蒼玉ヘジテイト④

 後悔とは先には立たないものである。

 で、あれば。人が悔やむべきは過去にしかない。


 彼の人生とは、結局、そういったものの連続に過ぎなかった。


 ♦︎


 ──その日、“銀の星”は朝から騒然としていた。


「今の音は何事ですか!?」

「爆発事故だと!? 場所は何処だ!」

「火災が発生しています! すぐに水属性の魔術師を消火に向かわせてください!!」


 怒号や悲鳴があちこちから響き、通路を多くの魔術師達が走り回っている。それを見た秋人は顔を顰めた。

 発端はほんの数刻前のことである。地面が揺れるほどの振動と轟音が辺りを支配した。報告では何処かで何かしらの爆発が起きたという話だが……。


(……何だ? 嫌な予感が……)


 ぞわぞわと得体の知れない不気味な感覚が足元からせり上がってくる。吐き気にも似た悍ましさは到底看過出来るものではない。そしてこれは預言のような正確さを伴うことを、彼は理解してしまっていた。


 ここ数日、彼は情報収集に徹していた。彼が求める禁書は人の手に渡して良いものではない。あれは正しく祟りをばら撒く呪われたものだ。早く、一刻も早く──そう考え、この組織における末端の魔術師達に話を聞いてはみたが収穫はほぼゼロ。

 かと言って明らかにキナ臭い上層部に直接近付くのは危険過ぎる。細工して誤魔化しているとは言え秋人は魔術師ではない。下位の魔術師は欺けても高位の魔術師ともなると騙されてくれない可能性が高かった。そして正体がバレた場合は言わずもがな。特に話に聞く限り、元老院とやらは選民思想に凝り固まった連中の集まりである。六大陸に由縁のある自分など公開処刑が良いところだ。


 そういった理由から行き詰まっていた矢先だ──爆発事故とやらが起きたのは。

 人の流れに従って、秋人は騒ぎが起きている場所を探す。どうやら情報が錯綜しているらしく、行き交うほとんどの者が何が起きているのか理解していないらしい。そんな中で聞き取れた単語の中に聞き覚えのあるものが含まれていた。


「百夜様の研究室で魔法陣が暴発したんだ! 急げ、救護班も向かわせろ!!」

(……ビャクヤ?)


 一瞬、足を止める。

 何処で聞いたことがあるのか、記憶を辿ろうとして──男の背筋に凄まじい悪寒が走った。


『だけど……あの人の、百夜、の……死は……』


 憂うような女の顔を思い出す。赤い果実を思わせる瞳に幼い少女のような不安を満たして、それでも背筋を伸ばさんとして座っていた女を。

 そして数日前の別れ際、今にも折れそうなほどに揺らいでいた彼女のことを。

 分かってはいたのだ。遅かれ早かれ、彼女が傾いでしまうことなど。重圧に潰されかかっていることなど、見れば分かった。


 だが、手は伸べなかった。

 それどころではなかったのも理由の一つだが……彼自身、恐らくは彼女を心底では信用出来ていなかったのだろう。子を思う親の気持ちに、偽りなど無いと知っていたくせに。


 浮かんだ最悪の結論を何度も打ち消そうとして、しかしながら、彼の冷酷な部分が一つの答えを導いている。


 いいや、そんなはずは。


 だけど。


 それでもかぶりを振り、彼は現場へ足を向けた。向けようとした。

 ただ一つの無慈悲な通告が、鼓膜を打つその時までは。


「お願いします! 誰か……誰か、紅葉様を!!」


 炎が上がる部屋の前で、一人の女が数人の魔術師に羽交い締めにされていた。赤い髪を振り乱しながら、金の瞳を歪めて。その顔は涙でぐちゃぐちゃになっている。それはまるで幼い子供が親を求めて泣き縋るかのような、そんな。


「離しなさい、離して、お願い! 紅葉様……紅葉様が!」

「落ち着いてくださいクロウリー様! 危険です!! くっ……なんて力だ……! 救護班はまだか!?」

「そ、それが……救護班も消火が可能な術が使える者もほとんどが出払っていて……!」

「何だと!? そんな事が起きるはずは──」


 茫然と。その場に立ち尽くす中で。

 秋人は見た。燃え盛る一角の前、扉があったであろう場所。内側からの爆発で金属扉がひしゃげ、あちこちに破片が飛び散っている。そこに傷だらけの少女がへたり込んでいるのを。


「み、ずき」


 秋人の言葉に、少女の首がゆっくりとこちらへ向く。既に泣き腫らし、涙も枯れ果てたかのような渇いた瞳が男を捉えた。

 赤く、紅く熟れた瞳。そこには日頃の燃えるような熱すら無く、ただ奇妙なまでに凪いでいる。


「何が、あったんだ……一体……」


 その問いに答える者はなく。


 御影 紅葉のが回収されたのは、それから五時間後のことだった。


 ♦︎


 故・御影 百夜の研究室には多くの魔法陣の写しが散乱していた。

 今回の事故はそのうちのいずれかが暴発し引き起こされたのだろうと、そう処理される運びとなった。

 部屋と周囲一角が全て吹き飛ぶほどの爆発と被害の規模でありながら、犠牲者は奇跡的にただ一人。そして、犠牲とするにはあまりにも重過ぎる一人であった。


「……秋人」


 ノックと同時、部屋の外から聞こえた幼い声に秋人は煙草の火を消して顔を上げる。そこでようやく、明かりすら点けていなかったことに気が付いた。

 こういった時に暗闇の中で思考に沈んでしまう悪癖はどうにも直りそうにない。軽く伸びをして扉を開けると、この場所では見慣れてしまった少女が数日ぶりにそこに立っている。


