母であろうとした女は、②
(どう、すべきなのかしら)
もう何度目になるかも分からない溜息をそっと吐いて、紅葉は天井を仰ぐ。
最近は一層“べったり”になったエイダは書斎の外に待機している。それが彼女の望むことならば良いだろう。本音を言えば二人の娘の世話係から外した際に暴れるものと思っていたから、エイダがすんなりと受け入れてくれたことは紅葉からすれば喜ばしいことであった。
外見とは違い、彼女はまだ十三歳。自分のせいで大人になることを強いられてしまったエイダがせめて好きに生きられれば良いと、紅葉は思う。
その一方で紅葉が驚いたのは、存外、
椿はともかく、水城は割と気難しい。とにかく気に入らない相手とは絶対に折り合いを付けようとはしないのだ。何が気に食わないのかエイダとはどうしてもそりが合わないままだった。それが素直に言うことを聞く……とまではいかないものの、連日楽しそうにしているのだから良かったのだろう。付き合わされる彼は堪ったものではないかもしれないが。
加えて。四六時中水城と共にいた椿が別行動を取ることが増えたことも、もたらされた変化の一つである。これが良いことであるのかは紅葉には分からない。
下の娘のことだ、きっと姉よりも心配すべき対象が見つかっただけの可能性がある。
しかしそれらの些細な変化では拭えない暗雲が立ち込めるのが現状だ。
大きな問題ではなく、小さな綻び。そんな目に見えない違和感が多過ぎる。
(やはり気になるのは元老院だわ。ここ数年……目に余る)
先の会議を思い出す。以前から彼らが自分やエイダをよく思わないのは理解していたが、あんなにもあからさまに嫌味をぶつけてくることはほとんどなかったはずだ。
エイダも、そして何より紅葉自身も、「言いたい者には言わせておけば良い」というスタンスだが、元老院は明らかに増長している節が見られる。
魔術師は、時に己の利益の為に信じられないような暴挙に出る。
自身の身を切る程度で済むならばまだ良い。だが魔術師は自分以外の犠牲を選ぶ。自身を贄に選んでは、『結果』を見届けることが出来ないから。
魔獣を召喚する為にと魔術師の子供を大量に生贄にした事件が起きたのは何年前だったか。
しかしこの場合悲劇であったのは、大量の死者が出たことでもそれだけの被害を出しても魔獣と呼ばれる生き物を喚び出せなかったことでもなく。
その事件を耳にした第三者が一人として悲劇と捉えなかったことだろう。
『魔術の栄華を極める為には必要な犠牲だ』
『恥じるべきは、成果を出すこともなくただ命を落とした愚者達の方だろう』
観測者としての素質よりも魔術師としての側面が強かった先代の御影
当時幼かった紅葉がそれを異常だと認識出来たのはきっと、先代の妻──つまりは紅葉の母親が、新種の魔術の開発実験の最中に
あれ以来、自分の“魔術師としての側面”は死んだのだと思う。
観測者の顔だけを残し、御影の当主の座を引き継いで。
以降、紅葉は許可なき魔術実験を全面的に禁止した。クロウリーの一族のように規則を破るものもいるが、表立った犠牲は少なくなった。
「貴方は、どう思われますか。この組織の現状を」
紅葉はようやく目の前の男に意識を戻す。人の書斎の本棚を勝手に漁っていた彼は──秋人は、億劫そうに肩を竦めた。
「どうも何も。これでよく舵が取れるな」
男の口元が皮肉げに歪む。魔術師ではない彼の視点は紅葉に近い。
紅葉は彼に娘達と共にあることを命じただけで、それ以外は特に指示を出さなかった。だがこの男は彼なりに組織内の情報を集めていたらしい。
魔力を持たない彼への風当たりの強さを案じたのも束の間、驚くべき事に秋人は周囲の魔術師にも当たり前のような顔で受け入れられていた。「魔力を持っているように見える細工をね」と、そう笑っていたものの、何をどうやったのかは聞けていない。
「元老院、だっけ? まさしく老害だな。あれは確実に裏でも色々やってるね。癌は切除することでしか処理出来ないよ」
「頭を刈り取ったところで替えがいます。元老院は代表が表に出てくるだけでそれぞれの一族全てが含まれますから」
