深緑の思惑は

 男の祖先はマグレガー・メイザース。

 かつて世界を混沌に叩き込んだ六大陸の主達を封印した魔術師の一人だ。


 彼は顎髭を撫で付けながら、ぼんやりと窓の外を見遣る。


「本当に分かってくださったのか、はたまた……貴方の御子は難しい方ですなぁ、百夜様」


 挑むような赤い瞳が脳裏に浮かぶ。一年前、彼女を唆したのは自分だ。それでもやはり過ちだったのではと、そんな考えに支配される。歳を取って耄碌したとすればそれはそれで構わない。どちらにせよそろそろ現役を退く時だ。だが、たった七歳の少女にあまりに酷な道を示したという事実は変わらない。


 メイザース一族には大した力は無い。彼一人では目的を達成することなど出来るはずもなかった。元より、など身勝手なものだ。だがこうして全てが終わってふと振り返った時、一体何が残されているというのか。


 十数年昔、男がまだメイザース一族の当主ではなかった頃。彼が世話係として側についた、幼く無口な少年を思い出す。当時から次期御影の当主の婚約者であった少年の、監視役として男は元老院により指名された。

 男が当主になるまでのほんの僅かな期間だ。自身の子供すらいない男にとって、初めは煩わしいことこの上なかった。


「百夜様も紅葉様も……そんなにも生き急ぐ必要が何処にあったと言うのです。よもやこの老いぼれよりも先に逝ってしまうなどと」


 息を吐き、男は椅子に腰掛ける。

 いつからか息子同然に思っていた。勿論、彼に──百夜にとってはメイザースなどいてもいなくても変わらなかっただろう。だが、百夜もその婚約者も、本当に我が子のように愛していた。


 朱雀院家はやり過ぎた。元老院の者達が御影の当主に反発を示すようになったのも朱雀院一族が扇動したからだ。

 禁じられている人体実験に手を出そうが出すまいが瑣末なこと。

 元老院の役目は御影の当主に付き従うことのみ。大人しく従えない者などいてはならない。


“銀の星”が立ち行かなくなることになれば──魔術師は滅ぶだろう。


(朱雀院は死んだ。椿様が当主となられることには不安があったが……水城様であれば大丈夫だろう)


 どの道、“銀の星”には慣例とは違う何かが必要だった。同じことを繰り返しているだけでは物も人もいずれ澱んでいく。その結果として朱雀院達の台頭を許したのだから、一度新しい歯車を嵌め込まなくてはならない。

 手をこまねいている内に紅葉までもが死んでしまった。本来であれば御影の当主にならなかった片割れを秘密裏に保護しようと考えていたのだが──些か、水城の方が動くのが早かった。


「何もかもこの本のせいか。しかし……何なのだこれは」


 魔術で鍵を掛けている引き出し。その更に奥から黒い表紙の本を取り出す。表紙には一切の文字が記されていない。


 ──ある本を手にしてからです。百夜様がおかしくなったのは……。


 そんな報告を耳にした時、何を馬鹿なと一笑に伏した。だがそれも朱雀院の手で百夜へと渡ったと知る前の話。情報を集めなくては、迂闊に動くことなど出来ない。そう言い訳を繰り返している刹那の間に百夜は死んだ。


『やっと愚息が死んだ。これで動き易くなる』


 口の端を歪め、厭らしく笑っていた老爺の顔が脳裏にこびりついて離れない。百夜の死が仕組まれたものだと気付いた時、全身が焼けるような思いだった。


 ──ああ、愚かな朱雀院。ならばお前も燃え果てよ。


 ゆっくりと、殊更にゆっくりと。蛇が這い寄るように、男は朱雀院達の“弱味”を集めていった。言い逃れなど許さぬように。一息に全てを灰に変える為に。

 本来であれば紅葉に全ての証拠を提出するはずだった。彼女が不慮の事故で命を落とさなければまだ幼い子供にあんな真似はさせなかっただろう。


 思えば下らない感傷に浸っていることが多かった。空になった研究室を見ていると、どうしてもやるせなくなる。

 そのおかげで水城がこの本を手に取ることを防げたのだから、まだマシだと思うべきか。


 百夜の死後、行方が分からなくなっていたこの本がどうして研究室に落ちていたのかは分からない。まるで何かに導かれて突如出現したかのように。

 思わず水城に声を掛けたが、でなければ彼女はきっとこれを開いていただろう。


 あの日この本を持ち帰って以降、当然のことながら一度として開いたことはない。それどころか何度も処分しようとした。誰かに拾われては敵わないので迂闊に他のゴミに混ぜて処分することは諦めた。だが、火に焚べたこともあるし水に沈めたこともある。魔術で分解しようとしたり、とにかくあらゆる手段を用いたが──傷ひとつつかない。読むだけで人が死ぬほどの呪術が掛かっているのであれば当然とも言える。強力な魔術はそれを更に上回る力でしか解除出来ない。