「ミズキか」

「うん。……部屋に入っても良いかい?」

「良いよ、おいで」


 ミズキを招き入れ、椅子に座らせた。ついでに彼女が好むホットミルクを用意する。……あの後、事態を知り取り乱して泣き喚いた片割れの少女とは対照的に彼女はいっそ異様なほどに落ち着いていたように思う。

 肉片しか帰ってこなかった母親の遺体を前にしても。

 ミズキはぶらぶらと脚を揺らしながらホットミルクを口に含む。その顔はやはり憑き物が落ちたかのように色が無く、秋人は意図せずこんな言葉を漏らした。


「……眠れないのか?」


 答える代わりに少女は首を横に振る。

 紅葉の遺灰は、彼女の伴侶である百夜の墓のすぐ隣に埋葬された。秋人は見てはいないが、迷いの森の奥深くであるという。


 ほんの半年程度。それでも決して短いと断じて良い期間ではない。思えばいつも悲しそうに微笑んでいた女性だったように思う。


 事故が起きたあの日、この少女があの場にいた理由を彼は聞けていない。騒ぎを聞いて駆け付けたのか──それとも、初めから。


「あの日以来、椿が塞ぎ込んでいてね。エイダの姿も見ない。……どうすべきなのか、分からなくて」


 そうやって俯く彼女が、本当は誰よりも声を上げて泣き出してしまいたかったはずだ。嬉しそうに紅葉の後をついて回る姿を見かけたのは一度や二度ではない。

 それなのに、まるで他人事のように語るその口振りがかえって痛々しく思えた。


「どうなんだろうね。まだ実感が無いだけかもしれない。……私や椿と母さんは、家族と呼ぶにはあまりに遠過ぎたから」


 少女は自嘲じみた笑みを浮かべる。

“観測者”のしきたりを秋人は紅葉から聞き及んでいた。その時がくればミズキはここから放逐されたということも。

 紅葉の人柄を考えるに、彼女が娘達と距離を置いた理由はそう複雑なものではないのだろう。いつか訪れる別れの為に、彼女らが独りでも生きられるようにと。

 だが実際に訪れたその離別は、あまりにも早かった。


「……紅葉は」


 小さく、言葉が口をつく。言ってしまってから、秋人は暫し考えた。話しても良いのだろうかと。そんなことを。

 それでも少女の赤い瞳を見ていると自然と口が動いた。


「紅葉は、君とツバキを心から愛していた。……彼女は、ちゃんと君達の“母親”だったよ」


 彼女が正しい親だったのか、人として正しかったのかは秋人には分からない。

 それでも泣きそうな顔で微笑んでいた彼女の顔は覚えている。しかしミズキは静かに首を振って曖昧に笑ってみせた。


「そんなこと、君には分からないよ」


 それはきっと、彼女なりの拒絶。

 普段の秋人であればそれだけで口を閉ざしただろう。振り払われた手は二度と伸ばすことなく。そうしていつだって後悔する。


「まぁ確かに、紅葉の真意は俺には分からないかもしれない。だけど親の気持ちなら分かる」

「……」

「俺にも娘がいるからね。君は知っているだろう?」


【ミミルの知恵】により、ミズキは秋人の過去も何もかもを知っている。何処まで理解しているのかは彼には与り知らないことだが、この言葉だけで通じるだろうという確信はあった。

 男を見上げる少女は、遠慮がちに口を開く。


「ねぇ、秋人」

「何?」

「娘、さんのこと。愛してた?」

「──……」


 一瞬、呼吸が止まったのは。

 何故だろうと、静かに考える。それでも答えが出ないことに苦笑するしかなかった。


 あの手の温もりはもう思い出せそうにない。覚えていたところできっと何も変わらないだろう。

 それでも、答えなど初めから決まっている。


「……ああ、今も。俺の命なんかよりもずっと大事だ」


 そう答えた自分がどんな顔をしていたのか。彼には想像すら出来なかった。それでも、こちらを見上げるミズキの表情で失言だったと気付いてしまう。


「そう、か……」


 少女の顔は笑顔を作らなかった。いつだって自信に満ちた笑みを浮かべている彼女がふと表情を消す。

 ミズキはもう一度「そうか」と呟いて天井を仰いだ。


「母は私を、愛していたか。……君と同じように」


 その言葉の真意は秋人には分からない。目の前の少女にどんな言葉を掛けるべきなのかも。

 彼の人生はいつだってままならなかった。思い通りにならない事の方が圧倒的に多く、いつだって掌から零れ落ちるまで重要さに気付かない。

 だから全てを悔いている。己を苛むのはいつも後悔ばかりで、ゆえに前を向くことが出来ない。


「……ねぇ、秋人」


 次にこちらを向いた時、少女は覚悟を決めたような顔をしていた。赤い瞳が奇妙な色を帯びている。それは先程までの諦観ではない。


 今でも思う。この時、彼女の瞳の奥に宿る光の意味を理解出来ていたのなら。


「君という個人のを見込んで、お願いがあるんだ」


 せめて彼女の言葉に無言を貫くのでなく、僅かであれ否定していれば。不自然に昏く笑った彼女の違和感さえ指摘していれば。


「協力、してくれるだろう? を、君は、見捨てたりはしないだろう……?」


 あのような悲劇は起こらなかったのでは──と。

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