母であろうとした女は、④

 目の前の男にだけは屈してはならないと。そんな小さな矜持が無ければ、今にもその場に崩れ落ちてしまいそうだった。

 込み上げた吐き気を必死で堪える。混乱した頭では思考すらままならない──それでも、考えることを辞めればそこで終わる。そんな状況に、立たされている。


「……なにを、何を馬鹿なことを。朱雀院、それは」

「『それは百夜の伴侶であり、現当主でもある自分への侮辱になる』と、そう言いたいのかね? 紅葉よ。ははははは! もしやこの段階でなお、証拠を出せと宣うのではあるまいな! この魔術式を生み出したのがお前の伴侶であるという、その確たる証を!!」


 哄笑と共に、朱雀院は手にしていた紙束を宙にぶち撒けた。ひらりひらりと舞う白い紙には複雑怪奇な魔法陣が夥しく刻まれている。まるで無数の枝を伸ばして絡み合う大樹のような、そんな光景を幻視した。


 生物の寿命に干渉する行為は、禁忌だ。そして禁忌とは大罪だ。紅葉とて、クロウリーの一族が末姫に施した魔術がよもや禁忌に触れるのだと知っていれば対応を変えていた。追放などでは済まさなかっただろう。関わった全ての人間を処刑しなくてはならなかった。

 ただの被害者でしかない、エイダ・クロウリーすらも。


 クロウリーの一族が不死を求めた理由は、分かる。朱雀院の言うように、彼らは末姫に行き過ぎた希望を抱いた。彼女さえ魔術の至高に辿り着ければそれで良いと、欲望に狂った果てに道を踏み外した。

 だが、それならば御影百夜はどうなる? 彼がそんなものを生み出したと言うのなら、そもそもそこに至るまでの理由が必要だ。


「百夜に、そんなものを生み出すメリットがない」


 自身に言い聞かせるように紅葉は言葉を発する。ドクドクと五月蝿い心臓を服の上から押さえ付けるように胸元を強く掴む。


「良い加減なことを言うものではないわ、朱雀院。その発言だけで私は貴方を処分することも──」

「理由なら、あるではないか。私の目の前に」


 す、と指差されたのは紅葉の胸元だ。

 愉悦に歪む視線が紅葉の全身を舐めるように這う。床に落ちた紙束を踏み躙り、朱雀院は喉で笑った。

 言葉は出ない。当たり前だ、反論どころかそもそも議論が出来る前提ですらない。

 今度こそ、紅葉は本気で困惑を抱いた。よもやこの男は、ありもしない妄言を繰り返すほど老いたのだろうか? 


「ふむ、分からぬか。やはり未だ人形のような性根は変わらぬと見た。与えられた情報だけを呑み込み、自ら考えることを放棄した愚かな道具のままだ」

「……」

「だがそれで役立つのも、操り人形の使い手がいてのみ。がいてこそだった。紅葉よ。木蓮の意志すら継げぬ能無しの観測者よ。何故……何故、お前だったのだ」


 その言葉に初めて激情が乗る。囁くような声色でありながら、しかし、そこには燃えるような熱が込められていた。


「何故、木蓮の命を食い物にしておきながら、のうのうとその位置に収まっている」


 刹那、紅葉は呼吸を止めた。

 観測者の代替わり。それによって行われるのは前当主の軟禁だ。そう伝えられている。少なくとも、表向きは。


「……知っていたの」


 疲れたような溜息が紅葉の口の端から零れる。それは何処か諦めの意味を帯びている。


“銀の星”に当主は二人も要らない。“この世界”に観測者は二人も必要無い。

 一人がその後を継ぐというのなら、前任者は用済みとなる。


「そうよ。先代──父は私の前で首を撥ねられて死んだわ。当時の処刑人の手によって。役目を終え、時代へとその肩書を継承した観測者はそこで死ぬ。それこそが御影の観測者の役割」