 諦めて墓にまで持ち込むしかないといよいよ腹を括ってはいるが、自分の死後もしも悪意ある者の手に渡っては大変なことになる。


「やれやれ、隠居するにも一苦労ときたか」


 メイザースの当主の座は歳の離れた弟に譲ると決めている。一時、妙な宗教に傾倒していたことだけが気掛かりではあるが……。概ね、素質としては問題が無いだろう。その宗教の件も本当に僅かな間の話であって、今はそんな気配は無い。


 心残りがないわけではない。最大の懸念要素としてはやはり水城のことだ。

 メイザースとしては孫のような思いで接していたものの、伝わってはいなかっただろう。そもそも子供すらいないメイザースに対し、水城は他人からの愛情に対して酷く無頓着だ。近付いたタイミングから考えても「メイザース一族が力を得る為に利用しようとした」といった受け取り方をしているに違いない。

 自己肯定感はかなり高いはずなのだが、自身を客観視する視点が欠けていると言うべきか。あるいは、彼女自身も気付かない間に完全に他人を見限ってしまっているがゆえの弊害か。


 御影 紅葉は甘過ぎたと男は思う。

 先々代、即ち御影 木蓮は非道ではあったが構成員達の手綱を握る気など初めから無かった。それ故に元老院の大部分が腐敗した。早くに切り捨てておけば奴らが図に乗ることもなかっただろう。二代に渡ってどうしようもないほど腐敗が進んだそれらを、ようやく水城が切除した。

 まだ問題があるとすれば、水城が過激に過ぎることであろうか。疑わしきを罰せよとはよく言ったもので、ほとんど冤罪に近しい件でも構成員の首を切ってしまう。


 嗜めはしたものの、果たしてあれで止まるか否か。


 賢しい子供だ。表向きは理解したかのように振る舞うことなど造作もないだろう。


「ですが水城様。そのようなことを続けていては貴女はいずれ独りになる」


 それでも良い、と嘯くかもしれない。事実、彼女はこれまでもずっと一人だった。根本的な部分で彼女は人という生き物に興味が無いのだ。

 ならばせめて、そのまま最後まで突き進んでくれるのならばそれでも良い。だがいずれ、彼女が己の孤独に気付いてしまったら? いつか我に返り後ろを振り返った時。己の築いた道には屍しか転がっていないのだと知ってしまったら。そこに絶望を抱いてしまったら。


 孤独という名の魔物は、時に人を狂気に駆り立てる。


「ふぅむ……」


 男はゆっくりと顎髭を撫で付ける。


 彼の、唯一の癖だ。



 ♦︎


「ということで、誠に不本意ながら得体の知れぬ存在たる貴殿が信用に足るかどうかをこの機に見極めようかと思いましてな」


 そうひと息に切り出すと、目の前の男はそれはもう分かりやすくめちゃくちゃ嫌そうな顔をした。蒼い髪と瞳をした、いつの間にか水城の周囲を彷徨いていた男だ。

 何故かは分からないがほとんどの構成員が当たり前のように彼を受け入れている。というのも、一見魔力がからだろう。

 外の魔術師が新たに構成員となるケースも少なくない。しかし……。


「組織内には魔力が必要な仕掛けが多いのですよ。特に、魔術師が触ると光る物も多く……これからは気を付けられた方がよいでしょう」

「ああ、それで……」


 男の行動を注視していれば自然と気付く。そうは言えども、確信に至るまではかなりの時間を要したが。

 単刀直入に「貴殿は魔術師ではありませんな?」という話し掛け方をしたところ、異常に警戒心を持たれてしまった。しばらく必死で引き留めたところで、先ほどのメイザースの台詞だ。メイザースとしてはこの男が魔術師であろうとなかろうとどうでも良い。魔力のあるなしで人の優劣を定める風潮もどうかと思う。

