母であろうとした女は、③

『貴女はこの閉じられた箱庭で生き、そして死ぬんだね。私を、置いて』


 ──ええ。それが私の役目ですから。


『ねぇ、外を見たいと思ったことはない?』


 ──……分かりませんわ。私は、この生き方しか知らないのです。


『なら』


『それならもしも、』


『私が貴女との未来を望めば、貴女は──』


 ──やめてください。私は……貴方と共には生きられないわ。そんな事を望んではいけないのよ。


 ああ。


 ああ、だけど。


 もしも貴方の手を取っていたら……私は、何か変えられていたのかしら、百夜。



 ♦︎


 本棚に並ぶ書物にそっと手を掛ける。思えば何かと理由を付けて、この場所に足を運ぶことを避けていたように思う。

 静かに息を吐き、紅葉は暗い室内を見渡した。


「百夜……」


 その名で呼ばれた部屋の主はもういない。乱雑に散らばった魔術式のメモや実験道具も何もかも、当時のまま放置されている。まるで時が止まっているかのように。そんな事を受け入れるまでに七年もかかってしまった。……本当は、受け入れることなど出来ていないのかもしれないが。


 故・御影 百夜はこの実験室で首を括った。彼が死を選ぶ前に最後に顔を合わせたのはいつだったか、もう紅葉には思い出せない。

 そんな朧気な記憶を基にしてもこの部屋は昔から変わっていないような気がした。ただ愚直なまでに魔術を愛した彼が、研究に没頭していたという証しか残っていない。

 だからこそ百夜の死はあまりに唐突で、不可解な点が多かったのだが。


(……いいえ)


 そこまで考えてから紅葉はかぶりを振る。

 彼の死が唐突だったのは事実だ。本当に、予想だにしない出来事だった。

 だが予兆が無かったと言い切ることは出来るだろうか?


(分かっているわ。あの頃、百夜は確かに様子がおかしかった。まるで取り憑かれたかのように寝る間すら惜しんで……何かの研究に没頭していた)


 その上、普段なら頼まれなくとも研究の成果を見せにくる彼がそれに関しては聞かれても決して答えなかったことを覚えている。紅葉自身、双子の出産を控え身の回りが落ち着かなかったこともあり追及を避けてしまったのだ。


 御影 紅葉という人間が打算で動くということを彼女自身が一番よく知っている。

 分かっていた。この部屋を手付かずで残していたのは感傷から来るものではない。


 本当は恐れていたのだ。


 何か、口にするのも悍ましいようなが掘り起こされてしまうのでは──と。


(大丈夫よ。人払いは済ませた。確認するだけ……何もなければそれで良いの)


 胸の前で手を握り合わせる。

 先程調べたが、部屋中に散らばっている魔術式のメモはやはりというか子供の悪戯のような魔術ばかりが描かれていた。紅葉の知る御影 百夜はそういう男だった。

 この実験室の中で違和感があるとすれば不自然なまでにびっしりと書物が詰められている本棚だけ。

 これだけは、紅葉の記憶と食い違っている。資料代わりに使った本を元の場所に戻さずにそのままにする百夜のせいで、無駄に数がある本棚は空同然であることが多かった。事実、室内には多くの書物が山積みにされている。それこそ丁度全ての本棚に収まるであろう量が。


(過剰なまでに魔導書が増えている……?)


 だが、紅葉とて百夜の死後すぐにこの部屋を訪れている。その時は今のような疑問など持たなかった。恐らくはこの部屋そのものに侵入者の認識を阻害するような魔術が掛かっていたのだろう。魔術の発動者──すなわち御影 百夜──がこの世からいなくなり、時間の経過と共に効力が薄れたのだと考えられる。

 そして、それはつまりそこまでして隠さなければならない何かがあったということだ。


 御影 百夜という男について、紅葉が語れることはそう多くない。周囲に用意されるがままに結ばれただけの婚約者。負の感情を抱いたことは無かったが、伴侶として愛していたかと問われると紅葉には答えられそうにない。少なくとも彼の生前であればその問いには決して頷かなかったであろう。


