終幕.母であろうとした女は、目を閉じる

 それは大罪で、関わった全ての者を処刑しなくてはならないほどだと──そう考えたのは紅葉自身だ。

 朱雀院の言葉が単刀直入な脅迫であると、気付くまでに時間はいらなかった。


 この組織は血を、肩書きを、そんなものばかりを重んじる。元老院の代表達の言葉は軽くはない。その上で、一人二人の発言権は紅葉のそれより圧倒的に下だ。しかし、それが片手では数え切れないほどの人数であったなら? 


 覆される。間違いなく。


「人体実験などという下らない理由でクロウリーの一族を追放した当主様の、その伴侶が。禁忌の領域に手を出した──果たして、元老院は許すと思いますかな? まさか。御影を引き摺り下ろし、元老院の中から“銀の星”の統括を再編成する方が合理的だ」


 この場合、もはや御影 百夜が本当にそんなものを作ったのかなどという点に拘泥する必要は無い。七年も前のことだと言い逃れすることも出来ない。そんな疑惑を抱かせた時点で泥沼に足を取られている。つけ込まれる隙など絶対に許してはならなかったのだから。


「……貴方も、ただでは済まないわ」

「果たしてそうかな。御影の姓を得た時点で、あれは朱雀院とは関わりなき者。あくまで、あれは御影 百夜だ。朱雀院 百夜ではない」


 ……実際にどう転ぶかは分からない。元老院は朱雀院を頭目どころか一族ごと切り捨てるかもしれない。現段階ではその可能性の方が高いだろう。

 そして、恐らくそれでも構わないと考えている。そうでなければこんな真似が出来るものか。


 ──刹那、紅葉はありとあらゆるものと“観測者”としての立場とを天秤にかけた。

 観測者としては、目の前の男の横暴を許してはならない。この男の手が何処まで回っているかは不明だが、それこそ強権を行使してでも朱雀院を排除しなくてはならないだろう。

 だが、それによって得られるものは何だ? 暴君の肩書き程度、紅葉自身はいくらでも背負ってみせる。それが観測者として必要なのであれば、この手がどれほど汚れても構わない。


 しかし、観測者という存在はこの先も続く。続かなくてはならない。


 紅葉によって生まれた綻びを、澱みを、押し付けられるのは──誰だ?


「……望みを言いなさい、朱雀院」


 その結論に行き着いた時、彼女は迷わなかった。彼女は気付かない。本当に彼女が、男に揶揄されたような“人形”であれば、そんな答えには辿り着かなかったであろうということに。


 朱雀院は、それこそが待ち望んでいたとでも言わんばかりの歓喜の笑みを作った。


「話が分かるようで何より、当主様。なに、貴殿はご存知かな。隷属の刻印を──」



 ♦︎


 誰もいなくなった部屋で、紅葉は静かに天井を仰ぐ。その右腕には赤黒い蛇がのたうち回ったような、醜悪な紋様が刻まれている。


 隷属の刻印とは、端的に言えば魔術のことだ。

 魔術の使用者とそれを受けた者の間で服従関係を成立させるもの。紅葉は奴隷の証でもある腕の紋様をそっと撫でる。これで御影紅葉は今後二度と朱雀院には逆らえない。紅葉の意思など関係なく、刻印を刻まれた身体は勝手に命令通りに動くだろう。


「水城を、使いたいだけだと思っていたのに……」


 重く、重く息を吐く。産まれ落ちた双子の上の娘。彼女は魔術師としての側面があまりにも強過ぎる。

 それは──危険だ。観測者が独裁者と成る可能性を秘めるあの子は、“銀の星”を私物化する危険性を常に孕むだろう。

 それは許されないことだと、紅葉の本能は知っている。


 ──そんなにも、私が気に食わないの?