 問題は、どういうつもりで水城の側にいるのかという点だ。


「不思議と水城様は私を警戒しているようでして。何故か懐かれている貴殿とは一度話をするべきかと。水城様に仇なす者であればこの私が……」

「待ってください。その……メイザース、さん?」

「メイザースで構いませぬ。話し方もどうか楽に」


 困惑したような様子の男に対し、メイザースは姿勢を正す。

 メイザースからすれば目の前の男などまだまだ若造の域だ。だと言うのに、不思議と下手に出たくなってしまう。そんな男の海のような瞳には動揺が見て取れた。


「あんた……もしかしてミズキを心配してる? え? マジで?」


「大マジですが?」と返すと、男は片手で顔を覆って呻く。メイザースとしても、自身が誤解されやすいということは理解している。部下達曰く、「そもそも顔が胡散臭い」とのことだが、老人に対してなんという言い草であるものか。

 ともあれ、わざとらしい口調や振る舞いのせいでどうにも含みがあるように見えてしまうというのは悩みの種だ。


「貴殿もあまり人のことを言えないように思いますが?」


 ここ数日、ストーカーよろしく男を観察していたメイザースだったが、彼も彼で穏やかな口調が逆に怪しく見える。「こいつなんか企んでるんじゃね?」と邪推してしまうのだ。

「そういうことしれっと言うからさぁ、こっちも誤解するんだって……」と言うからにはやはり目の前の男もメイザースを怪しんでいたようなのでどっちもどっちと言えるが。


「……実を言うと、病のせいで老い先短く。水城様のことだけが心残りでして」


 ほぅ、と溜息を吐く。男は表情を変えなかった。

 大した話でもない。ただ、順当にこれが天命なのだろうとメイザースは思う。あるいは、だからこそ今まで立ち止まることが出来なかったとも言える。


「あの幼さで、水城様はおのが内に化け物を飼っておられます。人を殺めることに躊躇が無いという点ではございません。彼の方は、自身の目的の為であれば他の全てを踏み躙ることが出来る」


 身勝手で、利己的。

 そんな単純な言葉で言い表すことが果たして出来るだろうか?

 魔術師としての性質だと言えばそれまでだろう。だが、だとしても彼女はその傾向が強過ぎるように思う。


「押すだけで人が死ぬスイッチがあったとしましょう。今の彼の方はその脅威も分からず出鱈目に押し続けている──わけではない」

「それが何を意味するか正しく理解した上で、権力として振り翳している」


 メイザースの独り言に、目の前の男は呟きを返した。

 強大な力が見えていないのであればまだ良い。その大きさに気付いた時、恐怖して立ち止まる機会があるからだ。しかし、彼女は自身の言動が何をもたらすか知っている。


 押しただけで人が死ぬスイッチという権力を振り翳せば、死ぬ当人だけではない。その友人や家族、仲間……そうした繋がりをも脅して縛ることが出来る。


「あの歳でそれが出来るあの子は異常だよ。それも、誰に教わったわけでもなく。……断言する。彼女は間違いなく普通じゃない」

「それでも、誰かが寄り添って差し上げねば。……まだ幼い子です」


 吐き捨てるように言った男を、メイザースは意外に思う。この男は明らかに水城を憐れんでいる。だが、それとは別にその在り方を心底嫌悪してもいるのだろう。その感情が何に起因するのかはメイザースには知り得ない。


 だがまるで、水城を通して別の何かを見ているかのようだ。


「……彼女はあの歳で家族の全てを失った、ただの子供なのです。それとも、子供だと思って接することで何か不都合でも?」

「…………」


 男が確かに顔を顰めたのをメイザースは見逃さなかった。わざと意識しないようにしていたことを突かれたような、そんな表情だった。


(……もしや、子供に弱いのか。否──、であろうか)


 何の目的を持って水城の側を彷徨いているのかと勘繰っていた。だが、その動機に憐憫が色濃く含まれるのであれば、どんな目的があれど危険は殆ど無いだろう。


「……死ぬ前の憂いが一つ晴れましたな」


 ふ、と思わず笑みを溢し、顎髭を撫でる。水城を宜しく頼む、とは。口にしないことにした。


「私には彼の方の過ちを叱り付けて正す資格はありませぬ。せめて先に地獄に赴き、水城様がそこへ落ちてこられた際に追い返すくらいのことしか」


 彼女の孤独に寄り添うことは、メイザースには出来ない。そんな権利など無い。

 この先もそんな存在が現れるかは分からない。


 だがせめて、目の前の男が彼女の味方であってほしいと切に願う。


「どうか忘れないでくだされ。彼の方は本当に全く聞く耳を持たないわけではないことを。……分かって頂くには、少々根気が必要でしょうが」


 しわがれた声で笑うメイザースに、男は言葉を返さなかった。


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