 しかしそれでも、彼は善良な男だった。


 だが、それ以前に──恐ろしく優秀な魔術師だった。


 手に取った魔導書を開く。魔術師として生きることを放棄した紅葉には書かれている魔術式の意味も分からない。

 そんな、折だった。彼女の背後から声が掛けられたのは。


「お探しの物はこれではないかな、紅葉様」


 紅葉はゆっくりと振り返る。疾しいことなど無いはずだった。

 自分の行動は徒労に終わるはずだった。それこそを望んでいたのに。なのに。

 この男がこんなタイミングで現れた時点で、もう──。


「……朱雀院」

「ご機嫌麗しゅう、当主様」


 恭しくこうべを垂れる男を無意識に睨み付けてしまう。先の会議での無礼を水に流せるほど紅葉は寛容ではないつもりだった。それに、ある疑念を無かったことにも出来るはずがない。


「朱雀院、あなた、」

「……ふむ。奇しくもの話だよ。私の話を聞いてからでも遅くはあるまい?」


 男がわざとらしく嘆息する。彼が紅葉に見せびらかしていたのは何かが細かく記載されている紙束だ。紅葉は訝しむが、朱雀院はくつくつと笑ってみせる。


「なに、七年前に愚か者共から押収したものですよ。大半は奴らが取り上げられる前にと燃やしてしまったが……覚えているだろう? クロウリーの末姫に施された人体実験を」


 ……忘れるはずがない。吐き気を覚える所業の数々を。紅葉が全てを知った時、末姫──エイダ・クロウリーは衰弱し切っていた。繰り返された人体実験に加え、安全性の確保出来ない新術の被験体として使い潰された幼い少女。その新術とやらが何を求めた末に生み出されたものなのか、クロウリーの一族は一人として口を割らなかった。当時のクロウリーの当主は処刑したがそれでも真実は暴けなかった。

 まるで、それを明らかにすることが死よりもなお恐ろしいとでも言うように。


 目を伏せた紅葉に対し、朱雀院はぱらぱらと紙をめくってみせる。その中には白紙の紙も多く混ざり込んでいる。


「末姫に使用した術の効果は魔力の増幅を齎すものだと奴らは進言した。だが……否」


 朱雀院は意地悪く口角を吊り上げた。

 まるで、そうすることでもっとも紅葉を揺さぶれるのだとでも言うように。

 とっておきの仕掛けを、広げて見せるようにして。


「クロウリー一族が末姫に施した魔術は──である」


 ♦︎


「……何の話をしているの、朱雀院」


 小さく震える体を腕で抱き、紅葉は辛うじて声を絞り出した。目の前の男が何を言うのか心底理解出来ない。

 それなのに指先が酷く冷えて、呼吸の仕方すら分からなくなる。


「何の話も何も。不死の探究などという禁忌に触れた狂人がこの組織にいたという話ですよ」


 クロウリーの一族が不死の探究を?


 魔術開発においては凡庸だった、あのクロウリーが? だからこそ彼らは他で突出しようとエイダに固執していたのに?


 魔術には禁忌とされる領域が存在する。その中でも最も有名なものが生物に与えられた寿命を超越しようとすることだ。

 禁忌というものは誰かに教えられるわけではない。それこそ生まれた時から、常人であれば本能的に考えることさえ忌避するのだ。紅葉もそのような悍ましいことは一度として思い浮かびすらしなかった。

 だと言うのに、クロウリーの一族はそんな領域に手を出したと?


 まさか、そんなはずはないと。否定してしまってから背筋に悪寒が走る。


 クロウリー一族ではないのなら、それは。


「魔術を究める上でもっとも障害となるのは何か? その問いに関する答えを、クロウリーの者どもは寿命だと考えた。死なず、滅びず。さすればやがて、魔術の頂に届くだろうと。その希望を、末姫に託し……失敗した」


 なぜ、と言葉が浮かぶ。


 そうだ、ああ、どうして。


「……そもそも何故クロウリーの連中がそのような考えに至ったのか? そうだ、奴らは見つけてしまったのだ。それに関する研究書類を。小心者のクロウリー一族は、を持ち出すことは躊躇った。ゆえにクロウリーが所有していたのは写しに過ぎぬ。燃えたのもまた、所詮はコピーだ」


 ばさり、と朱雀院は紙束を投げ捨てた。代わりに彼が手に取ったのは、本棚に並ぶ魔導書のうちの一冊。


「クロウリーの愚者どもには、この素晴らしい術式を完成させられるはずもなかったのだよ。ああ、紅葉よ……愚かなる観測者の女よ。考えられるか? この美しくも悍ましき魔術を形にしたのが──」


 そうよ、どうしてなの。


 どうして、今更。


「この場でおのが首を括った、哀れな我が息子だということを」


 そんな真実を、暴いてしまうの……?

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