 その問いに対し、男は穢らわしいものを見る目を紅葉へと向けた。それを見て、場違いにも笑ってしまいそうになった理由を今更考える。

 長らく忘れていた目だ。昔はあんなにも身近にあったのに。いつだってあの視線を向けられていたのに。


『貴様のようなの女が奴の娘であったこと。それが既に誤りであったのだ』


 するりと自身の髪に指を通す。瞼に触れる。

 銀の髪に赤い瞳。白銀とは程遠い、鈍い色の銀。真紅とは似ても似つかない濁った赤。

 どちらの色彩も珍しいものではない。だと言うのに、組み合わせだけが最悪だった。


『まるで噂に聞く悍ましいアルビノのようではないか』


 見下すでもなく、本当にただ汚らしいものを見る目で吐き捨て、朱雀院は背を向けた。


 髪は切っても生えてくる。それでは意味が無い。ならばこの両の目を抉ってしまえ──それが、紅葉が生まれて少しした時に前当主父親が放った言葉だ。自身の後継が不吉の子と断じられるアルビノの、それに近しい色彩を持って生まれたことが許せなかったのだろう。

 結局、視力を失えば観測者としての役割に支障が出るとして、前当主は紅葉をそのまま育てることにした。


 魔力を持たぬエイダが人として扱われなかったのと同じように、紅葉の容姿は周囲がまだ幼かった彼女を踏みつけにするには十分な理由の一つだった。きっと、御影の正当な後継者としての肩書きがなければ紅葉の人生はもっと早くに終わっていただろう。


 朱雀院が消えた扉を見遣る。

 何のことはない。男にとって紅葉は友人の命を奪った仇であり──ただどうしようもなく、外見が気に食わないだけであったのだ。


 その結論に至った瞬間に、紅葉は自身の中で何かが軋む音を聞いた気がした。


 どれほど謗られても若輩者と侮られようとも、ただ観測者として立ち続けた。それが役目だったからだ。それだけが彼女の存在意義だったから。

 努力をすれば人がついてくるはず……なんて、そんな夢見る乙女のようなことを言うつもりなどない。だが、それでもこの組織には全てを捧げてきた。凡庸な人生を送る夢など幼子の頃に諦めた。


 だと言うのに──言うに事欠いて、今更容姿などを持ち出してくるだなんて。


 意味がなかった。


 意味などなかった。


 何をしても、どれほど抗おうと、紅葉を見る周囲の目は予め偏見というガラスで曇っていたのだから。


「ああ、でも……それなら」


 それならば、きっと。


 娘への周囲の当たりは、自分の時ほど酷くないはずだ。


「だったら、あとは簡単なことだわ」


 空虚な呟きが口から零れる。


 紅葉が気に食わなかった者は大勢いただろう。だから水城へとその関心が向けられた。だが、御影の血そのものを銀の星から弾き出すような動きは見られなかった。

 彼らからすれば、紅葉が銀の星の統括でなければそれで良いはずだ。

 朱雀院も、言葉とは裏腹に御影以外から統括者を選び直すというのは本意ではないだろう。従う者も少なくはないだろうが、反発する者も必ず生まれる。なまじ元老院のパワーバランスが均衡しているだけに、そうした場合に舵を取れる者がいない。争いという火種が燃え上がれば、誰にも止められなくなる。


 ならば、と女は考える。


「そうよ。私は、あの子達の母親なの」


 ある種、意趣返しのような思いで朱雀院に浴びせた言葉を思い出す。咄嗟に口をついたこととは言え、それは紛れもない本心だった。


 ……事故に見せ掛けるのが良いだろう。ただの事故として片付けられれば、あとは次の当主は自動的に選ばれる。当主の座が長らく空席になることなどない。早く決めなければいけない状況に立たされれば、話し合う間もなく椿が選ばれてそれで終わる。


 そうすれば、水城だけでもこの組織から逃げられる。


(朱雀院の性格から考えて、この部屋の資料を持ち出したりはしないはずだわ。足がつく可能性がある写しも用意しないでしょう。あったとしても、私を脅した段階で処分しているはず……)