 それを知るのは、そうやって観測者を継いだ当主とそれに付き従う処刑人のみ。そして処刑人もまた、引き継ぎが行われるのは彼、もしくは彼女が死んだ時のみだ。エイダの時は、偶然にも先代処刑人が病で世を去った。だから空いた席に彼女が収まっただけだ。そうでなければエイダ自身の手で先代処刑人を殺すこととなっただろう。


「御影の歴史は血に塗れている。そして観測者は──観測者の素質を持つ全ての御影の直系は、それをただ享受する。父は観測者よりもこの組織の頂点としての側面が強かったわ。それでも、自身の死に何の感傷も抱いていなかった」


 紅葉とてそうだ。椿が成人すればそこで彼女の人生は終わり。何も残すことなく生き、そして死ぬだけ。そこに如何程の感情も浮かばない。

 何故、観測者が複数存在してはならないのか? そんなことはどうでも良い。それがルールなら従うだけだ。自身に流れる血がそう囁いている。


「そんな話を今更持ち出して、どうするつもりなの? これは、覆らない絶対の掟だわ」

「誰に決められたルールかも知らぬくせにか」


 間髪入れずに吐き出された、呪詛にも似た言葉。それを聞いて、紅葉には分かってしまった。紅葉自身がこの男に何か恨まれるようなことをした覚えなどなかった。ただ若輩者の自分が気に入らないだけだろうと。だから向けられる敵意を気にも留めなかった。

 だが、違う。この男は心底自分を憎悪しているのだ。


「貴様ら観測者は狂っている。七年前、クロウリーの一族が起こした騒ぎをお前は狂気の沙汰だと切って捨てたな。だが私からすれば、あんな愚か者どもなど比べるまでもない。観測者の──御影の一族こそ真の狂人の集まりだ。そうだ、木蓮とてそうだった!」


 泡を食ったように叫ぶ朱雀院を静かな目で見据える。この男が自分を憎んでいることは分かる。それは、分かる。しかし、何故そこまでの感情が発露するのかが紅葉には分からない。

 先代とこの男が旧知の仲であったのは紅葉も知っていた。だが、その前に先代は観測者だ。観測者が役目を終えて死ぬことに、何故負の感情を抱くのだろう?


「私は言ったのだ! 貴様のような小娘に役目を譲ることはない、死ぬまでその座につけば良いと! 老衰なり何なりで死してから明け渡せばそれで構わぬだろうと!! だが奴は『何を馬鹿なことを』と一蹴した!」


 そうだ、馬鹿なことだ。愚かな言葉に過ぎない。

 そんなことは僅かな可能性としてすら考えられない。


「彼奴こそが私の理解者であった。だと言うのに、あれはあっさりと死を受け容れた。奴はこれまで生きた魔術師としての全てを、観測者という役目の前に捨てたのだ!」


 貴様に分かるか、と朱雀院は言う。

 分かるはずがない。この男が拘泥するものが紅葉には分からない。


「ああ、そうだ──分かるまいよ。分かるものか! ハッ、貴様がそんな女だから百夜は死んだのだ……!」


 その、言葉だけは。

 看過出来なかった。呼吸を止めた紅葉に対し、朱雀院は妄執でギラギラと光る眼を向ける。


「観測者に、置いていかれる者の気持ちなど分からぬ。私はよもや、あの出来損ないがお前のような女を死の運命から救おうともがくなど考えもしなかったがな」

「何を……」

「簡単な話だ。私は部下を使い、あれにを読ませただけ。その際に観測者の世代交代についても教えただけよ。もののついでに過ぎなかった。当主を手駒に取れぬなら、あれは邪魔なだけだった。狂い果てて死ねば、それで済んだのだ」