「とは言え、一族諸共処分するには理由が無いし、何よりまだ右も左も分からないような子供も対象になる……か」
今となっては元老院というシステムそのものを無くすことは不可能だ。しかし、放置していては取り返しがつかない事になると本能が警鐘を鳴らしている。
「もう、“観測者”というシステムそのものが限界なのでしょうか」
目を伏せ、思わず弱音にも似た何かが口から零れた。予想よりも大きく重く室内に響いたその意味を、強く噛み締めるように紅葉は唇を引き結ぶ。
観測者が“銀の星”を統括しなければならない。
そもそもこの前提が邪魔なのだ。紅葉自身、別に好きで魔術師を束ねているわけではない。観測者としての役目を果たす上で必要だから“ついで”でやっているだけのこと。
そして高位の魔術師達はそれが気に食わないのだ。
随分前から考えていたことだ。理由すら分からないこの慣習さえ捨ててしまえば済む話ではと。
だが、紅葉は同時にこうも思う。長く続いてきた「御影」の中で、同じように考えた当主はただの一人もいなかったのだろうか? と。
「ああ、それは──……やめた方が良いな」
紅葉の思考を読んだかのように男は呟いた。その瞳に浮かぶ感情の色が何なのかは分からない。それでも奇妙なまでに凪いだ言葉が、得体の知れない説得力を生む。
「娘に同じ重荷を背負わせたくないのは分かる。だけど、駄目だ。決められている規則を破れば怒りに触れる」
……それは、誰の? そう問い掛けた紅葉に彼は答えなかった。
追及したところではぐらかされるだけだろう。付き合いも短く直接関わった経験など初対面の時以外では無いに等しいが、この男がそういう人間であることは分かっているつもりだ。
距離を詰めればその分だけ、いいや、それ以上に離れていく。その線引きだけが奇妙なまでに頑ななのだ。
(怒りに……触れる)
漠然としたその言葉が酷く不気味な響きを帯びる。
そう言えば以前何処かで、似たような言葉を聞いた気がした。「魔術師は、あれの怒りに触れたから、だから」「だからゆっくりと滅んでいくのだろう」と。そんな事を笑って言った彼は自らの意思でこの世を去って。
まるで彼の死すらも運命だと言わんばかりのこの日々が、どうしようもなく嫌になる。
「この場所にはきっと、真相……いや、深層に触れた人間がいる。だけど迂闊に手は出せない。選択を誤れば、怒りは魔術師という存在そのものに向かうだろう。そうなれば魔術師は滅ぶ」
謳うように、呪を紡ぐように。そして、ただ淡々と、記された事実を読み上げるかのように。
そうやって嘯いた男は、ここへ来てようやく紅葉と視線を交わらせた。
それを正面から捉えて紅葉は息を呑む。
これまで、どうあってもただの人間にしか見えなかったその男が、まるで、得体の知れない何かのように見えてしまったから。
仄暗い部屋の中で、蒼い瞳が僅かに光を帯びているような気がした。
思えば、初めて見た瞬間からこの男の目だけは苦手だったように思う。虚無を映す空っぽの瞳が、忘れていた不安を思い起こさせるのだ。
しかし彼が纏う空気はすぐに普段通りのものに戻り、男は面倒臭そうに腕を組んで壁に背を預けた。先程目にした光景が夢か何かだったかのようなその掴み所の無さが酷く息苦しい。
それに気付いているのかいないのか秋人は軽く息を吐く。
「厄介だよ本当に」
「あの、滅ぶ……というのは? 魔術師は既に衰退の一途を辿っているように思いますが」
「ゆっくりと朽ちていくはずのものが、一息に叩き壊されるってことだよ。まぁ、違いは終わりに到達するのが遅いか早いかだけだろうけど。……今は恐らく執行猶予のつもりなんだろう」
秋人はそこで何故か自嘲するような笑みを浮かべた。それには気付かない振りをして紅葉は一度目を閉じる。
滅ぶ。滅ぶ。その言葉を頭の中で反芻する。
意味は理解していても、いつかそうなるのだと分かっていても、どうしても真にイメージすることは難しい。
“魔術師”はいつか潰える。ゆっくりと力を失っていく魔術の歴史を見ればそれは最早確定事項で、自分が何をどうしたところで変えられないものだと思っている。