 朱雀院の狙いも、水城がいてこそ。

 そして、秘密を知るクロウリーの一族はもうこの組織にはいない。


 この研究室に残る全てが、紅葉が抱えるべき秘密だということだ。


「笑えるわよね、百夜。普段はあれほど何でもないように振る舞っておきながら……私、いつだって貴方のことばかり考えていたわ。もう遅過ぎることは分かっていたのに。だから罰が下ったのかしら」


 少しずつ消えていく、彼が生きていたという痕跡。胸が締め付けられるようだった。だから、これまで何もかもを切り捨てておきながら、結局この研究室だけは残してしまった。その場に座り込み、散らばったままの資料に視線を落とす。懐かしい筆跡で、夥しい数の魔術式が書き殴られている。


 百夜にはそんなことをするメリットがない。


 そう語ったのは自分であるのに、何故だろう。今唐突に、その言葉がどれほど滑稽であったか悟った気がした。


「馬鹿ね……こんな薄情な女に、そうまでして生きていてほしかったの? 私、貴方が死んだ日も涙一つ見せなかったのよ……。だったらいっそ、私を連れて逃げれば良かったんだわ」


 思わず笑みが溢れてしまう。伸ばされた手を振り払ったのは自分であるのに。

 今ならば分かる。彼は自分のようなお飾りの妻を、ずっと前から愛してくれていたのだろう。そうだ。あんなにも分かりやすく示してくれていたではないか。

 だから救いの手を差し出そうとして、それを紅葉自身が拒絶した。そんな愚かな女のことなど見限れば良かったのに、しなかった。そのせいで朱雀院に目を付けられた。


 妻を死なせたくないと、そんな純粋な願いを朱雀院は利用して踏み付けにしたのだ。


 一瞬でも彼を疑った自分が情けない。彼の善良さは一番良く知っていたくせに。


「大丈夫よ。貴方の罪の全ては、私が背負うわ。だって私達、夫婦でしょう? 病める時も健やかなる時も……共に在るべきだわ」


 彼が死を選んだ理由が、分かる気がした。呪いのタイムリミット? 違う。狂気に呑まれながらも、彼は自分がやろうとしていることの恐ろしさに気が付いたのだろう。もしかしたら正気に返った瞬間がその時だったのかもしれない。


 不老不死を作る魔術。人を化け物に変える魔術。数多の命を犠牲にして、ようやく完成する禁忌の術式。

 それをただの絵空事で終わらせる為に彼は自身の首を括ったのだ。最後の一線を越える前に──その罪を、紅葉に背負わせない為に。


「ごめんなさいね。貴方はこんな結末を望まないのだろうけど……私、やっぱり母親なのよ。私達の大事な娘達を、守らなきゃ」


 守ると言いながら、二人のうち一人はこの牢獄に閉じ込めることになる。その選択の愚かさを自ら嘲りながらも、これしかないことは彼女も分かっていた。


 二人とも救う未来など、初めから存在しない。


 不思議と、感情は酷く凪いでいた。緩慢な動作で通信用の魔導石を起動する。

 傲慢ゆえに、人並みに愚かな朱雀院。どうせ隷属の印で縛るのならば、真っ先にを禁じるべきだろうに。きっとそのようなことは考えにも及ばなかったのだろう。ただの人形がそんな真似をするはずがないのだから。


「医療班は総員、外へ任務へ出ている者達に合流させなさい」


 返事を待たずに魔導石に魔力を通すのを止める。万が一にも生き残るようなことがあってはならない。この部屋の全てを巻き込んで──そこで完全に終わらなくてはならないのだから。


 ……椿ならきっと大丈夫だ。次期当主としての教育は施してきた。

 あの子であれば上手くやる。ああ見えて人を使うのが上手い子だ。自分よりもよほど、人を束ねる素質がある。


(……水城は……やっぱり、心配だわ)


