしれないが。


「……」


 暗い部屋に窓は無い。

 秋人が言っていた。普通はこういった部屋には一つでも窓が付いているものだと。“銀の星”にそんな部屋は無い。この場所は監獄だからだ。魔術師の為の、魔術師だけの牢屋だからだ。

 無機質な部屋。ここは独房にでも閉じ込められたような錯覚に陥る。その気になればこんな部屋からは──この部屋からだけは、いつでも出られるというのに。


「私が産まれてすぐ、父に当たる男は首を括って死んだらしい」


 一つ。親指を折って数える。

 何が彼を悲観させたのかは知らない。知る由もない。


 部屋に響いた自身の声の温度の無さに、何の感傷も抱かなかった。


「母は死んだ。……貴女が事故で亡くなったのなら、私は当主になろうとはしなかったはずだ」


 二つ。人差し指を折る。

 母は父と同じく、自ら死を選んだはずだ。状況を見ればそうとしか考えられない。


「椿は追い出した。どちらかしかここから出られないのであれば、それはお前であるべきだった」


 三つ。中指を折る。

 私ならば元老院の連中に食い物にされることもない。であれば、これがもっとも合理的だ。


「朱雀院はこの手で殺した。御影の当主に楯突く愚か者めが。地獄で悔いてももう遅い」


 四つ。薬指を折る。

 ついぞ、祖父と思ったことなど一度も無かった。最後の血縁者ではあったが、何の情も湧かなかった。


「そしてメイザース。病なんぞに殺されおって」


 五つ。最後の指を折る。

 握った拳を見下ろして、思わず嘲りの声が出た。


「なんだ。何も残らないではないか」


 ──ああ、なんと滑稽なことだろうか。


 望んでもいなかった観測者の権力に何の意味も無い。

 秋人は、あの男と私は互いに利用しているだけだ。利害が一致しているから手を取っただけ。価値がなくなればどちらかが手を離して終わるだけの関係性。


「ははっ、どうだ死神よ。予言通りに全て失ってやったぞ! 私を殺しに来るのではなかったのか!?」


 何も無い。何も残ってなどいない。

 そも、この場所には初めから私のものなぞ存在してはいなかった。そして、この先も。


 あの子供の返事は無い。地獄から私を眺めながら、意地が悪い笑みでも浮かべているのだろう。


 あれはいずれ私を殺す。

 私を、殺しに来る。


「……ふざけたことを」


 どれほど勝手なら気が済むのか。ならばあの時に手を下していれば良かったのだ。そうすればこんなことにはならなかった。そうすれば私は失わなかった。だってあの時死んでいればもっと何かが変わっていたはずだ。


 今更。全て今更な話だ。

 私はもう、死ぬわけにはいかない。母を犠牲にしたのだ。椿のことも傷付けた。そんな私が今更死ぬようなことになったら──二人の人生が、あんまりではないか。


 生き延びなくては。私は私の正しさを証明しなくては。私が正しく在れば、必然的に母と椿も正しくなる。


「だが……どうする?」


 正しさの証明。私がこの世でもっとも正しいということは自明の理だが、だからこそ証明の手立てが無い。


 私は、正しい。


 あの子供は間違っている。


 間違っているくせに、私を殺すと宣う。


「ああ──ならば、簡単なことではないか」


 そうだ。あまりにも簡単なことだ。


 死ななければ良い。私がただ生きているだけで私の正しさの証明となる。私が生き続けるだけで彼の者の言葉を否定出来る。


 私が、生きてさえいればそれで。


 私の存在によって、全ての誤りを否定するのだ。


「惜しいなメイザース。もう少し長く呼吸を続けていれば、この素晴らしい思い付きを存分に語ってやったものを」


 もうこんな部屋になど用はない。これからどうするかを考えなくては。


 そう、考えた矢先のことだった。



 ──ごとん、と音を立てて、


 突如出現したが、私の目の前に落ちてきたのは。



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