 そう言って笑った朱雀院が魔術を使って喚び出したのは一冊の黒い本だった。


『──禁書の閲覧許可?』


 僅か半年程前の記憶が呼び起こされる。紅葉の問いに、蒼い男は疲れたような息を吐いた。


『【ミミルの知恵】は随分優秀らしい。あの子は俺が求めるものを知っていた。……ここには、読めば死ぬと言われる本があるんだろう?』


 そんなものを使って何をする気かと尋ねる。返答によっては、娘達の側に置くわけにはいかない。それどころか即刻処分しなくては──咄嗟にそんな考えが浮かんだ紅葉に対し、彼は何でもないことのように続ける。


『燃やすんだよ。それが実在するなら、この組織の存在する意味が変わってくる。恐らくは既にだろうが……まぁ、何もしないよりはマシだろう』


 言葉の意味は理解は出来なかったが、ならば好きにすれば良いと彼女は伝えた。

 その本の存在が紅葉の職務の妨げとなったことはない。ゆえに、実在しようがしまいがどうでも良かった。そうだ、心底どうでも良かったのだ。

 いつだってそうだった。観測者としての役割を果たせればそれ以外に興味など無かった。


『きっと一目見ただけで突然死するような生易しいものじゃない。……ああ、俺は良いんだ。どうせ今更そんなものは効かないから』


 あの会話が無ければ、紅葉は朱雀院の言葉を一蹴しただろう。代わりに口から溢れたのは、掠れた吐息だった。


「実在……したの……」


 この男はずっと前から自分が目障りだったのだろう。自身の息子を伴侶にと差し出したのも、恐らくは朱雀院百夜が御影紅葉の、御影の当主の権威を奪い取ることを期待してのものだった。


 そして彼が予想だにしないことに──否、予想を遥かに上回ってと言うべきか、百夜は“銀の星”の統括としての権力や権限に欠片も興味を持たなかった。七年前の時点で、後継ぎの誕生は既に確定していた。自身の血筋から御影の後継者を出した朱雀院の立場は以前より盤石になったはずだ。


 で、あれば。


 本来の目的を果たさなかった道具に意味は無い。


「やっぱり貴方が百夜を殺したのね──もう一人の息子を私の伴侶に置く為に。その為に、血を分けた実の息子を手に掛けたの」


 自身の声色が酷く冷静であったことに、彼女は驚きを覚えなかった。怒りを抱かなかったかと言えば嘘になる。それでも、彼女の冷酷な部分はこの展開を予測していた。合理的だなどと考えてしまうことに吐き気が込み上げる。


「手に掛けた? 違うな。あれは自らの意思で首を括った。この本によって正気を失った果てに、あれは何を思ったか人を不死に作り替える研究に手を出した。よほど、お前を死なせたくなかったと見る。不死身であれば代替わりの際に死ぬこともあるまい? 完成を目前にして死んだ理由は──大凡、呪いのタイムリミットであったというところだろう」

「……まさか。そんな理由であの人がこんなものを作るはずがないわ。私がいなくなったところで百夜の地位は変わらないもの」


 権力に興味を持たない男だった。であれば、やはり解せない。紅葉が生きていようが死んでいようが彼の日常に変化があるとは思えない。


「ふん……まぁいわ。私は何もお前と下らぬ議論を交わしに来たわけではないからな」


 何か酷くつまらないものを見たかのような顔で、朱雀院はせせら笑った。

 この男が浮かべる笑みはいつだって醜悪だ。他者を追い落とすことしか考えていない──真性の魔術師としての笑み。魔術師という存在が我欲を満たす為だけに動くというのなら、確かに観測者とは相入れないのだろう。観測者に我欲など許されない。自らの欲望を優先すれば、


 そんな彼女に対し、男は宣告を放つ。


 まるで、ずっと前からこの瞬間だけを心待ちにしていたかのようにして。


「さて、現当主様よ。貴殿の伴侶が働いたこの狼藉……当人はもうこの世におらぬとは言え、まさかお咎めなしという訳にはいくまい。あれは朱雀院でなく、御影の人間であったのだから」

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