 椿が当主となれば、水城はたった一人で外の世界へ放り出されることになる。いつか来る別れを思うと、どう接するべきなのか分からなかった。観測者としての素質を持つ椿とは違い、あの子はあまりにも自由で──あまりにも、子供だったから。

 頼る者もなく一人で生きる未来を思えば、孤独に慣れさせるべきでは。そう思ってわざと構わないようにしてきた。だけど、彼に懐いている姿を見て思う。


 あの子は、ずっと前から我儘を言って甘えられる相手を欲していたのだと。


「母さん、そんなところで何を?」


 その声は、静かに耳に滑り込んできた。

 思わず泣きそうになってしまった理由は分からない。走馬灯という名の幻なのではないかと、一瞬本気で考えてしまった。


「……水城こそ、どうしてここに? ここは、危ないわ」


 歩み寄ってきた娘の頬を撫でる。知らないうちにこの研究室を遊び場にしていたのだろう。水城は得意げに胸を張り、「母さんを探していたんだよ」と答える。紅葉の前でだけは“良い子”でいようとする水城をエイダはいつも心配していた。「こんな歳のうちから猫を被るだなんて」と彼女が水城を叱っていた光景が今や遠い昔のように思える。


「ねぇ、母さん。これは私と母さんだけの秘密にしてほしいんだけどね」


 ぐいぐいと紅葉の服を水城が引く。昔から突拍子も無いことをよく仕出かす子だった。それでも昔はその「何か」を実行する前に母親に確認を取りに来ていた。それがいつしか、大人に何も相談しなくなってしまったのはきっと──人に期待をしなくなったからなのだろう。

 次期当主として大人に守られる椿。それに対して、水城は誰からも椿の二の次として扱われて育った。そのことを水城が不満としてこぼしたことはないけれど、何も感じていなかったはずがないのに。

 だからこの子は大人を、他人を見限った。それでもなお、母親だからと。そんな理由だけで唯一紅葉にだけは無邪気に手を伸ばす。


 ──私は、この手をずっと取らずにいたのに。


「秘密って何かしら。教えてくれる?」と。震える声でそう返すと、水城は悪戯っ子のような笑みを浮かべた。


「椿が御影の当主になったら、母さんは当主じゃなくなるだろう? だったら、外の世界で私と暮らそう?」


 ……神様はきっと、酷く残酷だ。

 外の世界へ。その誘いは、一度拒絶したというのに。そのことを後悔したばかりなのに、また同じ過ちを繰り返させようとしている。


「でもそうしたら椿が一人になるだろう? ほら、それは可哀想じゃないか。だからね、外とこの組織とを行き来出来るすべを何とか考えようと思うんだ。そうなったら家族三人、いつでも会えるんだよ。ねぇ、良い案だと思わない?」


 答えることは出来なかった。返事など返せるはずがなかった。

 どうしてもっと抱き締めてあげなかったのだろう。どうして今になってそんな当たり前のことに気付くのだろう。


「ねぇ、水城。お願いがあるの。エイダを呼んできてくれる? 急がなくて良いわ。ゆっくりで構わないから……」


 幼い娘の頭を撫でる。時間が無いのに、こんなにも名残惜しい。唐突な頼みに不思議そうにはしつつも、水城は素直に頷いてみせた。部屋から去っていく背中をぼんやりと見送りながらも、思わず小さく笑ってしまう。


 ──本当に三人でいつまでも一緒に暮らせたら、どれほど幸せだったか。


「……愛してるわ。水城、椿。愚かな母を、どうか許さないで」


 指先に魔力を流す。朱雀院が投げ捨てた紙のうちの一枚を手に取る。

 術式が複雑であればあるほど失敗した時の反動は大きくなる。紅葉には書かれている魔術式の仕組みなど毛ほども理解出来ない。だからこそ望む結果が得られるのだ。


 直後、その起爆音は銀の星全体を文字通り揺るがすことになる。





 それだけで、母であろうとした一人の女の生涯は幕を閉じた。

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