「その“深層に触れた者”とやらの目的は何でしょうか。魔術師を、絶やすことが望みでしょうか……?」
その者のせいで、何かの怒りが魔術師へ向くのだと言う。
だとすればその者は魔術を憎んでいるのだろうか。いっそ魔術師という存在を終わらせてほしいと願うほどに。
紅葉の言葉に、男は「さぁ」と肩を竦めた。紅葉は眉を顰めたが彼は別にふざけているわけではないらしい。存外、真面目な調子で話を続ける。
「崇高な理念に基づいて動いているのかもしれないし、意外と目的なんて何も無いかもしれない。偶然辿り着いただけの可能性だってある。それに、あれは怒りの沸点が低いんだ。些細なことで怒り狂う」
「……」
「良いんだよ、君は分からないままで。不用意に踏み込んで良い領域の話じゃないから」
「では、どうしろと言うのですか」
予想していたよりも遥かに恨みがましい声色になり、紅葉は小さく謝罪した。
だが本心だ。それでどうしろと言うのだろう。
「どうしようもないさ。いや、言い方を変えよう。……何もするな」
強められた語気に、紅葉は押し黙った。
秋人は頭痛を堪えるように片手で顔を覆う。それを見て余計に何も言えなくなり、彼女はただ彼の言葉を待つ。
「ああ、うん、悪い。言い方がキツかった。でも本当に頼むよ。人が手を出してどうにかなるような話じゃないんだ」
その言葉に懇願にも似た響きが混ざり、紅葉は困惑する。彼が誰を案じているのかが分からなかったからだ。
だから頷くことしか出来ない。それに対して男が見せた安堵の表情の意味も理解出来ないまま。
そうして、「こっちで色々調べてみるから」と言い残して、彼は書斎から立ち去ってしまった。
「……ああ」
吐息を吐き出して、天井を仰いだ。部屋に不気味なまでの静寂が戻ってくる。日頃慣れ親しんでいるはずの静けさがこの時ばかりはやけに悍ましく感じた。
その恐怖が身を縛る。麻酔が解けて痛みを思い出すかのように、蓋をしていたはずの感情が呼び起こされる。
(分からない、分からないのよ……私は、どうすれば良いの……)
何もするなと、その言葉に頷いたのは自分だ。だが本当にそれが正しいのだろうか。
自分はいつだって自身の意思を持っていない。子供の頃は父の言いなりになり、疑問を抱くことさえやめて。
今だってそうだ。決定権はあれど、それを決断する勇気が無い。
魔術師の滅びに恐怖など無い。“何か”の怒りに触れてしまう、というのも。
じゃあ、自分は何に恐れているのだろう? と紅葉は自問する。
地位に関する執着も、魔術師という肩書きへの誇りも、何も無い。何もかもが空っぽの、観測者という名のただの人形。これまではそれで良く、そしてこれからもそう生きるのだと思っていた。なのに。
そもそも、昔はこんな感情など知らなかった。自分は観測者として生き、ただ死ぬのだと信じていたから。それなのに今となっては観測者という立場すらも放り捨ててしまいたいとさえ考えている。そしてその反面で、自分を客観視する自身の側面が、そんな自分を理解出来ないのだ。
この感情を恐怖と呼ぶのなら、怖れていることは一つだけ。
(そう……私は、怖い。だって、もう、)
喪いたくないから。
思い返せば、七年前からだ。側にいて当たり前だった人間がある日突然いなくなり、もう二度と帰ってこない。
その事実を理解してしまったが最後、駄目だった。またいつか同じように、二人の娘までをも喪うかもしれないのが嫌だった。
だから。
「そう、だわ。聞き覚えがあると思ったら……“深層”って、確か」
蒼い、空のような瞳で笑っていた男の顔を思い出す。
彼の遺体が発見されたのは彼の研究室だった。意味深な言葉を遺して、何の前触れもなくこの世を去った彼女の伴侶。
「百夜が、最期に……」
故に。彼女は選ぶ。
自身の意思で、立ち上がる道を。
「──行かなきゃ。あの人の実験室へ」
それが自ら破滅を手繰り寄せると、頭の片隅で理解していたとしても。
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